閑話.ステノス
短めです。
「…レン、ねえ…」
ミキタの店で、ランチタイムの間もずっと居座って飲み続けていたステノスがぽつりと呟いた。一応営業中の看板はかかっているものの、この時間はすっかり客足も途絶えて、ミキタはカウンター内のキッチンで夜に向けての下拵えをしている。
他の食器を片付ける片手間に、ミキタがステノスが陣取っているテーブルの上に乗った酒瓶の中身をジャバリとコップの中に移す。もう大して残っていなかったので、瓶を逆さまにしてもコップに半分もなかった。
「ほら、今日はこれ以上は出さないよ。飲み終わったらとっとと戻んな」
「さっきのボウズが持って来たのがあったろ?そいつをちょいと味見させてくんねえかな?」
ステノスのリクエストに、ミキタはやれやれといった風に溜息を吐いた。
「ほら!どっちがいいんだい!」
ミキタは先程レンドルフが持参した紙袋から瓶を二本取り出してカウンターの上に並べた。どちらも火酒ではあったが、扱っている酒蔵が違うものだ。この店に並べてあるものより、一つか二つ程金額のランクが高いものだった。
「どっちも!」
「どっちかにしな」
「いーやーだー。どっちも呑ーみーたーいー」
「ったく、そんなことしても可愛くないよ!」
そんな会話をしながらも、付き合いの長い彼女はステノスの意図は手に取るように分かってしまう。仕方なくミキタはコップを二つ出して来て、両方の酒の封を切ってそれぞれに注いだ。
「よっ!ミキタちゃん良い女!」
「そんなこと言ってもツマミは出さないよ」
「ちぇー」
ステノスはヘラリと笑いながら、ミキタがテーブルの上に置いた二つのコップに向かって軽く手を合わせる。いつもならすぐに立ち去る筈のミキタが、何故かその場に立ち止まって、ステノスの様子を眺めていた。
ステノスは一瞬だけ彼女に目を向けると、急に真顔になってそれぞれの酒を一口ずつ飲んだ。
「うん、旨い」
「そうかい」
ほんの少し安堵したような声色で、ミキタがテーブルを離れた。ステノスはテーブルの上にダラリと頬杖を付いてご機嫌な様子で味比べを楽しむように二つのコップを交互にチビリチビリと飲んでいる。
「そんなに警戒するようなことかねぇ」
ツマミは出さないと言いながら、ミキタは小皿に一掴み程度のナッツをステノスに向かって差し出す。それを見てステノスは無邪気そうな顔で笑った。一見すると、酒好きで少々だらしない肉付きになってしまったただの中年男ではあるが、時折妙に可愛らしい顔に見える。
「ま、御前の命があるからな」
「ただ単に酒の味見がしたかっただけだろうさ」
「バレてたか」
「とにかく、とっとと飲んで帰りな。あんたが来ると息子達が寄り付かないんだから」
「つれねえなあ」
「お互いいい歳なんだから、つれるも何もないよ」
ミキタは苦笑しながらカウンターに戻って、下拵えを再開する。ステノスはナッツを摘んで何故か嬉しそうな顔でミキタの作業を眺めながら、普段よりも少しばかり上物な酒をゆっくりと舌の上で転がしていた。
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レンドルフが男達に絡まれていたユリを助けた日、部隊長のステノスの元へ報告が上がっていた。特に乱闘などは起こさず収めたようだったが、明らかに貴族出身の騎士であった為に、ステノスは一応警戒をしていた。貴族と揉め事を起こすのも、持ち込まれるのも宜しくない。次もエイスに来た場合はすぐにステノスに連絡が行くようにしていたのだった。
実際に会ってみると、何とも真面目で実直そうな青年であったが、貴族である以上、裏があるかもしれないことは常に用心しておく必要がある。当人は人畜無害であっても、その後ろについている紐の先に何があるか分からないのが貴族の世界だ。特にユリを気に入っているような態度であったことから、彼自身が望んでいなくても周辺が騒動を起こさないとも限らない。貴族には当人の感知しないところで先回りして気を遣う者もいれば、恨みを持つ者もいる。
(レン…レンドルフ・クロヴァス辺境伯令息、か。殆ど隠す気ねぇな)
街の入口ではあっても、個人所有しているのは貴族だと丸分かりなスレイプニルを預けてしまうあたり、自分の身分を隠すつもりはあるのか疑問に思ったが、まあ別に悪いことをしている訳ではない。ただこれから何か起こるかもしれない可能性は、ステノスの頭に片隅に入れておく。詳細までは不明だが、レンドルフが王城で騒ぎを起こして近衛騎士団を解任されたという情報は既に把握済みだった。
(良いヤツに見えるほど、危ねえモンはないからな…)
ステノスは、念の為レンドルフが持ち込んだ酒を味見の形で毒味を行っていた。それは彼の役目上そうしているのだということは、長年の付き合いのあるミキタも察していただろう。
口の中で香りを堪能した酒をゴクリと嚥下する。胃の腑に向かって燃えるような熱さを感じたが、鼻に抜ける感覚は悪くない。ふと、自分の向かいで幸せそうに肉を噛み締めていたレンドルフの顔を思い出す。あの顔が演技でもなければ、そして周囲の思惑でこの先も曇らずにいてくれたら、とそんなことを考えてしまったステノスは思わず苦笑していた。
「俺もまだまだ甘いねえ…」
幾度となく、それこそ人並み以上に人間の裏側に触れて来たにもかかわらず、ステノスはどこかでまだ人間を信じたいと思っている自分に気付いた。
そっと呟いて口に含んだ最後の一口は、同じ酒なのにひどく苦く感じたのだった。