553.大水槽の視線の先
魔道具から立ち上る蒸気を夢中になって眺めているレンドルフに、ユリはポットに入れた冷たい紅茶をカップに入れて差し出す。
「あ!ごめん、すっかり気を取られてた」
「ううん、ポットのお茶を注いだだけだもの」
こうして食事を用意する時は何となく互いに手分けしているのだが、レンドルフにしては珍しく他に気を取られて気が回っていなかった。たちまちションボリと眉を下げる姿に、ユリはますますそれを可愛らしいと思ってクスクスと笑う。
「これ、中に何か入ってる?さっきパンって言ってたけど」
「ほら、前にリバスタン街で蒸しパンを食べたでしょ。あれを参考にして似た感じのを作ってみたの。あ、でも私が作ったのはパン生地だけで、中身は料理ちょ…料理の得意な人にお願いしたの」
「それは楽しみだな。そうだ、リバスタン街と言えば、千年樹への薬草採取はまだ大丈夫?行くなら休みをもぎ取るよ」
「まだ大丈夫よ。春の終わりくらいに一緒に行って貰えたら助かるけど」
「分かった。予定しておくよ」
以前一緒に採取に出掛けた際に、非常に稀少な薬効のある苔を入手して、それが今も続くユリとの仲に繋がっている。
そんな話をしている間に、魔道具から立ち上っていた蒸気が少なくなって来た。
「そろそろ出来たと思うわ」
「俺がやるよ。この蓋を取ればいい?」
「熱いから気を付けてね」
レンドルフが手を伸ばして蓋を取ると、ブワリと白い湯気立ち上って一気に美味しそうな香りが充満した。熱い湯気を避けて中を覗き込むと、ユリの手にちょうどスッポリ収まりそうなサイズの白く丸いものがみっしりと並んでいた。大きさは小さいが、その丸くてふっくらとした見た目は確かに以前食べた蒸しパンに似ていた。
「塩味の豚ひき肉と、トマトとチーズ味のチキンの二種類があるって」
「見た目じゃ分からないな。ユリさんはチキンの方がいいよね?」
「そうだけど…でもどっちも食べたい」
「じゃあまず食べてみようか」
ユリからトングを手渡されて、レンドルフはそっと蒸しパンの隙間に差し入れる。ピッタリとくっついているパンを崩さないように気を付けるが、どうしても形が歪になってしまう。仕方なく最初の一つは強引に取り出して自分の取り皿に乗せて、隙間が空いて余裕の出来た二個目をユリの皿の上に置いた。
「レンさんが綺麗な方を取っていいのに」
「味は変わらないから大丈夫。それに、そっちの方がチキンのような気がするんだ」
「…ありがと」
そう笑顔で言われ、ユリは両手で差し出された皿を受け取った。
「「いただきます」」
熱いので紙ナプキンで挟みながら、軽く息を吹きかけて二人はほぼ同時にかぶりつく。
「すごい!レンさん大当たり!」
ユリは一口食べて、口の中に広がる酸味のある味に思わず声に出してしまった。口の中にものを入れたままなので行儀の悪い行為だとすぐに気付き、慌てて口を押さえる。ユリが口を押さえたままレンドルフをチラリと見ると、目を閉じてモグモグと咀嚼していた。どうやら見られないで済んだのかと思って、ユリは少しだけ安堵する。実のところ、レンドルフはしっかりと見てしまったのだが、そこは敢えて見ないフリをしていたりするのだが。
「こっちは豚肉だった。すごく肉の食感が残ってて、全然ひき肉じゃないな…それと、もしかして月光茸が入ってる?」
「分かった?干したのを水で戻して刻んだのが入ってるんだって」
「それでかな。すごくジューシーで美味しい」
まだかなり熱いにも関わらず、レンドルフはすぐさま残りの蒸しパンをペロリと平らげる。弾力のある肉とプリプリとした脂身の甘さに、月光茸の溢れて来る旨味が混じり合って中からスープのように汁気が溢れて来る。少し弾力のあるキメの細かいパンは、ほんのりと甘味があって肉に付けられた塩気と少し刺激のある胡椒の風味を引き立てていた。
「あ、これはチキンの方だ」
冷めないうちにと次のパンに手を伸ばしたレンドルフは、最初の一つを取る際にくっついて少し剥がれたパンの表面に僅かに赤いトマトの色が滲み出ているのに気付いた。
「こっちもさっぱりしてて美味しいね。この酸味が生地にも良く合う」
「でしょう?ふふ、良かった。レンさんにも気に入ってもらえて」
ユリが作ったという生地はふんわりとモチモチの中間といったところで、キメが細かい分中の具材の汁気を留めているようだ。酸味のあるトマトとチーズがホロリとほどけるようなチキンと絡んで、一緒に混ぜ込んであるバジルの風味が一杯に広がる。そこにモチモチの生地が加わると、それだけで十分メインの風格だ。
二人は言葉少なに10個並べてあった蒸しパンをあっという間に完食してしまった。もっとも、ユリが三個でレンドルフが七個という内訳ではあったが。
「レンさん、こっちも食べられそう?」
「まだ余裕だよ。それにこれも気になってたし」
ユリがバスケットの中に手付かずに残っている当初予定していたランチを示すと、レンドルフは迷わず破顔する。蒸しパンを優先して食べていたが、レンドルフが仕切りにそちらの方も気にしていたのは分かっていた。
「ええとこれは白身魚のフリットにトマトとタマネギのソースを掛けて、葉野菜とパンで挟んだもの。こっちは蒸し野菜を豚肉で巻いてから焼いたものね。この小さなオムレツは、中に豆の煮込みが入ってるよ」
「この丸いフライは?」
「ニワトリザメの卵の塩漬けをフライにしたものなの。レンさんなら大丈夫だと思うけど」
「ニワトリザメの卵は辺境でもよく食べてたよ。でも塩漬けは初めてだ」
「王都では塩漬けしか売ってないの。ほら、輸送の問題があるから」
ニワトリザメは、寒い地域の淡水に棲む魚だ。サメと名が付いているが、サメに似たヒレを持っているだけの草食の魚で実際はサメの仲間ではない。大きくなると三メートルは越える巨大魚に成長すると言われている。身は柔らかく水っぽいため肥料に使われるが、その卵が食用になる。ちょうど鶏卵の黄身くらいの大きさで、色も味も良く似ていることからその名が付いた。
レンドルフの故郷でもあるクロヴァス領でも、良質な栄養源として広く食べられている。ただあまり日持ちはしないため、王都では塩漬け以外は出回っていないし、入荷自体も少ない。ユリもそれを知っていたので、良いタイミングで入手出来たので今回ランチのメインとして入れて来たのだ。
「レンさんの故郷ではどうやって食べてたの?」
「ほぼ卵と同じような扱いかな。茹でたり、焼いてパンに乗せたり。あ、あと生でサラダに乗せたりもしたかな」
「やっぱり鮮度の良いところではあんまり加工しないで食べるのね」
「時期によっては鶏卵よりも手に入りやすいからね」
王都では、塩漬けを塩抜きをしてそのまま食べることが多い。どちらかというと前菜や酒の肴といった食材なのだ。
早速レンドルフは綺麗な球体のフライに手を伸ばす。食べやすいように薄く切ったバゲットの上に乗せてあり、小さな串に刺してピンチョスにしている。
「……思ったより塩気が薄いんだね。生で食べるよりも水分が抜けてるせいかコクがあって美味しいな」
細かいパン粉のサクリとした食感の中から、トロリとした塩気のある卵が口の中に広がった。食感は半熟の茹で卵に近く、少し煮詰めたジャムのような感覚だった。それが軽く炙ってあるバゲットのサクサクとした歯応えと良い対比となって、卵のコクと甘さがより濃厚に感じた。
「良かった。塩抜きの時間によって塩気の濃さが変わるから」
「そうなんだ。俺にはちょうど良いよ。ユリさんは?」
「私はもう少し塩濃いめのをレモン汁とバターで混ぜてソースにして、トウモロコシのパンにベーコンとかスモークサーモンとか野菜とかを乗せて上から掛けるのが好き」
「聞いただけで美味しそうだ」
「まだあるから、今度ミキタさんにお願いしようか」
「それは嬉しいな」
レンドルフは懐かしい故郷の味に触れたからなのか殊の外嬉しそうで、ユリの目にはいつもよりも彼の笑顔が幼く見えてしまった。
「ステノスさんはさっと洗っただけで、白いコメに乗せて食べるのが最高だって言ってたよ」
「へえ。それも試させてもらおうかな。白いコメは味が濃いものと組み合わせれば食べられるのはカレーで分かってるし」
「そうかもね。私もそれは試したことないから、一緒に食べようね」
「うん」
一応ユリは食べ切れなかった時の為に、持ち帰ってもらうように紙製の箱も用意しておいたのだが、レンドルフは全て美味しそうに完食していた。しかしさすがにデザートは入らないということで、レンドルフが持参して来たショーキの実家で購入したチーズクラッカーとパウンドケーキは丸ごとユリに渡されたのだった。
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二人はいつものように手を繋いで水族館の入口に向かった。最初の頃は一瞬お互いぎこちない様子になったが、今は当然のように自然に互いの手のちょうど良い位置に、まるで示し合わせたようにどちらともなく手を差し伸べるようになっていた。
受付でギルドカードで支払いを済ませると、小さなチケットを貰う。こうして二人で出掛けたりする際は、冒険者パーティを組んだ時に決めておいた共通の口座から引き落としになる。これは毎月取り決めた金額をこの口座に互いに振り込み、パーティの資金とするものだ。一緒に採取などの依頼で依頼料が入った時は、必要経費を除いてこちらに全額入金する。これはかつて一緒に定期討伐に参加していた「赤い疾風」の方針を真似たものだ。
本当は大公家の貸し切りになっているので必要はないのだが、レンドルフには内密にしているので今回は引き落としになる。
「ユリさんは水族館は初めてなんだよね」
「うん、そうなの!観察用の池なら馴染みがあるんだけど、こういう施設は初めて」
ワクワクした様子を隠さずに中に入ると、真っ先に色とりどりの魚が泳ぐ大水槽が眼前に広がって、ユリは小さく「うわぁ…」と感嘆の声を上げていた。
比較的浅い海にいるカラフルな魚がヒラヒラと岩場を縫うように泳ぎ、上の方では銀色の細身の魚の群れが光を反射させながら横切って行く。そして小さな魚を気にしていないかのように、大型の魚がゆったりを分厚い尾びれを揺らしながらすれ違っていた。
水槽の中は明るく、青い色と金の光が交差するように揺らめいている。ふと下を見ると、岩場や砂地の上をカニやエビなどがノソノソと歩き回っていた。十分な餌と清潔な環境が保たれているおかげか、水槽の中の彼らはゆったりとした動きで見る者を楽しませていた。
「すごい…綺麗ね…」
「うん、綺麗だ」
やはり予想通りに館内は人がまばらだったので、レンドルフも周囲を気にすることなくユリの隣で水槽のガラスの前に立った。ユリはガラスに触れそうな程近くに寄って、頬を紅潮させて興奮した様子で溜息を吐いた。水槽から漏れる青い光がユリの大きな目に反射して、いつも以上に金の虹彩が光を帯びているようだった。
「あ!レンさん、あっちにヒトデがいる!」
「やっぱり気になるんだ」
「うふふ、楽しみね」
ヒトデに触れるからという理由で水族館に来たがったユリは、どこまでもブレなかった。夢中になって水槽を眺めているユリに、レンドルフは嫌な顔一つ見せずに側に付き添っていた。むしろそうやってはしゃいでいるユリを時折横目で眺めては、その柔らかなヘーゼルの瞳に甘さが宿る。
しかしガラスに反射した人物が背後を通り過ぎる度に、一瞬ではあるがレンドルフの目はしっかりとそれを追っていた。勿論大公家の護衛なので危険なことは一切ないし、ただの客を装っているので怪しいところはない筈なのだが、それでもレンドルフは薄暗く見晴らしの悪い館内ではいつも以上に警戒をしているようだった。
「あ、ごめんね。いつまでも居座っちゃって」
「ユリさんが満足するまで眺めてていいよ。俺も見てて楽しいし」
「でも、ヒトデに会わずに帰りたくないし。先に進むね」
「うん、そうだね」
レンドルフはユリの手に引かれるように、大水槽の前から離れて順路と書かれた方向に足を向けた。その周囲で入れ替わり立ち替わり客を装っていた護衛達は、「あれ、お嬢様を見てて楽しいってことだよな」と目だけでやり取りをしていたのだった。
お読みいただきありがとうございます!
月光茸は「64.迷宮ダンジョン攻略開始」でユリが採取していました。
ニワトリザメは異世界チョウザメのような感じで。卵の塩漬けは、卵黄の醤油漬けのイメージです。大戸◯さんのきみだまですね。
ユリがオススメしていた食べ方は、ほぼエッグベネディクトです。
彼らの支払い事情は、お互いに本業が別にあるので冒険者パーティとして動くとき以外はそれぞれ個人で賄っています。二人で計画を立てて出掛けるときは共通の口座からですが、食事は食べる量が違うので基本的にレンドルフ側が負担。ただ、あまり偏らないようにユリの方で食材やお茶を用意したり、時々弁当的なものを用意したりしています。