543.ゲームと現実
ユリが急いでアナカナの服を整えてから薬局に戻ると、そこにはいつもよりも質の良い騎士服に身を包んだレンドルフが待っていた。
普段着ているものは動きやすさを優先にしているので、体よりも少しだけ余裕があるためはっきりと体型を拾わないデザインだ。けれど正装や半正装になるとしっかりした光沢のある生地で、体型に合わせて裁断されている。それがレンドルフの分厚い胸板と伸びた背筋をより美しく見せていた。そして決して細くはないのだが、胸板との差が大きいのでキュッと引き締まったウエストラインも強調されている。
王城で行われる夜会の警護に立つ時などに着ているもので、ユリも遠目からこっそり見かけたことがある。式典の時に着る正装の方は残念ながらまだ見たことがない。それでも半正装姿を間近で目にして、ユリは一瞬レンドルフに見惚れて言葉に詰まってしまった。
「ユリさん?」
「あ…えと、レンさん、ごめんね。帰ったばかりで疲れているのに」
「いい馬車を手配してもらったから、全然。それよりもユリさんには随分迷惑を掛けて」
「ぜ、全然!レンさんの役に立てたなら、迷惑なんて!」
「んんっ」
途切れそうにない二人のやり取りに、さすがにアナカナが咳払いをして割り込む。野暮だとは分かっているが、もうあまり時間がないのだ。二人もそのことに気付いて、慌てて姿勢を正した。
「あ、す、すぐに殿下をこれで運ぶから」
「そ、そうね。じゃあ何か柔らかいものを中に入れた方がいいでしょ?すぐに持って来るね」
「ありがとう、助かるよ。それと、ここで扱っている商品であまり固くないものを見繕ってくれると。目隠しで上から乗せるから。代金は後で必ず支払うよ」
レンドルフが手にした麻袋を広げると、一目で居心地が悪そうなのは分かるので、ユリは備品として準備してある毛布やクッションを取りに行く。ヒスイもレンドルフの言った商品を棚から見繕う。基本的に瓶に入った商品が多いが、タオルや包帯なども扱っているのでありったけを棚から下ろす。
「ウォルターは来られんのか?」
「本日は御前会議で、騎士団の方針についての見直しが議題ですので、夜まで解放は難しいかと」
「ううっ…専用鞄で運ばれるのは不可能か…」
「なるべく丁重に扱いますから」
お忍びで勝手に出て行くアナカナをこっそり王女宮に戻す為に、それなりに寝心地を考慮されたアナカナ専用運搬鞄が存在しているのだが、それを管理しているのがウォルターなのだ。レンドルフが近衛騎士時代に一部管理を任されていたこともあったが、今は当然のようにそれに触れることはない。それにそもそもウォルターのところまで取りに行く暇もないのだ。
アナカナは分けてもらった便箋に、レンドルフに薬局に買い物に行くように依頼した旨をしたためると、彼女しか使えない独特の文字でサインを記した。これは前世で使用していた文字「漢字」を使っていた。なかなかに画数の多い漢字をチョイスしているので、アナカナにしか出来ないサインになっているのだ。これさえあれば、誰かに見咎められてもレンドルフが責められることもなく、中身も改められることもない筈だ。
レンドルフは書面を受け取って胸ポケットにしまい込んでから、目の粗い麻袋でアナカナの柔らかな皮膚に傷が付かないよう毛布で丁寧に包む。その作業をしている間に、ユリが持って来たクッションを底に敷き詰めた。
「失礼します」
毛布ごとアナカナを抱きかかえ、袋の中にそっと降ろす。そしてその上から広げたタオルを被せて、それを上から覆い尽くすように他のタオルや包帯などを入れた。それからゆっくりと麻袋を背中に背負う。幼いとは言え人ひとりが入っているのではあるが、レンドルフの動作はまるで綿でも入っているかのように軽々としたものだった。
「大丈夫ですか?」
『何とか。贅沢は言えぬ』
背中に向かってレンドルフが問いかけると、少々潰れたような返答があった。あまり大丈夫そうには聞こえなかったが、これ以上ここにいる訳にはいかないのはアナカナも分かっている。そういった察しが早いのは良いことではあるが、それならばそもそも勝手に一人で抜け出さないで欲しいものである。
「ええと、ユリさん。何か中身の詰まった木箱も持って行っていいかな。俺が抱えられるくらいの」
「木箱なら受付の足元にあるけど。中身は昨日届いた蜂蜜キャンディとハーブキャンディ」
「それはちょうどいいな。後できちんと支払いはするから、もらっても大丈夫?」
「うん、まだ在庫もあるし」
追加で届けてもらった乾燥対策の喉に良いキャンディは、甘い物が好きなレンドルフが帰還するのに合わせて仕入れたものだ。だからレンドルフが持って行ったところでさして影響はない。
「こっちを抱えて行けば、木箱に目が行って背中の方は目立たない筈だから。俺が背負ってると、人が入っているようには見えないって錯覚されると思う。それにこの木箱なら、俺に殿下がお使いを頼んだのも無理はないと判断してくれるだろうし」
「なるほど…」
確かに言われてみれば、レンドルフが背負っている麻袋は体格のおかげで一瞬かなり小さく見える。しかし実際にはアナカナは余裕で入るし、何ならユリも縮こまればどうにか入ることも可能なサイズなのだ。さすがにそのままでは目立つが、もっと大きな木箱を抱えていればそちらに目が行く。それにこのキャンディを王城内で扱っているのは今のところここだけだ。薬局に近いところにいるレンドルフに買い物を頼んだとしても、そう不自然ではないだろう。
「慌ただしくてごめん。この埋め合わせは改めて」
「レンさんのせいじゃないからね。こっちこそ、疲れているのにごめんね」
「それこそユリさんのせいじゃないから」
さすがに少し重そうに木箱を抱えたレンドルフが薬局を出て行こうとするのを、ユリは先回りをして薬局の扉を開けた。レンドルフが「ありがとう」と笑顔で通り抜けて行くのを、ユリは窓越しにしていたのと同じくらいの勢いで手を振って見送ったのだった。
あの様子ならば、何とか無事にアナカナを送り届けられそうだと安堵してユリは扉を閉めた。
「ユリちゃん、あとは私がやっておくから副所長のところに顔を出してあげて」
「はい、よろしくお願いします。……あれ?これ、さっきブライト伯爵令息が持って来た」
ユリの視線の先には、受付カウンターの上にポツリと置かれた青い石の嵌められた髪飾りが置かれていた。品物自体に罪はないと分かっていながらも、ユリはついそれを顔を顰めて眺めてしまった。
ヒスイはその表情を目敏く察して、ユリの目から隠すように持っていたハンカチに包んで髪飾りをポケットにしまい込んだ。
「多分忘れて行ったんでしょ。しばらく経っても取りに来なければ、ここに来る騎士様に渡してもらえるようお願いするから」
「そうですね。それじゃ、私はおじい様のところに行って来ます」
「行ってらっしゃーい」
ヒスイはユリを送り出してから、ツカツカと休憩所に続く扉を勢いよく開いた。
「ひっ」
「お疲れさまでした、ブライト伯爵令息様?」
扉の向こうには、ズボンが汚れるのも気にしない様子で座り込んでいたニーノが真っ青な顔をしてヒスイを見上げていた。これまでの尊大な態度が嘘のようだが、ヒスイは何となく今の方が素なのだろうと感じていた。
「あ、あれ…いや、あの方がレンドルフ副団長…」
「今は副団長ではありませんよ。と言うよりも、この国の文官でしたら私よりもお詳しいのでは?」
「そ、それはその…名前と顔…いや、見た目が一致していなかったと言うか…」
ニーノは国の機関の不正などを取り締まる内部監査室所属になっているので、王城内の動向なども把握はしているが、騎士団関連の方面には直接の関わりがあまりない。あるとすれば騎士団でも経理などの事務方くらいだ。
それに前世の記憶があった為に、現実のレンドルフとゲーム内の近衛騎士団副団長が結びついていなかったのだ。副団長を解任された騎士の名がレンドルフだと耳にしても、姿を見て同じ人物だと思えなかった。きちんと顔と見ていればゲームのスチルの面影は残っているのだが、ゲーム画面のように顔だけ眺めるようなことはなく、現実は全身が目に入るのだ。むしろ脳が拒絶したと言った方が良いのかもしれない。
「その…大変ご迷惑をお掛けしました」
「まあ、副所長から色々言われたと思うけど」
「ユ…大公女様のことは絶対に誰にも言いません。もう二度とお目に掛かることはない…と言いたいのですが」
「まあ、王城内にいるうちは不可能でしょうし、そこは仕方ないと思っておきます」
「恐れ入ります…」
ヒスイは包んだハンカチごと髪飾りをニーノに押し付けると、彼はギュッと眉根を寄せてそれを懐にしまい込んだ。
「ハンカチはお返しします」
「別にいいですよ」
「いえ。他の誰かに託しますので」
ニーノはヒスイに向かって深々と頭を下げると、目を伏せたままそそくさと薬局を去っていた。
(まあ、態度は褒められたものじゃなかったけど、一応ユリちゃんの為だと思い込んであんなに高価な宝飾品を持って来た訳だし、あれはあれで好意だったのかな。それにレン様に対するユリちゃんを見たら、完全な脈なしを思い知っただろうしね)
ユリに対して悪意があれば、薬局裏手の休憩所には足を踏み入れることは出来ない。ニーノは全く引っかからなかったのだから、少なくともユリに対して一切の悪意はなかったことは分かっている。以前ユリから、レンドルフと出会う前は妙な男を引き寄せる悪縁が多かったと聞いたことがある。周囲にいるちゃんとした男性は、大抵レンザ経由で紹介される大公家付きの者ばかりなのだ。だからユリからすると、レンドルフとの縁は非常に稀少なのだそうだ。
その中で考えればニーノはそこまでひどくはない、とユリは言っていたが、ヒスイからするとニーノも大差ないような気がしている。だが、それでも肩を落として去って行ったニーノに対して、ヒスイはほんの少しだけ憐れには思えたのだった。
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『さて、君はどちらを選ぶね?』
ニーノは文官棟に引き返しながら、レンザに言われた言葉を頭の中で反芻していた。
ゲームと現実は違うということを、以前ゲーム知識を使って令嬢一人の人生を狂わせてしまった時に思い知っていたつもりだったが、それに自分自身が振り回されていたことを痛感していた。ただ前世の推しに会えたことで舞い上がっていただけでなく、今世の自分がユリに一目惚れしてしまって判断がおかしくなっていたと今ならば分かる。しかしいくら後悔しても自分のやらかした過去は変えられない。
生まれてからずっとこの国の貴族令息として生きて来た筈なのに、ユリを前にして相手がこの国唯一の大公家のただ一人の姫君だということを実感として理解していなかった。本来ならば、嫡男でもない伯爵令息が声を掛けていい人物ではなかったのだ。彼女自身が望んでその身分を隠していたのだから、あのゲーム内のエドワード王子に寄せた不遜な会話も辛うじて目溢しされていたのだろうが、さすがにその身分を正しく理解していたとなれば話は別だ。
大公家の力で秘匿されていた存在をどこで知ったのか、誰が漏らしたのか厳しい追及があってもおかしくなかった。それどころか、このまま薬局へ行った後の足取りが消えて行方不明になっていたかもしれなかったのだ。
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レンザの前に引き出された時、アナカナが隣にいなければ前世の謝罪スタイル土下座を即座に披露していただろう。当初はアナカナと、前世の記憶のことやゲームのことは伏せて、ニーノの家系にたまに出る予言の特殊能力で知ったという方向に持って行こうと口裏合わせをしていたのだが、レンザの威圧に二人ともあっさりと屈した。
それでもアナカナが主に頑張ってくれたおかげで、ゲームのことやユリがその中でどうやっても悲劇に突き進んでしまうことを言及することだけは避けられた。ニーノはその隣でただただ頷くだけだった。その後解放された時に、「そなたは赤ベコか」とアナカナに手をちょっと抓られた。
ただやはりレンザは前世のことはあまり本気にしていない様子ではあったが、異界の「予言書」にはいたく興味を示していた。そこでニーノは、このままアスクレティ領に来て大公家で働かないかと持ちかけられたのだ。しかしそれはどう考えても言葉通りではなく、明らかにニーノから情報を引き出すつもりなことは見てとれた。そしてそれに乗ってしまえば、絶対に黙秘することは不可避だということも、喋らせる為の手段も問わないであろうことも理解した。
「こ、この者は、わらわの側付きになることが決まっておるのじゃ!」
「殿下が犬を飼うおつもりだったとは、初耳です」
ニーノの務めている内部監査室に所属する者は、制服が黒いこともあって「ブラックドッグ」と呼ばれている。そのことから職員を揶揄して犬呼びすることもあるのだ。
「まだ内々の話じゃ。わらわが七歳になるまで側付きは持てぬからの」
「それでしたらまだ数年ございますでしょう」
「良い者は早めに押さえておかねば売り切れてしまうのじゃ!早い者勝ちなのじゃ!!」
「決めるのは彼、ではありませんか?」
決死の面持ちでレンザに言い返すアナカナを、ニーノは尊敬の念を抱かずにはいられなかった。それほどまでに目の前にいるアスクレティ大公当主の存在は、絶対的支配者のそれだった。外見は細身な初老の紳士で、荒事には一切関わりがないような見目をしている。だが、まるで蛇に睨まれたかのように身動きが取れずに、ダラダラと冷や汗が流れるままになっていた。
「さて、君はどちらを選ぶね?」
そう自分に意識を向けられたと分かった瞬間、ニーノは一瞬で全身が干上がったような感覚になった。流れていた冷や汗も止まり、口の中がカラカラに乾く。これまではこれをアナカナが引き受けてくれていたのかと気付くと同時に、アスクレティ大公家当主は国王と同等の力を持つと言われていることに嫌でも納得させられてしまった。いや、実質国王以上の「何か」を持っているが、同等と契約することでそう振る舞ってくれているだけの、もっと恐ろしい存在だとニーノは頭よりも肌感覚で悟った。
答えなければ、と思うが、声が喉の奥に張り付いて一向に出て来ない。焦れば焦る程、舌が凍り付いたように痺れる。
「こやつは渡さぬ。わらわのものじゃ」
「当人の希望も聞かないとは。随分と独善的なことを仰いますな」
「幼気な五歳の愛くるしいワガママじゃろ?その五歳のおもちゃを取り上げるとは、其方も大人げないの」
ほんの一瞬だが、二人の間でバチリと何かがぶつかるような音がした気がした。だがそれはほんの一瞬で、すぐにレンザはアナカナから目を逸らして再びニーノの方を向いた。しかし今度は先程までの張り詰めたような空気は霧散していて、目の前にいるのは一人の紳士にしか見えなくなった。
「…まあ、すぐには決められないだろうね。ニーノ・ブライトくん。決めるのは君自身だと言うことを忘れないようにね」
「は…はいっ!」
ニーノはようやく声を出せたが、それまでの緊張のせいか完全に声が裏返っていたのだった。
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(何かもう、ユリシーズへのやらかしが全部霞んだ…)
思い込みで暴走してやらかした自分の態度に頭を抱えたくはなるが、今はどちらかと言うとレンザへの恐怖とレンドルフのゲーム内との乖離の衝撃が強かった。
(何が、違ったんだろうな…)
ゲームでユリシーズと序盤で出会えるのはヒーローもヒロインも貴族を選択した時だけだったので、ニーノはレンドルフでもプレイしたことはあった。しかし性格設定のせいか、どれを選んでも四角四面の正論しか言わない彼の言葉はユリシーズには響かず、ただ単に話したことがある人物程度の関係で終わっていた。それが現実ではレンドルフの体格は完全に別人であり、威圧感が増したにもかかわらずレンドルフを熱の籠った眼差しで見つめるユリの姿があった。そしてあんなにも信頼し切った表情と嬉しげな笑顔も、どれだけやり込んでもそんなスチルを見た記憶がなかった。
(ああ、俺は前世も今世もまとめて失恋したのか…)
ニーノは不意に全てが腑に落ちて、思わず苦笑を浮かべていた。そもそも今世ではスタートラインにすら立てていなかった。そんな苦い思いを抱きつつ、ニーノは胸のポケットにしまった髪飾りを服の上から握り締めたのだった。
お読みいただきありがとうございます!
多分アナカナのサインは「亞那迦儺」くらいになってる(笑)
ニーノが自分が余計なことをしたせいで不幸にしてしまったと思っている子爵令嬢ですが、金持ちの後妻として売られるように嫁ぎましたが、行ってみたらお相手は危篤でそれどころではなく。そしてそのまま亡くなって葬儀と同時に相続争いになだれ込み、完全に放置されていました。
そしてそのまま彼女はどさくさに紛れて嫁入り道具を売り飛ばして逃走。その後父親を見捨てた母と弟と密かに合流し、今は平民として平和に暮らしています。母親の薬代の為に密かに儲け話を回してくれたニーノには感謝しかなく、全く恨んではいません。単にどっちに転んでも父親がダメ男だったと言う話なのです。
どこかにそのエピソードを入れるつもりでしたが、入れ損ねてしまったのでここで補足。