535.あの時のこと、これからのこと
レンドルフがぼんやりと治癒院の白い天井を眺めていると、部屋の扉がノックされた。
それに応えると、ゆったりとしたシャツ姿のダンカンが入室して来た。いつも固めている髪も何も付けておらず、癖のないサラサラとした直毛が額に下がっているせいか、普段よりも若く見えた。
「起きるなよ。無理をさせたら私が院長に叱られる」
「はい、そうします」
身分も地位も上のダンカンを迎えるのに頭を上げかけたレンドルフに、ダンカンは苦笑混じりで肩を竦めた。レンドルフも、この治癒院の院長は腕が良い医師ではあるが大変厳しい人物なのは身に染みて分かっていたので、その言葉の通りに再び枕に頭を預けた。
「調子はどうだ?」
「もう大丈夫だと思うのですが、まだ安静にしておくようにと」
「まあ、専門家の言うことは聞くべきだな」
ダンカンは部屋の隅に置いてあった椅子を勝手に引っ張って来て、レンドルフの寝ているベッドの脇に置いて座り込んだ。
「私はやっと退院の許可が出たので、一足に先に王都に戻る」
「そうですか。他の皆は」
「あのカトリナ家の末の小僧は、神殿預かりだ。実家がやらかした後だからな。関わりの薄い神殿に世話を任せた。他の第四の者はもう数日残るらしいが、お前と一緒に帰れるかは院長次第だな」
魔女プロメリア・トーカを封じ込めてから、三日が経過していた。
------------------------------------------------------------------------------------
クロヴァス辺境伯当主夫人直伝の得意技と言われる顎の関節外しを行使して、レンドルフはコールイが舌を噛むことを防ぎつつ、閉じなくなった口の中に強引に残った回復薬を流し込んだ。量こそは少ないが、やはり最上級の回復薬だけあって、コールイの体にはかなりの効果が現れていた。
その後、コールイが結界を破壊したことによって、ダンカンが連れて来ていたボルドー家直属の部下達も駆け付けた。彼らも一様に負傷していて、来られたのはその中でも軽傷の数名だったが、無事にカトリナ伯爵及び家令などの関係者一同は捕縛して連行したと報告を受けた。
ダンカンが部下達に命じて、この場から最も近い治癒院か神殿から治癒士を呼ぶことと、怪我人を運ぶ馬車の手配をするように申し付け、その場は一旦落ち着いたように思えた。
だがその直後、プロメリアに盛られた薬と特級回復薬の成分が影響したのか、二日後に戻る筈だったレンドルフの体が突如急速に戻り始めてしまった。巻き戻った体に合わせていたドレスは当然のように弾けて、丈夫なベルトや装飾品はレンドルフの体を拘束するような状態になってしまった。気付いたダンカンが慌ててその場で切り裂いたが、そのせいで完全に塞がっていなかった傷口が再び開いてしまったのだ。
このままではマズいと、ダンカンは大急ぎで辛うじて残っていたテーブルクロスで最低限レンドルフを包んで、強引に担ぎ上げて神殿に向かった。幸いこちらに駆け付ける途中だった治癒魔法の使える神官と合流出来たので、その場で応急処置を施してもらい事無きを得たのだった。
その処置をしてくれた神官が女性だったのと、周囲にはそれなりに人目があった為に別の意味でレンドルフは見えないところに傷を負った気がしたが、ひとまずそこは考えないことにした。一応ダンカンがその場で「毒を浴びたため、急ぎ服を脱がせる必要があった」と説明をしていたのだが、さすがのダンカンも焦っていたのか明らかに目が泳いでいた。そこは周囲も沈黙で触れないまま流してくれたのだが、レンドルフとしてはむしろ何か言って欲しかったと痛みに耐えながら思ったのだった。
こうして重傷者数名と多数の軽傷者は出たものの、一人の死者も出さずに一連の捕縛劇は幕を閉じたのだった。
------------------------------------------------------------------------------------
「その、シオシャ侯爵閣下は…」
「今は落ち着いておられるよ。ただ、自害防止の魔道具を装着しているから大人しいだけかもしれんので、常時交代で見張りは付けている」
「話は、出来るでしょうか」
「一応院長に確認しておこう」
病に冒されていたコールイは、少ないながらも飲まされた特級回復薬のおかげで病状が安定した。もうかなり症状が進行して完治は見込めないらしいが、それでも確実に余命は伸びたとの医師の見立てだった。そしてあの時は他に手段もなく最善手だったということで、コールイには魔力無効化の魔道具を使用して魔力を彼から永遠に奪うことになったが、それが却って病の進行を遅くしているとの診断結果も出たのだ。
それを聞いてコールイは黙り込んでしまったが、明らかに不服げな表情だったと聞いた。
------------------------------------------------------------------------------------
あの日、ダンカンはカトリナ伯爵の横領を始めとする悪事の証拠と、邪魔になる伯爵の護衛達を制圧するために屋敷に乗り込んだ。伯爵邸にいる者達はすっかりプロメリアに心酔させられているとの情報を掴んでいたので、プロメリア捕縛の邪魔をすることを防ぐ為もあった。それに本邸内で捕り物が始まれば、その騒ぎを聞きつけたプロメリアの気を逸らせることも出来ると考えていた。
実際にはプロメリアがお茶会の会場であるガゼボの周辺に強力な結界を張って、本邸とは隔絶した空間を作っていた為にその騒ぎは届かなかったのであるが。
カトリナ伯爵はかなり抵抗をしたものの、そこまで強い者もいなかったので、捕縛は予想よりも順調に進んだ。そんな時に、どういう訳かコールイが現れて、たった一人で戦況をかき乱してしまった。
不意打ちというのもあったが、あっという間に両陣営の半数以上がコールイ一人に制圧された。
ひとまずダンカンはプロメリアよりもコールイの制圧を優先し、数名の部下が重傷を負いながらもコールイの動きを止め、魔力封じの魔道具を装着することに成功した。その時点でカトリナ伯爵を含めて関係者は行動不能になっていたため、後は部下に任せてダンカンはレンドルフの方に向かった。
そこでまだ結界の外側で解除中だったアイヴィーに遭遇して、その時点でダンカンはようやくレンドルフを一人にしてしまったことに気付いて蒼白になったのだった。
その後、転移の魔道具で飛ばされたヨーカが結界内に入り込んだことで、一瞬ではあるが結界に弛みが出来て、そこからアイヴィーが結界に人が通れるだけの穴を開けたのだった。そこでダンカンがレンドルフを救出に向かい、アイヴィーには隙を突いてプロメリアに攻撃を仕掛ける作戦に変更し、結界内に飛び込んだのだ。
レンドルフがダンカンに窮地を救われた際、どことなく疲弊していたのはそのせいであった。
------------------------------------------------------------------------------------
「何とか、死者出なかったのが幸運だったな。一歩間違えば何人も死んでいた」
「そうですね。ボルドー団長もかなりの怪我を負っていたと聞いています」
「まあ、少々無茶をしたせいで傷が広がっただけだから、半分は自業自得だな」
ダンカンも本邸での戦闘で、コールイから肋骨にヒビを入れられていた。簡単な応急処置だけでそのままレンドルフのところに駆け付けたので、ヒビが入っていた箇所も完全な骨折になったのだ。
「俺は全く気付きませんでした…」
「気付かせないようにしてたんだから当然だ。一応団長としての見栄もあるからな」
眉を下げて情けない顔になったレンドルフに、ダンカンはニヤリと笑って足を組み替えて胸を張った。その不遜な態度と悪い笑顔は、軽装でも魔王の雰囲気を醸し出していた。
(事実は絶対言えんがな…)
とは言え表情とは裏腹に、ダンカンは申し訳ない気持ちで心の中でそっと呟く。
ダンカンが重傷になった原因は、勿論プロメリアとコールイとの連戦もあったが、それにとどめを刺したのがレンドルフの運搬だったのだ。自分よりもはるかに重いレンドルフを抱えて走った為、折れていた肋骨の一部が内蔵を傷付けてしまったのだ。
しかしそれはレンドルフの責任ではないのは分かっているし、傷一つ付けないと豪語したのに作戦に参加した者の中で最も重傷を負わせてしまった負い目もある。それに何より自分のせいで怪我が重くなったことを知れば、レンドルフは必要以上に気にするだろう。ダンカンはこの怪我のことは絶対に口にすまいと固く誓っていた。
------------------------------------------------------------------------------------
ヨーカは神官に治癒魔法を掛けてもらい、少しずつではあるが痛みが取れていることを実感していた。
「ヨーカ…ぅわっ!!」
「…無茶すんなよ」
治癒魔法は掛けられた人間の治癒力を高めて怪我などを治すものなので、怪我の程度によって体力的な負担が大きくなる。ヨーカの怪我はもしかしたら再起不能になる程の重傷なので、治療も一気には行えないのはその為だ。
体力を使う治療の後は気怠い眠気が降りて来るので、ヨーカはウトウトしていたのだが、部屋に入って来たレイロクがどこかに躓いた音で目が覚めてしまった。
「ゴメン…寝てた?」
「いや。目を閉じてただけだ」
本当は半分寝ていたのだが、何となく見栄を張ってヨーカはそんなふうに返していた。
「ヨーカに手紙が来てる。多分フラウからだ」
「悪いな」
「ヨーカも無理しないで。僕が世話係に立候補したんだけど、僕の方がお世話され係みたいになっちゃって」
「俺が希望したことだし」
ヨーカは億劫そうに寝台から起き上がって、レイロクが差し出した封筒に手を伸ばす。しかし、片目を完全に包帯で覆われているので距離感が掴めず、レイロクの手ごと掴んでしまった。
レイロクは封を開ける為にペーパーナイフを渡そうと、サイドテーブルの上をペタペタと探っていたが、それよりも前にヨーカが封を毟り取っていた。
プロメリアに切られたヨーカの右目は、完全に使い物にならなくなっていた。少しでも機能が生きていれば、回復薬や治癒魔法などで治療も出来るのだが、完全に駄目になってしまった場合は再生魔法に頼るしかない。しかしその再生魔法はごく限られた人間しか使うことが出来ず、非常に魔力の消費も激しい為高額なものになる。それを行使してもらえるのは羽振りの良い高位貴族か、裕福な大商人くらいなのだ。とてもではないがヨーカにその治療費を払える力も伝手もない。
今回のことは巻き込まれたようなものなので、通常の見習いよりは治療費は多く補填される。しかしそれでも到底再生魔法を依頼するまでには足りないし、何よりも片目は無事なので、適切なリハビリさえすれば日常生活を送る上で大きな問題はないと判断されるだろう。そうなると、このまま騎士を目指すのは大変厳しいと嫌でも分かってしまった。
それに今回のことで、長兄だけではなく先代の父の頃から当然のように行われていた不正が明るみに出てしまった。殆ど没交渉ではあったとは言え、ヨーカの籍はカトリナ伯爵家に連なっている為、非常に立場が不安定になってしまったのだ。何かの罪に問われることはないが、やはり王家に近いところにある王城騎士団に罪人の血縁がいることを快く思わない者もいる。
今のヨーカは、ありとあらゆるものが手から零れ落ちてしまった状態にあった。
「フラウ、心配してた?」
「ああ。…だけどこりゃ、心配ってよりは説教だな」
「またヨーカは」
「いいんだよ。フラウにはメソメソしてもらいたくねぇから」
今回のカトリナ伯爵の不祥事で、フラウとの婚約を解消されてもおかしくない。ヨーカもそのことは覚悟していたのだが、フラウからの手紙はそんなことは一切匂わせてさえいなかった。
王城で文官として働くだけあって、教本のような整った手蹟のフラウにしては乱れた文字を眺めながら、思わず口角が上がってしまうのをヨーカは堪えられなかった。その内容はヨーカの言う通り説教に近かったが、幼い頃からの付き合いなので、それが彼女の心遣いなのはヨーカも分かっているのだ。
「……これからどうっすかな」
「ヨーカ…」
「レイロクだって、色々決めなきゃならねえだろ」
「そうだけど…今はヨーカのお世話係のことで手一杯なんだ」
「ははっ、何だよ、それ」
レイロクは、ダンジョンから転移させられたヨーカの行方を自分の操る蜘蛛に追わせた。そこでカトリナ伯爵邸の近くに転移して、そしてヨーカが瀕死の重傷を負っていたのを目にしたのだ。そこからは必死で蜘蛛を操り、辛うじてプロメリアの攻撃からヨーカを救うことが出来たのだ。
しかし、ヨーカを守る為にレイロクは二匹の蜘蛛を失っていた。特に目の悪いレイロクの代わりに目になっていた蜘蛛を失ったことで、彼は日常の行動も覚束ない状況になっている。
ヨーカよりもむしろレイロクの方が、騎士団にいることが困難な状態だろう。そのことはレイロクも十分に承知していた。
「ヨーカが決めたら、僕も決めるよ」
「……もう、俺は」
「この続きはフラウも一緒の時にしよう」
「レイロク…」
「僕らはこれまでも三人で色々考えて来たじゃないか。続くにしろ……終わるにしろ、ちゃんと三人で話そう」
「…ああ」
ヨーカとレイロク、そしてフラウの三人は幼馴染みだ。ヨーカとフラウは婚約者同士で、レイロクは側近のような形ではあったが、実際は自由奔放なヨーカを二人で支えて来たような関係だった。傍から見れば奇妙な間柄だったかもしれないが、少なくともヨーカに振り回されながらもフォローして回ることで、レイロクとフラウは戦友のような関係だった。そして二人は、そんなヨーカが思うままに突き進んで行く背中を追いかけることが好きだったのだ。
だが、今のヨーカは自由な羽根を毟られて失ったような状況だ。それはこれまでのような関係の終わりを意味している。
「あ、ごめんよ。治療後だから疲れてるよね。僕はちょっと洗濯して来るから、ゆっくり休んで」
「ああ、そうする」
治療の為に取り替えたばかりの寝衣が籠の中に入っているのに気付いて、レイロクはそれを抱え上げた。そしてそれを持って置いてあった椅子にぶつかりながらレイロクが出て行くのをヨーカは見送ってから、胸にフラウからの手紙を抱えたまま静かに左目を閉じたのだった。