閑話.ミスキ
短めです。
ミスキが拠点の宿泊施設に戻って来たのは、日付が変わる少し前だった。
薄く明かりの灯っているリビングに入る前に生活魔法で全身を一応浄化して、そっと足音を忍ばせてキッチンに入り込んだ。
「おかえり」
「っ!」
不意に声を掛けられて、ミスキはびくりと飛びあがらんばかりに驚いた。しかし声だけは根性で漏らすことはなく、息を呑んで堪えた。
「…クリューか」
「結構時間かかったのね」
「ああ。ギルドの報告に手間取った」
振り返ると、風呂上がりらしく肩にタオルを掛けたクリューが立っていた。ゆったりとした部屋着に、片手には炭酸水の瓶をぶら下げている。まだ水分を含んだ髪はしっとりとしていて、いつもふんわりしているだけに今は思ったよりも長髪に見えた。
「依頼料の追加請求でもして来た?」
「まあな」
「で、断られたと」
「分かってるならわざわざ言うなよ」
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今回のギルドの依頼は、通常ならば「赤い疾風」でも達成可能なレベルのものだった。だが、何が原因かは不明だが、明らかに格上の魔獣が出現した。それに対して、危険手当としてギルドの依頼料を上げるように交渉して来たのだ。が、ギルド側の言い分は「あくまでも調査依頼であるので、危険と分かって戦闘を選択したのは冒険者側の責任」と言われて退けられてしまった。中には「撤退する余裕がなかった可能性もある」と味方してくれたギルド職員もいた。
「貴方なら勝ち目のないものに挑むなんて、絶対選択しないでしょう?」
そうギルド長が告げたことで、依頼料の追加は却下されたのだった。
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「まぁ信頼されてること」
「それで依頼料渋られるならされてない方が良かったなあ」
ミスキは渋い顔をしながら、棚からカップを出して水を注いだ。
「…それに、俺だって読み違うこともある」
そう低い声でポツリと呟くと、引き出しの中を覗き込んだ。
「探し物?」
「なあ、ここに胃薬入ってたろ」
「この前無くなったから、ユリちゃんからもらってあるわよ」
「助かる」
「あたしが用意したげるわ。ちょっと座ってなさい」
「用意?いや、普通にくれれば飲むから」
「いいから。ユリちゃんに教えてもらったのはあたしなんだから。任せなさい」
クリューは強引にキッチンからミスキを追い出して、テーブルにつかせた。そして彼女は鼻歌混じりに鍋でお湯を沸かし始める。
ミスキは不満そうな表情でそれを眺めていたが、抗議するのも面倒だと思ったのか仕方なしにクリューが準備しているのを待つことにした。
「…タイキは」
「もう寝てるわ。さすがに疲れたみたいねぇ。久々に食べながら居眠りして、お皿に顔を突っ込むところだったわよぉ」
「バートンももう休んでるのか」
「多分ね。いくらバートンでも今日は寝酒はしてないでしょ。結構大きな怪我だったし」
クリューの言葉に返答せず、ミスキが暗い表情で俯く。その様子を見て、クリューはちょうど沸いたお湯を鍋からカップに移して、その中にサラサラと粉を溶き入れた。
「はい」
「これ…スープに見えるんだが」
「そうね、スープよ」
「俺は胃薬を」
「ユリちゃんから、空腹で飲ませないように、って言われてるのよ」
ミスキの前に、湯気の立っているカップが置かれ、そこには琥珀色の澄んだ液体と小さなクルトンが浮いていた。フワリと漂うコンソメの香りが鼻をくすぐる。
「ちゃんと食事は外で」
「食べてないでしょ。あんたはいつも思い悩むと食事しないでグルグル考え込むんだから」
「う…」
「あったかいもの啜って、思う存分溜め息吐く口実にしなさいな」
クリューはそう言って、俯いてカップに見入っているミスキの額を、軽く指で弾いたのだった。
今日の迷宮ダンジョンを踏破した帰り道、一番無傷だったミスキが馭者をしながら、ギルドへの報告やミノタウロスの解体と引き取り部位の注文などをやっておくと申し出たのだ。
回復薬で完治しているとは言え、さすがに体力が大分削られているバートンやタイキは帰りの馬車で眠っていたし、レンドルフも相当疲れているだろう。ミスキはエイスの街に入るところでレンドルフとユリと別れ、他のメンバーは拠点に送り届けてから隣街の解体屋にまで一人出掛けていた。
通常ならばギルドに持ち込んだ魔獣は、欲しい部位を頼めば有料でギルドで解体してもらえるが、魔獣の持ち込みが集中する定期討伐時には受付をしていない。毎日ギルドに持ち込まれる魔獣をひたすら解体しているので、個人で頼むことが出来ないのだ。もし仕留めた魔獣の素材が欲しい場合には、自力で解体するか、エイスのギルド以外の場所で頼むしかなかった。
レンドルフが、それならば、と解体を申し出てくれたが、規格外に巨大で固いミノタウロスなので、かなり広い場所や、当人の体力も必要だろう。「赤い疾風」でもバートンが解体が出来るが、レンドルフもバートンも相当体力を消耗している。あまりにも二人に負担が掛かり過ぎるので、ミスキは隣街の顔見知りの解体屋に頼むことにしたのだった。
それからミスキは再びエイスの街に戻って来て、今まで迷宮ダンジョンについての報告も一人でこなして来たのだった。
「今回は完全に俺の判断ミスだ。魔狼が属性持ちだった時点で引けばよかった」
ミスキはいつまでもこれを飲まないと胃薬がもらえないと理解して、両手でカップを抱え込むようにしてゆっくりと中のスープを啜った。そして一口、ゴクリと飲み込むと大きくフウッと息を吐き出した。その吐き出した息は啜った分よりも明らかに長かったが、それについてはクリューは何も言わずにいた。
「俺が判断したことなのに、俺が一番無傷なのが腹立たしい」
「なぁーに言ってんの」
「てっ!」
ボソリと呟いたミスキに、クリューは今度は強めに額を弾いた。さすがにこれは痛かったらしく、ミスキも思わず声を上げていた。
「あんたはあたし達の頭脳になるって決めたんだから、血は大事になさい。頭に血が足りないと、手足が鈍って結局全部死ぬのよ」
「それは…分かってる」
クリューに弾かれた場所はうっすら赤くなっていて、ミスキは痛そうに額を押さえた。
「はい。これ、眠くなるみたいだから、飲んだらシャワー浴びてさっさと寝るのね。カップは片しといてあげるから」
ミスキがカップの中味を全て飲み干したのを見届けてから、クリューは粉薬の入った小さな薬包をそっとテーブルの上に置いた。ミスキは恭しくそれを受け取ると、早速サラサラと口に入れて水で飲み干した。妙な甘苦さのある味が口いっぱいに広がって、全ての粉は流れて行ってもまだ口の中に残っている気がして、ミスキは更に追加で水を飲んでいた。
「疲れてるとこ、悪い」
「あたしはどっちかというと魔力を酷使した方だから、体力には余力があるわよ」
飲み終えたスープと水のカップをキッチンに運びながら、クリューはミスキの肩を軽くポン、と叩いた。
「まあ、さすがに明日までに魔力の全回復は難しいから、あんまり広域の魔法は多用出来ないと思うわ。そこは考慮してねぇ、参謀サン」
「ああ。バートンにも無理はさせられないしな。明日は軽く調査だけにするよ」
「そぉねえ。折れなかったとは言え、両肩外しは厳しいわねぇ」
「レンに気付かれなかったのがすげえよ」
レンドルフを高く飛ばす為に盾を踏み台にさせたバートンは、レンドルフの脚力の強さに耐えられずに両肩関節が完全に外れていた。しかしそれをレンドルフには気付かれないように呻き声一つ上げず、強引に力技で元に戻していた。
タンクという職種柄、関節の怪我は多いし、肩を外したことも過去に数えきれない程バートンは経験している。が、だからといって痛みがなくなる訳ではない。
「ほら、とっととシャワー浴びて来なさい。薬が効いて風呂場で寝落ちになるわよ」
「分かったよ。あとはよろしく」
「ええ。お休みなさい」
「…ありがとな。お休み」
ミスキが浴室へ消えて行くのを見送って、クリューは洗ったカップを手早く拭いて棚にしまい込んだ。
その棚の中に入っていたチーズとクラッカーの包みが目に付いてしまい手を伸ばしかけたが、そのままの姿勢でしばし逡巡した後に手を下ろして棚の扉を閉めた。
「危ない危ない…」
クリューはそっと一人ごちると、キッチンの灯りを消してその場を立ち去ったのだった。
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熱いシャワーを浴びて部屋に戻ると、既に熟睡しているタイキが腹を出して眠っていた。その姿にミスキは思わず頬を緩めると、タイキの体の下に敷いてしまっている毛布を強引に引っ張り出して腹の上に掛けてやった。眠りの深いタイキは、この程度で目が覚めることはない。
タイキは何か良い夢でも見ているのか、口を開けながらも笑った顔になっている。その平和そうな表情を眺めて、ミスキは安心すると同時に、今日のミノタウロス戦のことがダブるように思い出されてくしゃりと顔を歪めた。
ミノタウロスに攻撃した直後に空中に放り出され、あの巨大な斧で危うく叩き潰されるところだった。タイキの防御の鱗で辛うじて助かる可能性は高かっただろうが、それでも一歩間違えば即死していてもおかしくない状況だった。冒険者をしていればそんな状況に遭遇することもあるし、過去にタイキの身が危うかったことも、実際に大怪我を負ったこともある。その度に毎回肝の冷える思いをして来たが、今回のことは今までで最も血の気が引いた。
これまではタイキが作戦を無視して突っ走った結果引き起こされたことばかりで、その度にミスキが鬼の形相で懇々と説教をして来た。しかし今回に限って言えば、ミスキの判断ミスに因るところが大きいと思っていた。厄介なのは魔狼の方で、ミノタウロスはタイキとレンドルフがいればどうにか出来ると思い込んでいた。その為、彼らにミノタウロスを優先して倒すことを指示した為に引き時を見誤った。戦闘中は自己判断に任されてはいるが、それでも最初に掛けたミスキの言葉が影響していない訳ではない。特にミスキを全面的に信頼しているタイキは、ミスキが行けると判断すれば自分の限界を超えていることにも気付かずに戦い続けてしまう。
「ごめんな…」
ミスキは、何か口をモグモグさせてニンマリ笑っているタイキの頭をそっと撫でた。きっと夢の中で何か旨いものでも食べているのだろう。
不意に、タイキがパチリと目を開いた。
一度眠ってしまうと何があっても起きないし、朝は起こしてもなかなかすぐに目が覚めないタイキなので、いきなりハッキリとその大きな目を開いたので、ミスキは驚いて頭に手を置いたまま固まったしまった。
タイキは何度かパチパチと瞬きをした後、まるで蕩けるようにヘラリと笑った。いつも鋭い印象を与える金色の瞳が、まるで蜂蜜を思わせるように柔らかく甘みを含んだ色味を帯びる。
「にぃちゃん…褒められた…」
舌っ足らずな声でタイキは嬉しそうに呟くと、瞼がゆっくりと降りて来て、再び穏やかな寝息を立てだした。
「…そうだな、よく頑張ったな」
ミスキは低く優しい声でそっと囁くと、もう一度だけタイキの頭をサラリと撫でて、部屋の中の灯りを落とした。
ミスキはこのまま眠れるか分からないと思いながらもベッドに横になって目を閉じたが、どうやら処方してもらった胃薬がクリューの言うように眠気を誘う成分が含まれていたらしく、程なくしてミスキも眠りの中に入って行ったのだった。