548.初々しい二人と古馴染みの二人
「あ、レンさんが当たりだった」
エイスの街のほぼ中心にあるギルドの裏手に、すっかり顔馴染みになったミキタの営む食堂がある。年老いて引退した老夫婦から譲り受けたという店は古く狭いが、ミキタの作る料理と彼女自身の気っ風の良さで再訪する人間は多い。レンドルフもそのうちの一人だ。
古いがその分飴色の艶がある扉をレンドルフが開けると、ちょうど客のいない店内からフワリと胃袋を刺激するスパイスの香りが広がった。レンドルフに手を引かれるようにして入ったユリもすぐにこの香りに気付いて、楽しげな声を上げた。
「おや、いらっしゃい。久しぶりだね。元気にしてたかい?」
「お久しぶりです」
「こんにちは、ミキタさん!ランチってまだある?」
「あー…それがねえ…」
夜は酒場として開いているので、カウンターもあるキッチンからいつものように出迎えてくれたミキタだが、ユリの問いかけに困ったように片方の眉を下げた。
この店は周辺の店よりも早い時間からランチ営業を始めることもあって、人気のあるメニューは昼時を過ぎる前に無くなってしまうこともままあるのだ。レンドルフ達が来たのは昼のピーク時を少し外していたので、ランチに出していたカレーはほぼ無くなってしまったということだった。
「ごめんよ。もう一人前も残ってなくてさ」
「仕方ないですよ。ミキタさんのカレーは美味しいですから」
「その残りだけでも、レンさんに出せない?ほら、レンさんはいつ食べられるか分からないし」
「大丈夫だよ、ユリさん。また機会もあるだろうから」
ミキタの作る特製カレーは非常に香りが食欲をそそる。その為、店にやって来た人はほぼ全員カレーを注文するのだ。前日に別の店でカレーを食べた者や、今日は魚の気分と思って来た者も等しくカレーの前に敗北する。特にレンドルフの故郷でよく食べられている牛のスジや腱のトマト煮込みからヒントを得て、それをカレーに入れたところ大好評だったのだ。それ以来ミキタはいつもの倍量で作っているのだが、それでも昼前には売り切れてしまうのだった。
「そうだねえ…ちょっとばかり時間が掛かるけど、待てるかい?」
「あ、いや、そこまでしてもらわなくても」
「一から作る訳じゃないさ。ちょっと残ったカレーで二人分くらいの特別メニューを作るからさ」
「わあ!嬉しい!ありがとうミキタさん」
「ありがとうございます」
一瞬、ランチだけと言っていたユリの予定は大丈夫だろうかとレンドルフは確認しようかと口を開きかけたが、それよりも早くユリが返事をしていたので問題ないのだろうと思うことにした。
「じゃあちょっとだけ待ってておくれ」
ミキタはいつもの奥にある壁際のソファ席を示すと、軽くウインクをしてから腕まくりをしたのだった。
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店内で唯一レンドルフの荷重に耐えられるソファ席は、すっかりレンドルフ専用になっている。客が多いときだと迷惑がかかると思い時間をずらしたのだが、それでミキタの手間を増やしてしまったのでなかなかタイミングが難しい。
「これでしばらくは凌いでておくれ」
「はぁーい。どれも美味しそう!レンさん、得しちゃったね!」
「そうだね。ありがとうございます、いただきます」
調理の合間を縫って、ミキタが大きな皿に少しずつ料理を乗せたものをテーブルの上に置いて行く。よく冷えてシャッキリとした根菜のスティックと数種類のディップ、ハムやチーズにピクルスなどが盛られている。ランチと言うよりも夜の営業で出す前菜なのだろう。軽めのおツマミといったところだが、メインが出て来るまで待つにはちょうど良さそうなメニューだった。
「お、レンとユリちゃんじゃねえか」
ミキタがカウンターの向こうへ戻るとほぼ同時に、店の扉が開いてステノスが顔を出した。このエイスの街にある駐屯部隊の部隊長なのだが、相変わらず騎士服の襟元を緩めて着崩した楽な出で立ちであった。だがその気楽さで人の懐にスルリと入り込むのを得意としていて、さり気なく目端が利くため街の人々からは慕われながらも一目置かれている。
「ステノスさん、お久しぶりです」
「こんにちは、ステノスさん」
「よ、相変わらず仲が良いね、お二人さん」
ステノスもこの店の常連なので、勝手知ったるものでカウンターに置いてあったグラスを一つ持って、カウンターの端に腰掛けた。更にカウンターに置いてある瓶をヒョイと取って手元に置いた。ミキタも慣れたもので、特に何も言わずに氷を山盛りにしたアイスペールをドン、とステノスの前に置いて調理を再開する。
「何か良い匂いがすんなあ〜」
「これはあの二人の分。アンタのはないよ」
「へいへい、言ってみただけですよ〜」
取りつく島もないミキタの言い様に、ステノスはちょっと拗ねた口調で唇を尖らせた。しかしステノスは全体的に肉付きの良い細い目の中年だ。控えめに言っても可愛らしさとは程遠い表情をミキタは冷ややかな視線で一瞥すると、無言で舌打ちだけしてコンロに向かった。そんな塩対応なミキタに、ステノスは誤摩化すようにヘラリと笑った。
この二人は普段からこんなやり取りをしているのだが、実は元夫婦だというのだ。両親や兄夫婦の仲が極めて良好なレンドルフからすると、色々な形の夫婦と言うものがあるのだと見る度にしみじみ思うのだった。
「あ!じゃあオイラがあの二人にロマンティックなカクテルでも作って出すから、その報酬としてちょっとだけってのは」
「まだ真っ昼間だろ」
「じゃあ酒抜きで旨いの作るからさ〜。な、ほんのちょっと。スプーンのさきっちょだ…うおっ!?」
「真っ昼間だって言ってるだろ!」
調子良く喋るステノスに向かって、ミキタがノーモーションでアイスピックを投げ付けたため、ステノスが慌ててそれを掴んだ。どちらの動きも現役の騎士のレンドルフにすらはっきりと見えなかった。気が付いたらステノスの手の中にアイスピックが握られていたのだ。
「殺す気かよ!」
「……チッ」
「マジだ!このヒト、マジだよ!!」
何とも物騒なやり取りではあったが、ステノスの口調は妙に楽しげだ。こんな殺伐とした内容でも、実のところじゃれ合っているようなものらしい。初めて見た時に介入すべきか迷っていたレンドルフに、この店の常連の老人達が「相変わらずミーちゃんとステ坊は仲良しじゃのう」と呑気に笑っていたのだ。それどころかエールを追加して二人を酒の肴とばかりに眺めていた。彼ら曰く、「ミキタが本気を出せば叩き出せない者はいない」らしいので、こうして店内にいられるうちは大丈夫なのだそうだ。
ユリもそれを知っていたらしく、結局その時はレンドルフだけがオロオロしていたのだった。
「ユリちゃんには量控えめ。レンくんは甘め」
「承知」
仏頂面のままミキタが低く呟くと、ステノスはいそいそと立ち上がってカウンターの中に入り込んだ。どうやら彼女の許可が出たらしい。ステノスもキッチンに何が置いてあるか把握しているようで、ミキタの動きを邪魔しないように動きに淀みがない。
レンドルフもユリも、食べるよりもつい息の合ったミキタ達の様子に無言で見入っていた。会話も視線も交わすことはないが、二人の息はとても合っていた。
ステノスは細長いグラスに氷を入れて、飴色をした酒瓶を手にすると半分程ダバリと注いだ。そしてその上からそっと保冷庫から出した炭酸水を入れる。確か酒精のないものと言っていたのだが、とレンドルフは疑問に思って眺めていると、ステノスは手慣れた様子でグラスの上でレモンの皮を少しばかり擦り下ろした。時間差で離れているソファ席にところまでフワリと爽やかな香りが届くと、ステノスはマドラーで軽く混ぜてそのグラスをミキタの手の届く場所に置いた。
「なるほど」
「それはそうよね」
本来ならば客であるレンドルフ達の方を先に作りそうなものだが、何となくステノスならばミキタを最優先にしても当然な説得力があった。そしてそれをレンドルフもユリも微笑ましいような気持ちになって頷いたのだった。
それからステノスは手早く二人分のカクテルを作って、トレイに乗せてテーブルまで運んで来た。
「お待たせしました〜」
どんなイメージなのか、ステノスは少々シナを作りながら裏声でグラスを置いて行った。
「ありがとうございます」
「ありがとう、ステノスさん」
細長いグラスを活かすように、グラデーションの美しいカクテルが並んでいる。よく見るとその色味が違うのは、それぞれに合わせて調整してくれたからだろう。
「ユリちゃんのはザクロのシロップとレモンのシロップ。その上から炭酸水を注いだもんだ。色は甘そうだが、さっぱりした味に仕立ててある」
底の方の赤いザクロのシロップが上に向かって薄いグラデーションになってレモンのシロップと混ざり合って、夕焼けを思わせる。しかし見た目よりも酸味のあるシロップと冷えた炭酸水でキリリとした味わいにしてあるので、甘い物がそこまで得意ではないユリには丁度良い筈だ。
「レンの方はキウイシロップにジンジャーエールだ。中に入ってる果実は甘みの強いゴールデンキウイだ。崩して飲むと甘みが強くなるぜ」
エメラルドのような鮮やかな色合いをした澄んだ緑色が上に向かって淡い黄色になっている。沈められた細かい氷に絡まるように、細かいダイス状に刻まれた金色に近い果実がたゆたっていて、ジンジャーエールの炭酸が果実に衣のように纏わりついているのも美しい飲み物だった。
「綺麗な色だね。混ぜるのが勿体無いな」
「そうね。でも混ぜた方が美味しいのよね」
二人はしばらく眺めていたが、氷が解けてしまってはせっかくの味が薄れてしまう。添えてあったマドラーでクルクルと混ぜると、ユリの方のグラスは夕焼けから可愛らしいピンク色に変化した。そしてレンドルフの方はグラデーションが無くなっただけで、思ったよりも鮮やかな緑を保ったままだった。その緑色の中に、金色の果実がはっきりと見える。
「あ…」
「これって」
その時になってやっと、ユリのグラスはレンドルフの本来の髪色、レンドルフのグラスはユリの瞳の色を現しているのだということに気付いた。そして同時にステノスの方に顔を向けると、実に良い顔でステノスがグッと親指を上げていた。やはり狙って作ったらしい。
「ええと…いただきましょうか」
「そ、そうだね」
どうということはないのだが意識すると急に気恥ずかしくなって、二人は少し俯いて頬を染めながらそっとグラスに口を付けたのだった。
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ポツリポツリと他愛のない話をしながらカクテルがなくなる頃、店内に急に香ばしい良い香りが充満して来た。その香りは間違いなくカレーではあるのだが、他にも肉を焼く時の脂の爆ぜる音もしていて、食欲が刺激されてレンドルフの腹が空腹を訴えた。
「お腹空いたね」
「う、うん、そうだね」
その音が聞こえたのかユリがニコニコしながらそう言ったので、レンドルフは誤摩化すように同じように笑って頷いた。その様子に、ユリの視線は一瞬レンドルフの耳に向いていて、しっかり赤くなっているの確認していたのだった。
「はいよ、お待たせ。特製カレーのタキコミだ」
「うわぁ…良い匂い!」
ミキタが運んで来たのは、大きな皿にこんもりと盛られたカレーの色をしたコメに、大振りのチキンソテーが添えられているものだった。すっかり黄色くなったコメの合間に、カレーに入っていた人参や肉も見え隠れしていて、更にその上には目玉焼きが乗っている。そしてチキンソテーと一緒に焼き上げたのか、焼き目の付いたナスとパプリカ、カボチャも並んでいて、目にも鮮やかな一皿だった。
「レンくんは味の付いたタキコミは大丈夫だろ?タキコミのおかわりはないけど、チキンとパンならあるから、いつでも言っとくれ」
「ありがとうございます。すごく美味しそうです」
大きな皿と言っても、ユリの方は標準的なワンプレートサイズで、レンドルフの方は数人でシェアして食べるような大皿だ。しかもサイズに合わせてレンドルフの方の目玉焼きは二つになっている。
「「いただきます!」」
もう香りに抗えず、二人はすぐにスプーンを手に取ると示し合わせたように声が揃った。
かなりの勢いで湯気の立つ黄色いタキコミに豪快にスプーンを差し込み、ハクリと口の中に入れる。予想よりも熱かったので、レンドルフは少々行儀が悪くハフハフと口で息を吐いてしまったが、向かいのユリも似たような状態だった。
今まで食べたタキコミよりも食感がパラリとしているが、一粒一粒にカレーの風味が良く染みている。スパイスの香りと共に通常のカレーにはない香ばしさもあって、コメの甘みが引き立っていた。そして少し遅れてやって来る辛味に、たちまちレンドルフの白い頬が薄紅色に染まる。それでもすぐに辛味は消え、もっと食べたいという欲求が湧いて来て手は止まらない。目玉焼きを崩すと、ブルリとした淡白な白身とトロリと半熟の濃厚な黄身がタキコミに絡み付く。その部分を口に含むと、まるで別物のまろやかな味わいが広がった。
一口には少し大きいが、切り分けられているチキンソテーを一切れタキコミごと頬張ると、レモンの爽やかな酸味と風味がスパイスと一緒に鼻を抜けて行く。卵との組み合わせとは真逆のキリッとした味わいだが。これもまた甲乙付け難い美味しさだった。ソテーには少し苦味のあるハーブが刻まれて掛けられているが、これがカレー風味に合わせるとより一層深みのある香りと味になる。もうそれだけで全く違うカレーを食べているような感覚になった。
付け合わせと思っていたグリル野菜も、一緒に食べると主役級と言っても過言ではないくらいだった。特にレンドルフはカボチャを気に入った。焼いたことでトロリとした食感と甘みが、カレーと合わせることでどちらも引き立て合っているように感じた。
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二人が無言で食べている姿を、カウンターに肘を付いたステノスがニンマリと眺めていた。
「で、どうよ?オイラの働きは」
「……仕方ない」
ミキタは渋い顔をして眉間に深い皺を刻みながら、ステノスの前にドンと深皿を置いた。そこには一人前には少しだけ少ないが、十分な量のタキコミが盛られていた。
「へっへっへっ、こりゃありがてぇ」
「鍋の底の焦げたところだよ。それでも良けりゃ好きにおし」
「そこが一番旨いとこじゃねえか。では、遠慮なく」
ホクホク顔でステノスが少し焦げてパリパリとした食感になっているカレーのタキコミを頬張った。
最初のうちは実に嬉しそうに食べていたステノスだったが、次第にスプーンを運ぶ速度が落ち、半分くらいのところで顎を押さえて動きが止まってしまった。
「……その、ミキタさん?」
「何だい」
「その、ですねぇ。これは大変美味しゅうございますが…」
「満足だろ?」
「そうなんだけど!そうなんだけどさ!」
ミキタはステノスが言いたいことを分かっているのか、清々しい程の顔で笑っている。
「こいつは、年寄りの顎にはキツいです…」
確かに少し焦げてパリパリになったタキコミのコメは香ばしくて美味しい部分ではあるが、それが全てになるとさすがに顎が疲れて来る。ションボリとぼやき出したステノスを一瞥すると、ミキタは何やキッチンで作業を始めた。ただ鍋に湯を沸かして何か粉を入れただけなのでミキタにしてみれば作業という程のことではないが、鍋肌がチリチリといいだすと火から下ろす。そしてステノスが食べたいけど進まない葛藤に悲哀を滲ませていた深皿の中に、一気に注ぎ込んだ。
「こ…こいつはカレー出汁茶漬け…!」
「残さず食べるように」
「そりゃあもう!ああ、神様仏様ミキタ様…さすが俺の女神…って危ねっ!」
ステノスが言い終わらないうちに、ミキタが片手に持っていた熱々のスープが入ったままの鍋をステノスの手を上に落とそうとした。実際慌てて手を引っ込めたので事無きを得たが、その手のあった場所には容赦なく熱い鍋がドカリと置かれていた。
ステノスは熱いスープが注がれたことでいい具合にふやけて柔らかくなったカレータキコミ改め、カレー出汁茶漬けをサラサラとかっ込み出した。その顔には再びツヤツヤとした生気が宿っている。
全く現金なヤツだとミキタが軽く溜息を吐いて鍋をコンロの上に戻すと、奥から視線を感じた。その方向を見ると、すっかり皿を空にしたレンドルフと、あと数口で完食しそうなユリがこちらをジッと見つめていた。二人とも興味津々で、目がキラキラとしていた。
ミキタは軽く片方の口角を上げて、まだ鍋に残っている焦げたタキコミを深皿に取り分けると、スープボウルにまだ熱いスープを注ぎ入れる。そして手早くハーブとネギを散らしてから、二人のテーブルへと運んだ。
「口に合うか分からないけど、味見して行っておくれ」
本来ならば賄いのようなものなので、貴族の二人に出すようなメニューではない。けれどあまりにも揃って期待に満ちた目で見て来るのが可愛らし過ぎて、うっかりミキタの庇護本能が刺激されてしまった。
「「ありがとうございます!」」
皿に取り分けながら、そのまま焦げたパリパリ部分を楽しんだり、スープを注いでふやけるのを待ってみたりと楽しげに味わっている二人を見て、ミキタは何とも温かい気持ちになっていた。そしてふとすぐ隣でうまうまと食べ続けているステノスのプルプルと揺れる顎肉が視界に入り、何故かミキタは無性に腹立たしくなって思わず睨みつけて舌打ちをしてしまったのだった。
お読みいただきありがとうございます!
ミキタはステノスに対して塩を通り越して激辛渋対応ですが、嫌っている訳ではありません…多分?(笑)