554.竜翼魚の視線
順路を辿ると、幾つかの小さな水槽があって、その中にも魚や蟹などが展示されていた。中でも目立った円筒形の背の高い水槽の中には、埋め尽くすような数のクラゲがヒラヒラと浮き沈みを繰り返していて、半透明の体に光が当たる角度によって様々な色に変化していた。
「これ、見てて飽きないわね」
「前にアナ様も視察で来た時、しばらくここを動かなかったよ」
「気持ちは分かる」
魚とは違って、水流にフワフワと流されるように泳ぐクラゲは時間の経過を切り離したような感覚に陥らせる。それこそいつまでも見ていたくなるが、ユリにはヒトデとの逢瀬が待っているのだ。
誘惑を振り切ってその部屋を抜けると、その先はより一層暗い回廊が待ち構えていた。
まるで部屋全体を大きな水槽で包んだような構造で、その中央にトンネルのような回廊が貫いている。足元に弱い光源が一定間隔で置かれているだけで、回廊の天井に反射した僅かな光が揺れているのが辛うじて見える程度だ。その回廊を外から見ているだけでは、中に何が展示してるのか全く分からなかった。
「レンさん、あそこに何がいるのか知ってる?」
「いや。前に来た時はもっと明るくて、泳ぐ飛べない鳥がいた筈だけど」
飛ぶよりも泳ぐことに特化した翼の小さな鳥で、ガラスで覆われた回廊から見上げると頭上を飛ぶように泳ぐ姿が見えたという覚えがある。そしてそこはもっと明るく自然光も差し込む場所で、床に水を通って来た虹色の光がキラキラと踊っていた。しかし今はそんな光も差さない暗い空間で、ひどく不気味に思えた。
少し歩調を緩めて入口付近に来ると、展示している生物の説明文が掲示されていた。
「竜翼魚…聞いたことがあるわ。確か深海の生き物だったと思うけど」
「俺も名前だけは。すごく珍しいらしいね」
そこに書いてあった名は「竜翼魚」といい、数ヶ月前に海岸に打ち上げられていたのを捕獲したと説明が続いていた。数年に一度程度、海岸に屍骸が上がることがあるが、その大半は原形を留めていないそうだ。だが今回はまだ生きていて、ほぼ全身が無事だった為に研究対象としてこの水族館に運び込まれたらしい。
竜翼魚は魔魚の一種で、長い蛇のような姿をしている。その顔は大きく裂けた口にびっしりと鋭い歯が並んでいて、かなり凶暴な肉食だと分かっていた。しかし光も差さないような深海で何を補食しているかは全く不明で、この水族館でも飼育すると言うよりは、死ぬまで出来る限り観察をする目的で展示していた。
そしてこの水槽は一切光を通さず、外側から見るとうっすらと中の様子が見られるような付与が掛けられているため、回廊の中から姿を見ることが出来るそうだ。
「どうする?迂回路もあるみたいだけど」
「折角だから見てみたいな。だって生きてる姿なんて、一生のうちに見られる機会はこの先ないかもしれないでしょ」
「じゃあ、行ってみようか」
さすがに暗く不気味な回廊は子供などは嫌がるのだろう。入口の壁には「迂回路はこちら」と書かれた貼紙も並んでいた。
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レンドルフとユリは並んでソロリと回廊に足を踏み入れた。光の射さない重い闇が回廊を覆い尽くしていて、レンドルフは以前来た時とは全く違う世界に入り込んだような心地になった。足元の光で回廊の内部は思ったより暗くはないが、それでも見渡す限りの真っ暗な空間は予想以上に息苦しさを感じさせた。
「レンさん、あれ」
「うん」
ユリが囁くような声で真上を指し示した。回廊の向こうは完全に隔絶された空間であるのに、何となく見つかってはいけないような空気のせいか、自然と声が小さくなっているようだ。レンドルフもその雰囲気に圧倒されて、言葉少なになる。
頭上の闇の中から、ジワリと滲むように濁った銀灰色の巨大な何かが闇の中から浮かび上がって来ていた。目を凝らすと、それは次第に大きくなり、やがて全体像の判別が付き始める。
そしてその姿がはっきりと目視が出来ると、レンドルフと繋いでいたユリの手に僅かに力が入った。
竜翼魚は、多くの魔獣を見慣れていたレンドルフでさえも息を呑む程の圧倒的な存在感を放っていた。大きさとしては三メートル程ではあるが、体の半分近い大きさまで裂けた口と睥睨するような金の瞳がひどく落ち着かない気持ちにさせた。そして体長よりも長く伸びた血の色を思わせる真っ赤な背びれと胸びれが、のたりとたなびいている。そのヒレの形状は、辺境にもいる飛竜のものとよく似ていたことに気付いて、竜翼魚の名はここから来ているのかとレンドルフは頭の隅で納得していた。
頭上をゆったりと通り過ぎて行く竜翼魚の姿を、二人は立ち止まって無言で眺めていた。
「っ!?」
そのままゆっくりと通過して行くものだと思っていたが、不意に竜翼魚が体を捩るようにして真下を向いた。そして次の瞬間、そんな筈はないのにガラスの向こう側の竜翼魚と目が合った気がして、ユリは一瞬全身が粟立つ感覚に陥った。下を向いた際に、ニタリと笑うように竜翼魚の口が裂けて開き、鋭い歯が幾重にも連なって並んでいるのが見えた。
「…ユリさんっ!」
一瞬、ユリは何が起こったのか分からなかった。ただいつもよりも近い距離でレンドルフの焦ったような声を聞いたかと思うと、急に周囲の景色が流れて遠ざかった。ただ最後までユリの視界には、竜翼魚の金色の虹彩のないガラス玉のような瞳がジッとこちらを見ている様子が映っていた。
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ドォンッッ!!!
地響きのような音と振動で、ユリはハッとして我に返った。
「い、今の…!?」
気が付くと、ユリはレンドルフに抱きかかえられて、逆戻りして回廊の入口から離れた場所に連れて来られていた。ユリを自分の体で庇うようにして胸に抱え込んだレンドルフは、顔は先程まで立っていた回廊の方に向けていた。レンドルフにしては珍しく険しい横顔に、ユリは只ならぬ事態だと思わずレンドルフの上着の襟を握り締めた。
抱きかかえられたままレンドルフの肩越しに向こう側に目をやると、回廊の上から水がバシャバシャと降り注いでいた。
「ご無事ですか!」
側に控えていたのか、クロウとエイカがレンドルフの隣に駆け付けて来る。そしてその脇を、数名の係員の制服を着た者達が駆け抜けて行った。
「大丈夫です。ぶつかる前に退避したので」
少し顔色を悪くしているクロウに、レンドルフはしっかりとユリを抱きかかえたまま頷いた。
「ガラスに、ぶつかったのよね…」
「こっちに突っ込んで来そうだったから、すぐに退避したんだけど…あ!ごめん、許可も取らないで!」
「それは全然。そんな余裕なかったし」
普段レンドルフは自分からユリに触れる時にはほぼ許可を取っている。許可を必要としないのは手を繋ぐ時くらいで、こちらも最初の時はきちんとユリに尋ねていた。最近ではユリからも差し伸べるので自然に消滅して、お互いに当然の行動になっていただけだ。けれど今回のような緊急事態では許可云々の話ではない。
レンドルフはすぐにユリをそっと降ろして体を離したが、それでも回廊の方向からユリを守るような立ち位置で、警戒している様子を解かないままだった。そのレンドルフの大きな手の中に投擲用のナイフが数本収まっていたことにユリはようやく気付く。
「深海の生物だから、目は見えていない…筈なんだけど」
しかしユリの脳裏には、あの金色の目が確かに自分を見ていたと感じていた。しかも決して友好的なものや穏やかなものではない、人を襲う魔獣に対峙した時に感じることがある、捕食者特有のザラリとした不快さを伴っている気がした。
「目が見えてないからガラスにぶつかったんですかね?」
「…そう、かも、しれないわね」
クロウが首を傾げながら呟いたので、ユリはどこか腑に落ちない様子で頷く。おかしいと思うのはユリの感覚であって、実際はあの水槽の中は深海を想定した環境に合わせて内側からは全く見えない暗闇であった筈なのだ。ずっと広大な深海で生息していた生物ならば、こんなに狭い空間では感覚も狂うのかもしれない、とユリは無理矢理自分に納得させる。
おそらくぶつかった際にガラスにヒビが入ったのだろう。回廊の上から降り注ぐ水を止めようと、警備の者や係員などが次々と駆け付けて、何やら魔道具を使って泡のようなものを天井に向かって吹き付けていた。その泡はガラスに触れるとすぐに固まるらしく、それで塞がれて降って来る水の量が減って来ていた。
「大変申し訳ありません!こちらのエリアは一旦閉鎖しますので、職員用通路を使ってご退室をお願いします」
血相変えて走って来た職員に、順路と書かれた矢印とは反対方向に案内される。今回の外出は、水族館の職員や客も全て大公家の者と入れ替わっているので、怪しい者が紛れ込まないように全員ユリが顔を把握しているものばかりが配備されていた。今職員用通路に案内しているのも見知った顔だ。その隣で同行している職員は知らない顔なので、おそらく本物の職員なのだろう。いくら大公家の影達が有能でも、専門家を一切閉め出しては魚達に何かあっても対処し切れない為だ。
「こちらは海獣のエリアからになります。途中の淡水魚のエリアは回廊とともに封鎖されていますので、ご了承ください」
「分かりました」
ただ木箱や掃除用具などが置かれているだけの殺風景な通路を抜けて、レンドルフ達は幾つかある扉の一つに案内された。そこを抜けると館内の柔らかな光で満ちていて、レンドルフもユリも無意識のうちに息を詰めていたことに気付いて大きく息を吐いた。
「良かったね、ユリさんの希望のエリアはこの先だから閉鎖されてないよ」
「そうなの?」
「うん。前に来た時に内部は覚えたし、さっきユリさんが来る前に入口で確認もしておいた」
季節によって展示の配置は変化するが、基本的に建物の構造が変わる訳ではない。それに大量の水を扱う施設なので、そうそう大規模な変更は出来ない。レンドルフは護衛任務の為に覚えていた知識を合わせれば、すぐにユリの目的地くらいは把握出来た。
「ありがとう、レンさん!さっきのはビックリしたけど、何事もなかったし、気にしないで楽しんだ方がいいよね」
「そうだね。あとは専門家に任せよう」
先程の竜翼魚の行動は不気味で不可解なものだったが、こればかりは水族館の人々に任せるしかない。少しだけ竜翼魚の視線が絡み付いたような感覚が残っていたユリだが、それも気のせいということで振り払うようにして改めてレンドルフの手を掴んだ。先程は小型のナイフが握られていたレンドルフの手の中には、いつの間にしまい込んだのか何も握られていなかった。剣ダコで覆われて固くなった手の中にユリの手だけがポスリと乗せられると、レンドルフは慎重な仕草でそっと柔らかく包み込んだ。
「それでは私共はこれで」
「お気を付けて」
一緒に職員用通路から出て来たクロウとエイカも別の展示を見るのか、二人に挨拶をしてその場を立ち去った。彼らを見送ってから、ユリはヒトデの前に海獣も見たいと言ってウキウキとレンドルフを水槽の前に引っ張って行ったのだった。
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「…さすがね。最年少の副団長に選ばれていただけの実力はあるようね」
「あれは速かったですね。俺らも完全に追えなかったです」
レンドルフ達と十分に距離を取って、入れ違いに違う二人組が護衛の位置についたのを見計らってからエイカがポツリと口を開いた。
「本来なら貴方達の怠慢を報告するところだけど」
「勘弁してくださいよ。あの反射速度に対応出来るのはフェイさんくらいでしょう」
「もう一人いるわよ」
「いやいや、トールは相手の首を落として動きを止めるのであって、追いつくのとは方向性が違いますよ」
エイカの冷たい視線を受けながらも、クロウはブンブンと首を振った。
あの竜翼魚がガラスにぶつかって来た瞬間、レンドルフは誰よりも早く危険を察知して迷わずユリを抱えて退避した。周囲も十分に警戒を怠ってはいなかったのだが、それ以上にレンドルフの判断が早かったのだ。近衛騎士は王族をはじめとする要人の警護を主とする役割を負っている。襲って来た相手を制圧することも重要だが、最も大切なのは護衛対象の身の安全だ。その場に居合わせた大公家の護衛達は、王国史上最年少で近衛騎士団の副団長に抜擢されるだけの実力を目の当たりにしたのだ。
当人にその気は一切ないのは分かっているが、万一本気になれば護衛の隙を突いてユリを攫うことは容易だと証明されたようなものだった。
「…彼が味方で良かったわね」
「全くです」
エイカは思案顔をしたまま言葉少なに呟き、クロウはしみじみとした実感を持ってその言葉に同意したのだった。