閑話.ヴィクトリア
約束の時間ちょうどに、執務室の扉がノックされた。
「入りたまえ」
「失礼いたします」
秘書官に案内され、統括騎士団長レナードの執務室に、一人の女性が入って来た。
彼女は騎士服に身を包み、その身のこなしは機敏で隙がなく、伸びた背筋が美しい。小脇に書類入れを抱えているが、騎士らしからぬそれすらも何かの武器に見えてしまう。緑の髪をキッチリと纏めているせいかやや顔立ちがキツく見えるものの、理知的な青い瞳と整った顔立ちは見惚れる程であった。
「第四騎士団団長ヴィクトリア・ノマリス、失礼いたします」
「本日は何の用件かな。ひとまず、掛けたまえ」
「いえ、五分でお暇しますので、それには及びません」
彼女、ヴィクトリアは姿勢を崩さないままレナードとは机を挟んだ形で向き合う。レナードは彼女の態度の理由も分かっているのだが、それでも軽く溜息を吐かずにはいられなかった。
「では、本題を」
「はい。現在休暇中のレンドルフ・クロヴァスの、第四騎士団への異動をお願いに参りました」
彼女はそう言って、抱えていた書類入れごとサッとレナードの前に置いた。レナードはそれを開くと、きちんと申請書の書式に則ったものであることを確認する。
「……理由を聞こうか」
「兼ねてより計画をしておりました、騎士団員の生存率向上の為の改革に彼は最適、且つ必要な人材であると判断いたしました。申請書の下に資料もまとめてありますので、ご確認ください」
「ああ、あの計画案か」
「はい」
「……まあ、一応気に留め置こう」
真っ直ぐな曇りのない目で見つめて来るヴィクトリアに、レナードはほんの少しだけ眉根を寄せて考え込み、ゆるゆるとした口調で答えた。そして資料には目を通さずに書類入れを閉じると、机の上に戻した。
「ですが」
「ヤツの今後については、当人の希望を最優先にせよ、との命が出ている」
「王に剣を捧げた正騎士ならば、異動申請の理由は正当なものかと」
「どうだろうな」
ヴィクトリアはレナードの答えを不満に思ったのか、その感情がまともに顔に出てしまっていた。騎士団をまとめる立場のレナードは、団長のヴィクトリアの上司に当たる。本来ならばこのようにストレートに不満を露にするのは褒められたものではないのだが、どうせ自分にしか向けない表情なのは分かっているので、敢えてそれは指摘しなかった。
「まだ休暇は残っている。まだ結論は出せんよ」
「…承知いたしました」
「他にはあるかな?」
「いいえ。お時間をいただき、ありがとうございました」
彼女は、まるで教本にそのまま載せられそうな完璧な礼をすると、そのままクルリと踵を返した。
「トリア」
レナードが打って変わって柔らかい声と表情で、部屋を後にする彼女の背中に呼びかけた。彼女はビクリとしたように扉の前で立ち止まって、半分だけ体を捻るようにしてレナードに顔を向けた。その顔は怒っているように眉を吊り上げてはいたが、白い頬が赤く染まっていた。レナードはそれを確認すると、満足げに微笑んだ。
「…勤務中は、私的な呼び名はお控えください」
「誰もいないのに?」
「……それでもです」
「あまり焦り過ぎるな」
レナードの言葉にヴィクトリアは返答はせずに再度頭を下げると、今度は立ち止まらずに執務室を出て行った。
「本当に五分だったな」
レナードは壁にかかっている時計を確認して、感心したように呟いたのだった。
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それから数分後、彼女と入れ替るようにティーワゴンを押した眼鏡をかけた男性秘書官が入って来てガックリと肩を落とした。
「申し訳ありません。もうお帰りになられたんですね」
「いつものことだろう」
「はあ…今日こそ奥様を間近で見られると思いましたのに」
「あまり長居すると勘ぐって来る下衆がいるからな。放っておけばいいものを」
「そこが奥様の良いところではないですか。先日なども執務室に残っていた職員にお声を…」
「分かった分かった。自分の妻の褒め言葉を他の男の口から聞かされる身にもなってくれ」
「それは大変失礼しました」
第四騎士団団長を務めているヴィクトリアは、このレナードの妻であった。しかし団長職に就いている者が互いにミスリル姓を名乗っていると紛らわしいことと、対外的な体裁もあって公式の場では彼女は生家のノマリス姓を名乗っていた。
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五年程前に、騎士団の信頼を根幹から揺るがすような事件が起こった。
一部の騎士団の上層部と貴族が、罪状をでっち上げて犯罪奴隷を売買していたことが発覚したのだ。それに関わっていた貴族が幾つも取り潰しになり、騎士団上層部も大きく入れ替わりがあった。
その中でも第四騎士団に所属している駐屯部隊の上層部多数が関わり、部隊によっては部隊長が率先して人身売買を斡旋していた。そのことがあり当時の第四騎士団団長が責任を取って職を辞し、自ら爵位と領地を一部国に返還して隠居したのだ。ヴィクトリアは当時近衛騎士団所属だったのだが、その後任として女性初の団長職に抜擢されたのだった。
この人事は、周辺だけでなく当人も言葉を失う程に驚いた辞令だったのだが、国としては初の女性団長という話題で、少しでも世間の目を上層部の腐敗から逸らせる目論見があった。
勿論、彼女も近衛騎士団にいるだけあって十分な実力も有していたし、清廉潔白で真っ直ぐな人柄と王族からの評価も高かった。そして主に王妃の護衛に就いていたこともあって公務などで人前に出る彼女の姿を見る機会は多かった為、凛とした美しい姿は王都民からの人気もあった。更に彼女は、騎士団内で多数の功績と伝説を残したアレクサンダー・ノマリス伯爵の孫娘でもあったのだ。それだけに彼女は、騎士団の地に落ちた名誉から人々の気を逸らすのに最適な人材であったのだ。こうして色々な思惑が絡み、ヴィクトリアは複雑な状況の中で団長になったのだった。
ちょうど団長に就任した直後に兼ねてより話が持ち上がっていた統括騎士団長レナード・ミスリルとの婚姻も発表され、それも世間を賑わせた。そのこともあり彼女は団長に就任して五年近く経った今も、祖父の名声と婚家の権力で現在の地位に就いたお飾りの騎士団長と一部では揶揄されている。
とは言うものの、彼女が団長職にあるのは純粋に実力だけでなく、様々な要因も含めてなのは残酷ではあるが紛れもない事実でもある。彼女自身もそれを承知の上で呑み込んで団長を続けているが、これ以上余計な付け入る隙を与えないように常に張り詰めた様子だった。
それ故に、仕事としてレナードとやり取りする際は書簡か人を介することが多く、先程のように直接顔を合わせるときは五分程度で切り上げているのだ。レナードとしては、使えるものは何でも、自分ももっと利用して構わないと思ってはいるのだが、彼女が自ら求めて来ない限り手は貸さないことに徹している。いくらこちらから働きかけたところで、彼女自身が納得しない限り意味はないのだ。
ただレナードは、そんなふうに気を張ってあちこちに毛を逆立てているヴィクトリアの姿がただの可愛らしい子猫にしか見えていないのではあるが、さすがに当人には言っていない。実のところヴィクトリアとは色々な思惑の中の一つとして契約的に結ばれた政略の色濃い婚姻ではあったが、わざわざ余計なことを言って不仲になる必要もない。
「ところで団長、このお茶はどうしますか?」
「後でいただこう。そのまま置いて行ってくれ」
「…そうですか」
レナードの答えに、秘書官は少しばかり落胆したような声を出した。
「その菓子は下げていいぞ」
「畏まりました!」
彼が落胆した理由が分かったレナードが苦笑混じりで付け加えると、一瞬で満面の笑みでいそいそと焼き菓子が盛られた皿を手にした。こうして箱の封を切って皿に盛ってしまったものは、いくら日持ちのする焼き菓子と言えど戻すのは衛生上よろしくない。この菓子は早々に秘書官のいる執務室で山分けにされるのだろう。
レナードもヴィクトリアもそこまで甘いものを好まないので、仮にここで茶を飲んで行ったとしても菓子には手を付けない可能性は高い。おそらく秘書官も知っているが、レナードはそこを狙って出して来たのだろうということは敢えて目を瞑ることにする。これは別の機会に仕事で返してもらえばいい。むしろこれまでに何度も無茶を融通してもらっていることがあるので、既に前払いしているのかもしれないが。
秘書官が退出した後、レナードは自らカップに紅茶を注ぎながら手元の書類を手に取った。つい溜息が出てしまうのは、たった今熱い紅茶を啜ったからだと自分に言い聞かせる。
「全く…モテ過ぎるのにも困ったものだな」
先日よりも明らかに増えているレンドルフに関する書類を見て、レナードは同情を込めた目で見つめる。
案の定、耳敏い貴族達は、レンドルフを味方に引き込むことが出来れば、王太子に気に掛けてもらえると確信したようだった。王太子ラザフォード自身は、政略的な思惑もなく友人として気に掛けているだけだろうが、やはり立場上「気に掛けている」という事実は使い方によっては政治的な影響も大きい。
まだ若く独り身であるレンドルフを引き込むのに最も手っ取り早いのは、婿として囲い込むことだろう。少しでも早く彼の異動先の情報を入手して、適齢期の令嬢を周辺にけしかける策を立てたいのだろう。
(全部把握出来ていればまだマシだが…そうも行かなくなって来たしな…)
レンドルフの処遇について、彼の実家や縁戚の家のように名乗りを上げているところならともかく、裏で何やら根回しをしている家門もいる。レナードも侯爵家だけあってそれなりに裏で動いている者達の目的はある程度把握はしている。高位貴族は自家に独自の諜報員を所有していることが多い。しかし、レナードを持ってしても掴めない勢力が蠢いている。確証がある訳ではないが、レナードの長年の勘が、間違いないと告げていた。今のところ表立った動きはないが、それだけに不気味であった。
(とは言え、我が家で動きが掴めないような相手の家門なんて僅かしかないし、その中のどこかを相手にするのも勝ち目はないな…)
レンドルフは現在、冒険者登録をして魔獣討伐に参加していると報告が来ていた。それによると、平民の冒険者パーティと親しくなって行動を共にしているとか。レナードは「人の苦労も知らないで…」と苦笑半分、もう半分は彼が楽しそうに過ごしているらしいというのに安堵しているといった心境だった。
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ヴィクトリアが第四騎士団の団長執務室に戻ると、見計らっていたように副団長のルードルフ・ワシニカフが顔を出した。くすんだ緑色の髪を短く刈り込んだ長身で筋肉質な体型で、祖父母の代に他国から移り住んで来た家系のせいか、この国の人間よりも更に目鼻立ちのハッキリした顔立ちをしている。学生時代は、あまりにも目元がくっきりしていたので化粧をしていると誤解した教師に、汗だくになっても崩れない化粧品の発売元を聞かれたという話もあるそうだ。そして彼は真面目に教師の前で顔を拭いて、素顔であることを証明したらしい。
「団長、首尾はいかがでしたか?」
「取り敢えず書類は受け取ってはもらえたが、選ぶのはあくまでも当人の希望次第だそうだ」
「それなら何とか当人にウチに来るような根回しを…ってムリですね。すみません」
「こっちが答える前に結論を出すな」
「じゃあ僅かでも可能性があるんですか?」
「……正面から当たって砕けろ、とか」
「それは根回しとはいいません」
ルードルフは容赦なくヴィクトリアに駄目出しをする。しかし紛れもなく正論であったので、ヴィクトリアは何も言い返せずにバタリと自分の勤務机に突っ伏した。
「いっそ正直に統括騎士団長に理由をお話ししてはどうです?団長を辞して近衛騎士団に戻りたいと」
「そういう訳にはいかん!あの方は私が騎士でいられるように奔走してくださったのだ。このまま何のお役にも立てずに逃げるなど、恩を仇で返す訳には」
「……あのミスリル団長が知らない訳がないと思いますけどね」
ルードルフの最後の呟きは、ヴィクトリアには聞こえていなかった。
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現在、女性騎士の数は国内では極めて少ない。数代前の王の治世ではゼロになったこともあったので、少しずつ増えてはいるのだが、それでも圧倒的に不足している。女性王族の護衛でさえ充分な女性の近衛騎士を揃えることが出来ず、王妃と直系の王女以外は実家から護衛騎士を連れて来ることが特例として認められている程だ。
その中で、優秀な近衛騎士であったヴィクトリアが第四騎士団の団長に抜擢されたことは、近衛騎士団からすれば大変な痛手であった。特に彼女に全面的な信頼を置いていた王妃は猛反対をしていた。
しかし、国の中核である王城や王都を守る筈の騎士団の信頼回復の為の、言わば広告塔な役割に担ぎ出すにはヴィクトリアの団長就任は必要な人事であった。王妃の反対は個人的なものとして扱われ、騎士団全体の、ひいては国全体の為として王命が下されたのだ。
だが、その後ヴィクトリアの抜けた穴を未だに補い切れず、王妃はことあるごとに身の危険を訴えて強引にヴィクトリアを呼び出し、護衛に据えていたのだった。本来ならば全く立場の違う騎士団所属で、しかも団長クラスを呼び出すことはあり得ないことなのだが、そもそもの人事が強引であった為に、次の護衛が見つかるまでは例外的に認められることになった。
おかげでヴィクトリアは第四騎士団に籍を置きながら、任務は王妃の護衛が大半という状況がずっと続いている。彼女がお飾りの団長と言われてしまう原因の一端はそこにもあった。
現在の第四騎士団は、副団長のルードルフが実務を担当していた。さすがに王妃の指名で、しかも国王も特例として認めていることから表立って何かを言う者はいないが、やはり今の状況を面白くないと思っている部下は多い。
第四騎士団は魔獣の討伐を主とした任務を受け持っており、どの騎士団よりも危険度が高い。今は大分減ったものの、魔獣討伐の為の遠征などもある。その為給金は良いがあまり人気のある部署ではなかった為に、下位貴族の次男、三男や、腕に覚えのある平民などが大多数を占めている。そのせいか、この第四騎士団の気風はどの騎士団よりも荒っぽく、実力主義優位であった。故に、そのトップが女性で、しかもコネで団長になったのにいつまでも前任の職場に執着していると思われているので、ヴィクトリアと団員達の距離は開く一方であった。
王命の強引な人事とは言え、ヴィクトリアも拝命した以上全力で身を捧げて務めを果たす気持ちは十分にあるのだが、今は却って自分の存在が団員達の結束を崩そうとしているのは嫌でも感じていた。彼女を団長に抜擢して世間の印象を良くする必要があった事件から五年経ち、世間でもその話題を聞くことはほぼなくなった。これ以上自分が団長の座にいては団の為にならないと、何か一つでも功績を立ててそれを機に団長の座を退く機会を窺うようになっていた。
兼ねてよりヴィクトリアはルードルフと共に、かなり数は少なくなったものの、毎月のように殉職者や騎士を続けられなくなって退団する者がなくならない状況を打開しようと騎士団内で色々と施策を行っていた。中でも第四騎士団に限らず近衛騎士団所属ではない騎士は、全体的に守備が重視されていない傾向にあった。そんな折に、王国史上最年少で近衛騎士団副団長まで務めたエリート中のエリートであるレンドルフが解任されたという報を聞き、護りに特化した元近衛騎士を引き込むことで、特に攻撃一辺倒な気風が強い第四騎士団に守備という考えを取り入れたいと思ったのだ。
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「レンドルフがウチに来てくれれば、護りが重要という言葉に皆も多少は耳を傾けてくれるだろう。そうすれば私は後の憂いもなく、お前に団長職を任せられるというものだ」
「まだ不確定なことを言うものではありませんよ」
「そ、そうだな。やはり根回しは必要か…根回し…」
「もともとノマリス伯爵家はクロヴァス辺境伯家と懇意なのでしょう?」
「ああ、クロヴァス家は辺境から離れられない為に、子息が学園に通う為に王都に出て来た際には我が家で色々面倒を見ていたが」
学園では、騎士科に入った者は集団生活を学ぶ為に寮生活が必須である。クロヴァス家の三兄弟は全員騎士科であった。しかし、寮に入っているからと言って放ったらかしにする訳にはいかない。生活に必要な物を揃える為の手続きや、何かやらかして学園に親族が呼び出される時などはすぐに駆け付けられないクロヴァス家に代わってノマリス家が代理で請け負っていた。勿論、クロヴァス家からの許可はもらっている。
それこそ近しい親類と言ってもおかしくない程、両家の関係は近く良好なものだった。
「それでしたらその頃にお会いしてないんですか?そのご縁でさり気なく近付いてみるとか」
「……それがな、私はもう家を出ていて、ちょうど色々あった頃だったからな…」
「ああ、ミスリル団長との婚姻が浮上して来た頃ですね」
「ま、まあ、そうだ」
まだヴィクトリアが王妃の護衛をしていた頃、他国の使節団を歓迎する場に参加することになった。
オベリス王国の貴族の女性は、どちらかと言うと華奢で柔らかい雰囲気の儚い容姿がもてはやされる傾向が強い。ヴィクトリアはどちらかと言うと正反対で、背が高く鍛えているのでしっかりとした筋肉質の体型だ。しかし使節団の国ではヴィクトリアのような長身で骨太の鍛えた女性が最も尊ばれる文化で、その際に彼女が使節団を率いていた王弟に気に入られた。しかしその王弟には既にその国では上限いっぱいの複数の妃がいたことと、最初から愛人扱いで国に迎える条件を提示して来た為に王妃が不快感を示して、その話はただの酒の場の冗談として流された。
しかし、王弟はことあるごとに自分の護衛にヴィクトリアを指名したり、国との貿易に難癖を付けるようになって来た。さすがに目に余り出した為にオベリス王国側がそれに抗議をした結果、王弟は外交から外されることとなったのだが、それでもその国との国交は続く。また再び同じようなことが起こらないとも限らないので、今後ヴィクトリアは外交の場に出すべきかどうか、上層部の中でちょっとした議論になった。
ちょうどその時に例の人身売買事件が発覚して、騎士団への不信感が国民の間に広まりつつあった時期ということもあり、ヴィクトリアを女性初の団長に抜擢して国民の評判回復と、外交の場から遠ざけるという両得を狙った人事になったのだ。
ヴィクトリアもその思惑は察していたが、王命でもある団長職への就任を名誉と思って受けることにした。
しかし、やはりそれを面白く思わない者はそれなりに存在し、ヴィクトリアが団長就任が決定してからというもの、矢のように縁談が降り注いだ。婚姻して子が出来れば、団長職を続けることは出来ない。その空いた席を狙う家門が、次々と適齢期の令息をけしかけるようになったのだ。それに彼女は家督を弟に譲ることにしているものの、伝説と言われた元騎士団長を祖父に持つ伯爵令嬢だ。娶るには好条件ではあったのだ。
そもそもヴィクトリアは、騎士を続ける為に弟に後継を譲ることにしたのだ。故に婚姻して子を残す「貴族の義務」は放棄していたが、周囲はなかなか納得してくれなかった。
そこでその話に決着を付けるべく、レナードが婚姻相手として名乗りを上げたのだ。レナードは侯爵家の当主の座は後継に譲っているが、統括騎士団長を務めていて多数の貴族を黙らせるだけの力は充分に有している。彼の妻は既に亡くなっていて後妻として嫁いでも後継を生み育てるという貴族の義務も必要なかったし、当主でないので侯爵家の夫人としての社交も必要とされない。そして何よりも、レナードはヴィクトリアが婚姻後も騎士を続けることに一切の反対はなかったし、むしろ団長職に就くことを後押ししてくれたのだ
ヴィクトリアにとってはまさに理想の条件であった。そして多少一部で反対はあったものの、最終的に円満に婚姻は成立したのだった。
「彼の休暇が終わるまでにはあとふた月程度はあるんでしょう?それまでに良い策がないか考えましょう」
「そうだな。ワシニカフ副団長にはいつも苦労を掛けてばかりだな」
「言いっこなしですよ。俺としてはこの地位が気に入ってますし」
そう言ってルードルフは歯を出してニカリと笑うと、「団員の鍛錬を見て来ます」と言って執務室を出て行った。
本来はそれもヴィクトリアが行った方がいいのだが、この後には慰問に向かう王妃の護衛が控えている。
(一体私は何の騎士なのだろうな)
ヴィクトリアは、王妃のことは尊敬しているし護衛として頼りにしてくれることも誇りには思っている。しかしこうして近衛騎士団にいた頃と同じ頻度で呼び出すことで、ヴィクトリアの立場を悪くしていることには無頓着だ。
幼い頃に見た騎士の凛々しさと美しさに見惚れ、自分も騎士になりたいと誓ってから念願の騎士になれたものの、こんなにも板挟みでままならないことが待ち受けているとは夢にも思わなかった。
思わずヴィクトリアは気持ちが落ち込みそうになったが、それを奮い立たせて立ち上がると、机に突っ伏したせいで乱れてしまった前髪を鏡前で整える。鏡の中の自分は、酷く情けない顔をしているように思えた。しかしそんな顔はしていられないと、軽く頭を振ってキリリと姿勢を正した。
そして腰から剣を下がると、すっかり騎士の顔になって執務室を後にしたのだった。
ヴィクトリアは、「赤熊辺境伯の百夜通い」の最終話に話題としてチラリと出ています。
伝説の騎士団長と呼ばれた祖父は「夢を叶える首長尾鳥」と「赤熊辺境伯〜」に出てきます。彼の伝説は、ただただ愛妻家を拗らせただけで誕生したものですが、後の世の人には偉大な功績として讃えられています。
次回からクリスマス風の番外編が入ります。レンドルフとユリのちょっと糖度高めの話…になる予定。25日まで続きます。