誘拐 3
誘拐 3
拝啓 この手紙を発見した誰かさん
もしも今日、世界が滅亡するのなら、私は喜びにむせび泣くでしょう
きっとこの意味は、私以外の誰にもわからないと思います。
だけど、理解してほしいわけではありません。
それなのに、なぜ、手紙として残すのだろうと不思議に思われるかもしれませんが、ただ誰かに聞いてほしかっただけなのです。
だから、返事などはいりません。
計画を実行するために、この日に備えてきました。
だけど、備えるだけで実行する勇気はなかったような気がします。
今日がだめだったから明日、明日がだめだったからその先、そんな風に先延ばしにしてきたのは、ただ、この背中を押す最後の要素が足りなかったからでしょう。
だけど、やっと、全てが揃いました。
自分がこれほどに大それたことのできる人間だとは思っていませんでしたが今日なら、それができそうな気がするのです
思えば、私が産まれてからしてきたことと言えば、誰かを失望させることだけでした。
もしも時間を戻すことができるのであれば、母親のお腹の中まで戻ってこの肉体を返すでしょう。
受け取ってもらえるのであれば他の人にあげたっていい。
私よりもきっと、うまく生きていけるはずです。
だけど、一つ誤解してほしくないのは、
悲しんでほしくて、こうしたわけではないということです。
また、泣いてほしくて、こうしたわけではありません。
ましてや、苦しんでほしかったわけでも、後悔してほしかったわけでもありません。
ただ、自分の意思を、表明したかった。それだけなのです。
馬鹿みたいだと思うでしょう。愚かだと笑うかもしれない。
だけど私は満足です。
これでよかった。
これは、私の罪です。
だから、どうか、誰か私を断罪して。
そして許さないで、忘れずにいて。
どうか、お願いです。
敬具
*
*
雑貨屋さんの前で車から降ろされた私がまず向かったのはコンビニエンスストアだった。
そこで、本棚の横に並んだスポーツ紙を引き抜き、日付だけを確認する。
今日はAに誘拐されてちょうど10日目だった。
Aに返却されたスマホはとっくに電池が切れていた為使い物にならなかった。
ついでに簡易充電器を購入しようと思ったのだけれど、案外高額だったので、思い直してパンとジュースだけを買った。
そしてそのまま、家には帰らず近くのインターネットカフェに寄る。
平日の昼間だというのに、制服でうろついている高校生が多かった。
その為、誰にも見とがめられることはなく、そういえば、今はテスト期間だったことを思い出す。
私の通っている高校は近所でも名の知れたお嬢様学校だ。
街の様子を見ていると、女子高生が行方不明になっているとか誘拐騒ぎが起きているというような喧騒は見られない。普段と変わりない、雑多で、それでいて物静かないつも通りの街並みだった。
私の不在は、学校でどのように扱われているのだろうと、今まで考えもしなかったことが頭を過った。
しかし、今はそんなことよりも優先すべきことがある。
知らず内に歩調が速くなっていた。
ネットカフェの薄暗い店内で、明らかに旧式なパソコンを起動させると一つ深呼吸してから、キーボートに指を滑らせる。
都道府県、畑、転落事故、大雨、女子高生……検索ワードを一つずつ増やしていけば、これかと思える記事をあっさりと見つけ出すことができた。
ほとんど苦労することなく、知りたい情報を得られる。
Aの妹である『串木野
くしきの
百合葉
ゆりは
』という名前を。
小さな町で起きた、差して特別でもない事故であった。
きっと新聞にも掲載されただろうが、決してトップ記事ではないはずだ。
お知らせ程度に、たった数行で締められた文章だったに違いない。
実際、私は、そんな事故があったことさえ知らなかった。
だけど、彼女は確かにそこに存在していた。
―――――私は、彼女を知るべきだ。
Aは写真を見せてくれたけれど、あんなたった一枚の写真が彼女の全てであるはずはない。
事故の日付を確認すれば、たった2年前の出来事だった。
彼女が最近の女子高生であればSNSのどこかに、痕跡を残しているはずだ。
個人情報保護がどうのと叫ばれている時代ではあるが、いともあっさりと自身の個人情報を開示している時代でもある。
串木野百合葉という名前で検索すれば、驚くほどの情報が出てきた。
全国的にはごくごく小さな事故ではあっても、地元的には大事件だったようで。
彼女のことを調べたのは私だけではないようだった。
その足跡を辿っていけば、彼女を見つけ出すのは難しくなかった。
今でも、噂話程度に出現する彼女の名前。
そこから分かるのは、彼女の友人たちが今でも、彼女の死を悼んでいるということ。
百合葉がいなくて寂しいと。
百合葉がいないことが信じられないと。
百合葉に会いたいと。
『はじめまして、みさちゃん』
頭の中に、唐突に蘇る優しい声。
ふわふわとした外見と同じように、声音まで愛らしい人だった。
Aから写真を見せられたときは気付かなかった。
彼女との邂逅はたった一瞬だったから。
だけど、検索できたいくつもの写真の中で、彼女の様々な表情を見ているうちに思い出した。
―――――私は、彼女を、串木野 百合葉を知っている。
Aは、いや、永智は、それを私に知ってもらいたかったのだろう。
この誘拐事件が、どこに結びついているのかを察して欲しかったに違いない。
*
*
ネットカフェから出ると、今度は事故があったという現場まで行くことにした。
ずっと室内に居たので気付かなかったけれど、すでに日が傾きかけている。
立ち並ぶビル群の向こう側で強い光を放つ様子が目に突き刺さるように眩しい。
普通電車しか停まらない小さな駅。
それが永智と百合葉の住んでいた街だった。
ネットカフェでプリントアウトした地図を頼りに、徒歩で現場まで向かう。
ずいぶん歩くような気もしたし、目と鼻の先のような距離だった気もする。
そこは永智が説明した通りの場所で。
だけど、壊れていたはずの柵は全て新しいものに交換され、さらにフェンスまで設置されていた。
車が激しく衝突しない限りは、絶対に大丈夫だと思えるほどの完全防備だ。
きっと2年前の事故があったからこそだろうと思う。
大人が二人並んで通ることは難しいと表現したとおりに、本当に細い道幅だった。
その道を、下って、下って。
そして現場まで辿りつく。
そこには、未だに、花が置かれていた。
朽ちていないところを見れば、つい最近も誰かが供えに来たことが分かる。
彼女のその名に相応しく、土の上にそっと置かれていたのはカサブランカだ。
大きな白い花びらに隠れるようにして、友人たちが書いたのだろう色紙も置かれている。
こんなところに野ざらしで置いたって、すぐにボロボロになってしまうに違いないのに。
それが分かっていても、彼女へ何かを捧げたかったのだろう。
『会えなくて、寂しいよ』
本音が記されたその文字は少しだけ滲んでいた。
私も何か持ってくるべきだったかもしれないと思ったが、財布にはもうお金が入っていない。
元々所持金が少なかったのだ。
お嬢様学校に通っているくせに、私の財布はいつも、昼食代に色をつけたくらいしか入っていなかった。
たくさん持っていると、何をしでかすか分からない。とは兄の私に対する評価だ。
確かにそれは間違いない。
私はただ、ごく普通の女子高校生であり、その一方で決して普通ではないだろう生活を送っていた。
制服の上から、鎖骨の下あたりを撫でる。
そこには、小さな手術痕があった。
別に病気だったわけでも、怪我をしたわけでもない。
ここには、あるものが埋まっている。
『いちいち、捜すのが面倒だ』
兄は、眉間に皺を寄せて嘆息した。
『せっかく金があるんだから、有用に使わなければな』
硬い話し方をする人で、抑揚の伴わないその声は家族といえどなぜか不安感を煽った。
兄に、感情があるとは思えない。
実際、泣いたり怒ったりしたところを見たことがない。
微笑みはいわゆる武装と一緒で、顔に貼り付けてはいるけれど喜んでいるわけでも楽しんでいるわけでもない気がした。
自分を演じる為の仮面と同じで、こめかみに指を引っ掛ければ簡単に剥がれ落ちてしまうような気もした。
だけど、兄はそんな迂闊なことはしないだろう。
手の届く距離に、ましてや攻撃を受けそうな距離に他人を置くことはない。
誰よりも警戒心の強い人間なのだ。
そんな兄が、ある日、自宅に連れて来た少女。
それが、百合葉だった。
たった一度、自宅の廊下ですれ違っただけだ。
彼女は兄の後ろを歩いていて、あらかじめ妹がいることを聞いていたのか私の名前を呼んだ。
はじめまして、と。たったそれだけを口にした。
初対面なのだから当然のことなのかもしれない。
会話らしい会話もしなかった。
だけど、その大きな瞳の優しい眼差しがやけに印象的だったのだ。
返事をしたかどうかさえ、覚えていない。
その後は、兄に急かすように促されて、客間へと姿を消した。
いつ帰ったのかも知らないし、彼女と兄がどんな関係なのかも知らない。
恋人同士という言うには年の差がある気がしたし、あれほど合理的に物を考える兄が未成年を相手にするとは思えなかった。
感情よりも理性を優先する人間だと知っている。
経営している会社をいかに大きくするかということと、会社が生み出す莫大な利益をどう使うかということに時間の全てを費やすような人間だ。
そんな兄が恋愛に現を抜かすとはどうしても考えられなかった。
だからこそ、そこに発生する違和感に悪寒が走る。
百合葉と兄、そして永智と私。
永智はきっと何かを知っていて、私を誘拐したに違いない。
そして、そこに兄が関係していることは間違いないだろう。
私は何かの「駒」だったのだろうか。
百合の花を見下ろすようにして手を合わせれば、瞼の裏を過ぎる家族の肖像。
永智が見せてくれたのは、幸福をそのまま切り抜いたかのような写真だった。
そんな美しい風景を思い起こしながら、耳に蘇るのは、
『生かされているだけでも、有り難いと思え』
指先まで冷えていくような、温度のない兄の声。
優しい声など掛けてもらったことなど一度もない。
実の兄妹だというのに。血が繋がっているにも関わらず、他人よりもずっとずっと希薄な関係だ。
だけど、声を掛けてもらえるだけマシなのかもしれない。
だって、両親とはここ何年も視線さえ合うことがないのだから。
以前は違っていたような気がする。だけど、差して変わりかったような気もする。
母は、私を抱き上げることを厭った。触れることさえ嫌だと言った。
面と向かって、憚ることもなくそう言ったのだ。
それからはもう、近づくことさえ恐ろしくなった。
手を伸ばせば振り払われることを知っていたから、初めから伸ばさなかった。
声を掛けても聞こえなかった振りをされるから、初めから声を掛けなかった。
私に背中しか向けることのないその人に、これ以上、嫌われるのが怖くて顔を上げることさえできなくなった。
そうやって下を向いている内に、誰もいなくなったのだ。