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誘拐  作者: 翡翠
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誘拐 2

誘拐 2


私たちは、10日間、一つの部屋で過ごした。

「たった10日」なのか、「10日間も」なのか私には判断できない。

その間、Aは私に危害を加えるようなこともなく、ただただ一緒に過ごしているだけだった。

特に何かを要求されるわけでもなく、彼は日常生活を送っているだけで、私はその付録といったところか。

一度も外出しないということだけが異質なだけであり、他に何かが発生するわけでもない。

何の用事もない休日を室内で過ごしているだけのような、連休を持て余しているかのような、凹凸のない日々だった。

手錠で繋がれているので、私は『ただ生活しているだけ』であるAの後ろを着いて周り、トイレとお風呂のとき以外は常に一緒だった。

テレビで見る、密着取材というのがこんな感じなのかもしれないと思う。

そうであれば、私はカメラマンかもしれない。Aをこの目に映しこんで、脳みそという記憶媒体に溜め込んでいくのだ。

これがもしもドキュメント番組であれば、視聴者からクレームがきそうなほどに面白みのないものに仕上がっただろう。

何か特別なことが起こるわけでもなく、飽きるほど、同じ動作の繰り返し。

朝起きて、だらだらと日中をやり過ごして、ご飯を食べて、お風呂に入って寝る。


けれど、普通だったら窮屈に感じそうなそんな生活も、Aが甲斐甲斐しいおかげか差して苦しめられることもなく。一日のほとんどを映画鑑賞に費やしたって辛くはなかった。


時々は、二人で洗濯をしたり、掃除をしたりした。

時間を潰すためだけのものだったけれど、案外面白くて。

体勢を変えるために繋がれた手の下を潜れば、腕がねじれたとAが笑う。痛がりながらも笑う様子が可笑しかった。

室内に洗濯物を干して、ふんわりと香る柔軟剤に鼻をひくつかせれば、「もうちょっと抑えめな香りのものがいい」とAが不満そうに言う。

フローラルな香りは悪くないが臭いが強すぎると不満を口にしていた。

違う柔軟剤を使えば、と提案すればまだ使いきってないんだよと苦笑する。

案外、堅実なのだと思った。

そうして乾いた洗濯物は、二人で協力して畳んでいく。利き手が自由にならないので上手く折り曲げることができない。勝手に唸り声が出る。

「まぁまぁ落ち着いて」と動物でも宥めるように彼が肩を竦めた。

元はと言えば、私の右手を拘束しているAのせいなのだけれど。

あまりに暢気な雰囲気を醸し出すものだから、ムキになるのも変な気がして口を噤んだ。

そんな私をちらりと見て、彼は笑みを落とす。


夜眠るときには、誘拐された当初に寝かされていたシングルベッドに並んで眠った。

とても狭かったけれど、私の平均よりも小さめの体格が役に立って、壁側の端に寄れば体が触れ合うことはない。

向かい合って横になれば、手錠で繋がれた二本の腕が、寄り添うにようして並ぶ。

誘拐初日に、制服では動きにくかろうと、Aに渡されたのはジャージである。

昼間は洗練された格好をしているのに、夜はジャージ派らしい彼と並べば、まるで揃えたように同じ格好となる。

「カップルみたいじゃない?」というAは、変えの分のジャージまで数枚用意していたようだ。

私用に購入していたのか、他の誰かのものなのか。よく分からない。


誘拐された当初、学校帰りだった私は当然、制服だった。その姿のまま手錠をはめられていたので、ジャージを渡されたところで、右手を拘束されていては着替えることなどできない。

そう主張した私にAは「そりゃそうだ」と笑みを落とした。

そしてあっさりと手錠を外し、そのまま洗面所へと誘導したのだ。

ダイニングキッチンの扉を開けると廊下があり、右手側に洗面所とトイレの扉が並んでいた。

洗面所と浴室は一緒になっている。

変なことをされるのかもしれないと身構えたのはほんの一瞬で、洗面所の中へ入れば、扉の向こうから「ついでにお風呂入ってきなよ」と軽く言われる。

そのときAは既にその場から離れつつあった。

そこでふと考える。

廊下の奥は玄関だった。

浴室はここだよ、と案内されたそのとき、私の目はしっかりとその扉を捉えていたのだ。

恐らくきちんと施錠されているに違いない。チェーンが掛かっているのも見えた。だけど、



―――――今なら多分、逃げられる。


閉ざされた洗面所の扉に鍵はない。

少しだけ心臓の音が早くなった。

けれどドアノブに指をかけたそのとき、彼の「タオルは浴室に準備してるからね」という声が聞こえた。

ふっと、肩から力が抜ける。

彼の優しい声は、なぜか、私から闘争心を奪うのだ。

その一言がなければ、何をしていたか分からない。それこそAともみ合いになるくらいには暴れたかもしれなかった。

しかし、彼の声に何となくやる気を削がれてしまったのだ。

もしくは、誘拐されたという特殊な状況下で、冷静な判断が下せなかったのかもしれない。

逃げ出してもいいと言われれば、逆に、逃げ出せないような気分になるし、本当にそうすることが正しいのか分からなくなる。

Aが間抜けなのか、もしくは試されているのか。案外、何も考えていないのかもしれなかった。


私は結局、目の前の問題を後回しにすることにした。


誘拐されたという事実に、疲れていたのかもしれない。Aの提案通りシャワーを浴びることにしたのだ。

逃げ出す機会なら、他にもあるだろうと思った。


そして、本来なら私を監視しておくべきAは、こともあろうに料理の下ごしらえにいそしんでいた。

お風呂に入っている間も特に急かされるようなこともなく、浴室から出れば包丁を持ったままこちらに視線を寄こした彼は「ちゃんと暖まった?」とおよそ誘拐犯らしくないセリフを言う。

こくりと肯けば、包丁を置いたAに再び右手首に手錠をはめられた。

ごくごく自然な動作で、乱暴な感じもなく、緩やかにカシャリと繋がれる。

痛みも何もなくて、ただ手を繋いだみたいに、優しく捕われた。

こっち側に立ってと言われて、Aの利き手とは逆の方に移動する。

戸惑いつつも、指示どおりに動く私を見て微笑むA。

その後は、料理をする彼の様子を眺めて過ごした。


Aがお風呂に入るときには再び右手を解放され、部屋で自由にしてていいとまで言われる。

逃げ出してもいいと示唆されているのかと思うが、それはそれで何だか恐ろしいような気もして。

浴室の前に座り込むしかなかった。

やがて浴室の扉を開けたAは、床に座り込んでいた私を見て僅かに驚く。

もしかしたら、逃げ出すと思っていたのかもしれない。

だけど、目があった途端に綻ぶように笑ったのだ。


嬉しそうに笑う彼を見て、逃げ出せばよかったと、本気で思った。


そんなことをつらつらと思い出しながら、すんと息を吸えば、柔軟剤の香りがした。

ソファの隅に畳んで置いてある洗ったばかりのシーツからなのか、もしくは着せられているジャージから漂っているのか分からない。それともこの部屋全体に充満しているのかもしれなかった。

彼があまり好きではないと言った香りだ。

けれど私はその香りが嫌いではない。


だからこの先ずっと、この香りを忘れることができないのだろうと、何となくそう思う。


いつものように映画鑑賞をしながら、馬鹿なこと考えているなと首を振った。

すると、いつから見ていたのかAが私の顔を覗き込んで「思い出し笑い?」と首を傾げる。

いくら彼の瞳が大きいとは言え、自分の表情まで確認することはできない。

本当に笑っていたのかどうかは分からないが、ずっと観察されていたのだとすれば、むしろ笑えない。

「見ないで、」と囁き、彼の視線から逃れるように前へ向き直って目を閉じた。

ふっと落ちたのは吐息のような笑い声だったと思う。だけど、彼はそれ以上追及することもなかった。

瞼の向こうが明滅しているのは、テレビ画面の明かりだろう。それが不快で眉を顰めれば、ぷつんと音がして真っ暗闇が訪れる。

Aがテレビを消してくれたのだろう。

眠っているわけではないとお互いに分かっているが、そのまま何も話さずにいた。

目を閉じたままソファの前に座り込み、ただ沈黙を受け入れる。それはいわゆる瞑想というやつだったかもしれない。

静かな空間に呼吸音だけが続き、そして、ゆっくりと全ての音が溶けて消えていく。

身じろぎをする音さえもなくて、もしかしたら世界は終焉を迎えたのだろうかと、やっぱり馬鹿なことを思った。


真っ黒な焼け野原に、たった一つだけ残されたこの部屋。

部屋を囲んでいるのは灰色の空と淀んだ空気、空中を舞うのは火の粉と粉塵だ。

だけど、二人だけの生き残りである私たちはそれを知らない。

扉を開ければ、そこには地獄絵図が広がっているというのに、この部屋だけが何の影響も受けていないのだ。

それも案外面白いかもしれないと考えて、自分が夢の住人になってしまったことを知る。


触れていないはずの右腕に、彼の体温を確かに、感じた。



「俺にはね、妹がいるんだよ。いや、正確には『いた』かな」


そんな毎日を繰り返していたそのとき、Aはぽつりぽつりと何事かを語りだした。

あるときは眠る前にベッドで、あるときは朝食のときに、あるときは映画鑑賞をしているその最中に。


別に、差ほど仲の良い兄妹ではなかったという。

世間で言うところの『仲良し』がどの程度のものかは知らないが、お互いに深入りすることもなく、かと言って素っ気無いわけでもなかった。

誕生日に家族みんなでお祝いしていたのは子供の頃までで、Aが高校生になった頃には「おめでとう」くらいは口にするがプレゼントなんて用意しなくなっていた。誕生日自体を忘れていることもあり、それは相手も同じで、2、3日経過してから「そういえば誕生日だったね」なんて笑いあうこともあった。

お互いに、それぞれ恋人が居たこともあったが紹介するわけでもなく。

会話の端々にその存在を感じることはあっても、追及するまでもなかった。

自分たち兄妹を表現するとその程度の仲だったのだと小さく笑う。


それは、特別でも何でもないごく普通の家族の形だったのだと言った。


「家族ってさ不思議だよねぇ。普段はその存在さえ意識していないのに」


なくなった途端その大きさを痛感すると、エンディングロールをぼんやり眺めながら呟く。


「……独り暮らしするようになってあんまり連絡もとってなかったけど、当然、元気だと思ってたんだよね」と息を吐いた。


その様子から、話の流れが不穏な方向に向かっているのは何となく分かった。

それが、少なからず私自身に関係していることだということも。

だけど、Aはそれをはっきりとは口にしない。


「連絡が来たのは真夜中だったよ。母親がほとんど叫びながら何かを言っているんだけど理解できなかった」


嗚咽に途切れる言葉から読み取れたのは、妹は、死んだのだということ。


「事故だったんだって、」


吐き出すように言ったそのときAの眉間にぐっと皺が寄った。

一緒に過ごしてきた時間の中で、一番険しい顔をしていた。


その日は朝から大雨だったとAは言う。

妹さんが発見されたのは、自宅近くの畑の中だったらしい。

歩道から数メートル下ったところに、付近の住民が作った小さな畑があり、そこに倒れこむようにして死んでいたのだと語った。


「……本当だと、思う?」


妹さんが亡くなったという事故を詳細は省いて淡々と語った後、Aはふとこちらに視線を向ける。

昼間だというのに、閉めっぱなしのカーテンのせいで室内は薄暗い。

蛍光灯を点けていても、太陽の光には敵

かな

わなかった。

そんな中で、白目に光を溜めたその双眸は獣のように静かで鋭い色を放つ。


分からない、と首を振れば「そうだよね」と苦笑を浮かべた。

その瞬間には、いつもの柔和な笑みを浮かべるAに戻っていた。


「アイツはね、雨の日は絶対にあの道を通らなかったんだよ」


Aの妹はまだ高校生で、学校へは電車通学をしていた。

最寄の駅まではその道を通るのが一番近かったけれど、一部、柵が破損しているところもあり危険な道でもあった。

車一台が通るだけでぎりぎりのその道にかろうじて作られた細い歩道は、大人が二人横並びになることさえ困難なほどに狭く、その上、緩やかな坂のその横は小さな崖のように切り立っていた。


「案の定、柵のないところから転がり落ちたみたいでね。畑まで真っ逆さまさ」


そういうことになる可能性もあるからと、雨の日は通ることを禁じられたその道。

だけどAの妹は、その日に限って、その道を利用した。


「打ち所が悪かったんだって。畑まで落ちる途中で、大きな石にでもぶつかったんだろうって」


全ては推測でしかないけれど。事件性は少ないと判断された。


「真面目な奴でさ。両親の言うことは絶対って感じだった。

だからかな、反抗心でも芽生えたのかもしれないなって、それが逆にアイツらしいとも思ったよ」


暴言を吐くわけでも暴力を奮うわけでも、夜遊びをするわけでもなく。

言いつけを破るというささやかな抵抗。小さな反抗心。

妹は死んだというのに、それと同時に、アイツもそんな年になっていたのだと感慨深く思った。

悲しいというよりは、衝撃で涙も出ない。

もう成長することもないというのに、その成長に驚いている。

心の中を渦巻くのは大きな矛盾と、憤りだ。


死んだということは事実として認識できる。でも、その意味を理解することができない。

感情が、全く伴わなかった。…そう語る。


「みさちゃんと同じ年くらいなんだけど、外見は随分と違うなぁ」と、おしりのポケットから長財布を取り出す。

お札でも出すのかと思えば、そこから出てきたのは端の寄れた一枚の写真。

最後の家族写真だと説明を添えて、手渡された。


優しそうな両親と、Aとその妹。

実家の庭だろうか。縁台に並んで座っている両親と、それを挟むようにしてAと妹さんが座っている。

幸せそうな家族の肖像だ。


「ね、似てないでしょ?」とAはまた一つ笑みを浮かべる。

私の日本人形のよう真っ黒な髪とは違って、緩やかなウェーブを描く軽そうな髪。

青白く不健康そうな色をした私の肌とは違って、白いけれど健康的な肌をしたAの妹。

零れる笑みは、悲しいことなんか何一つ知らないみたいに輝いている。

楽しくてしょうがないと言っているような大きな笑み。


だけど、彼女はもこの世にいない。


「みさちゃん」


ある夜ふと、Aは口の端を歪めて俯いたまま私の名を呼んだ。

夕食を終えてすぐのことだった。

その声はどこか頼りない。前髪に隠れて見えない目元は涙で滲んでいるんだろうと思わせた。


どんな小さな声も聞き逃すまいと耳を澄ましていたけれど、彼は何も言わず黙り込んでいる。

ソファに並んだままだったから俯いた彼の額が私の肩に届きそうだった。

物理的な距離はものすごく近い。手錠で繋がっているのだから、近いに決まっている。

だけどいつだって、ものすごく遠いような気もしていた。

今なら、その理由も分かる。

彼の目は、私を通して取り戻すことのできない過去の幻影を見ているのだ。


白い頬に落ちた睫の影を眺めていれば、彼はもう一度「みさちゃん」と呼ぶ。

何か言いたいのだろうと思った。だけど、何も言えないのだろうと感じた。

言葉を探しているわけではなく、口に出そうとした言葉を飲み込んだようだったから。


「……心配ないからね」


やがて、Aが搾り出したのはそんなセリフで。

ただ私をただ安心させるためだけに搾り出したのが丸分かりな、安っぽいものだった。

何かを誤魔化したのだろう。それがあまりに見え見えで何だか可笑しくて。思わず吹き出した私の顔を彼はそっと見上げた。


「笑うなんて酷いなぁ」と、苦笑する。


そして、「ありがとう」とぽつりと呟いた。

「逃げないでいてくれて、ありがとう」と、そう言ったのだ。


―――――返事はしなかった。




*

*


私を拘束していた手錠が外されたのは、翌朝のことだ。


「痛かったかな?」とAは笑う。

私こそ、同じ問いを返したかった。繋がれた手は、痛くなかったかと。


手錠は金属じゃなかった。明らかな樹脂製のそれはつまり、本物ではなく只のおもちゃだったのだ。

皮膚が傷つかないように、内側には柔らかい素材の綿まで巻かれている。

手首をぐるりと囲んでいる輪っかには、人差し指が入りそうなほどの隙間ができていた。思い切り引っ張れば、手を引き抜くこともできただろう。

柔らかな樹脂で作られたそれは、どこかにぶつければ簡単に壊れたはずだ。

そんな、脆い手錠だった。

私を本気で捕まえておく気なんてなかったのだろう。


「退屈だったでしょう?」


開け放たれたカーテンの向こうから強い朝日が差し込んでくる。

目に眩しくて瞼を伏せれば、爽やかに笑ったAが私の頭を軽く撫でてきた。

息がかかるほどの距離に居たのに、はっきりと意思を持って接触したのはこれが初めてで、そして最後なのだろうと思わせる。

柔らかな感触が、なぜか胸に痛かった。


「一緒に朝ごはん食べよう。まぁ、毎日一緒だったけどね。ちょっとそこで待ってて」


いつもだったら、朝食を作るAの横に立ってそれを眺めていた。

「手伝わなくて良いよ。利き手が使えないんだから」と、手持ち無沙汰にしていた私にAは言って、小さく切ったリンゴを食べさせてくれた。

母親が小さい子にするような仕草で、何の躊躇いもなく口の中に指でリンゴを突っ込まれる。

乱暴な仕草なのに、指が皮膚に触れないようにする慎重さ。そのアンバランスさが、どこか危うい。

私がもぐもぐ口を動かしていると、Aはちらと視線を寄越す。

そして小さく微笑むのだ。

その横顔を眺めていると、食べなれたリンゴがいつもより美味しく感じられて、それが何とも不思議だった。

10日の間に、何度か同じことがあったけれど、他人の指が唇を掠めても案外平気なのだと思う。

それは相手がAだったからこそかもしれないけれど。


だけど、手錠に繋がれて居ない今、私はAの隣に立っていなくても良い。

だから、リンゴを食べさせてくれることもないのだ。

それをほんの少しだけ寂しいと思う。

ソファに座りこんだまま、システムキッチンで料理をしているAをただ眺めていた。


「俺がいなくても、これからだってちゃんと朝ご飯食べなきゃだめだよ」


フライパンを動かしながら何気なく示された、Aが存在しない私の未来。

明日の朝は一緒に居ないつもりなのだろう。

元々、時間を共有することなんてなかったはずの二人だ。互いに見失っていただろう日常を取り戻すだけのこと。


大したことではない。……そう、思うのに。


軽くなった右手が何かを探すようにしてソファの上を滑った。

だけど、私の手は最初から何も掴んでいないし、今だって何も掴めない。


「……こんなものかな。じゃぁ、食べようか」


Aはにっこりと微笑んで卵料理を三品並べた。

スクランブルエッグ、オムレツ、目玉焼き。それに、焼き魚とおひたし、お味噌汁と白ご飯。

「ホテルの朝食みたいでしょ」とAは笑う。

好きなものを食べて良いと言われて戸惑った。

朝からこんなにボリュームのあるものを食べたことはない。


いつものソファではなくテーブルを挟んで、きちんと椅子に座っている。

向かい合えば、いつもよりはっきりとAの顔が見えた。

だけど、この距離感が少し寂しいと思う。

箸を持ってご飯茶碗を持ち上げて、ふと顔を上げるとぶつかる視線。

何か言いたげで、でも何も言いたくなさそうなAが双眸を緩めた。


「今日は良い天気だね」と、何でもないことのように呟いて。

きっと本当に言いたいことは別にあったのだろうけれど、開放するにはおあつらえ向きだと、そんな風に思っているようだった。


もしも雨だったら、私はまだここに居られたのだろうか。



『これは、私の罪です。

だから、どうか、誰か私を―――――』



いつものごとく、せっかく作ってくれたのに半分も食べられなかった私に嫌な顔一つせず「美味しかった?」と首を傾いだAは、最初から最後まで優しかった。

その力仕事なんて知らなさそうな細い指が食器を手際よく片付けていくのを眺める。

きっと社会人なのだろうと思うが、彼は当然、仕事に行っていない。

長期で休暇を取っているのかもしれないが、彼が机に向かって事務作業をしているところは想像できなかった。緩やかな表情と穏やかな口調だけれど動作が緩慢なわけではない。何となく接客業に向いているような気がした。

外見に気を配っていることからするとファッション関係の仕事なのかもしれない、とまで考えたところで、軽やかに腕を取られる。


「元気でね、みさちゃん」


包み込むように、つい先ほどまで拘束されていた右手を掴んだ。

触れるか触れないほどの優しい仕草で。でも、振り払えないほどの強さで。


そして、恐ろしいほどあっさりと簡単に、私はAから解放されたのだ。


「俺の名前は、串木野

くしきの

 永智

えいじ

だよ」


律儀にも車で送ってくれたAは、私を浚ったのと同じ道に私を降ろした。

雑貨屋さんの前だ。

助手席に乗っていた私が車から降りようとしたとき、Aは、はっきりと名乗った。


通報しろ、とそういう意味だったのだろう。



『これは、私の罪です。

だから、どうか、誰か私を断罪して。そして―――――』




















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