531.魔法陣に挑むもの
レンドルフは、ものすごい勢いでプロメリアの足元だけでなく周囲の空間にも同時展開して行く魔法陣に息を呑んでいた。
魔法陣は一昔前の魔法士なら誰もが描けていたが、今はそれを使う者は殆どいない。魔法陣を描くことで魔法の威力や精度が格段に上がるのではあるが、発動までに時間が掛かる。それにその魔法陣を描くのにも魔力を消費するので、慣れていない内は失敗率も高いのだ。
かつて人材が豊かだった頃は、慣れるまでにきちんと修行を積むだけの時間もあり、それを教える先輩達にもフォローするだけの余裕があった。けれど一気に人口が減った為に未熟な魔法士が増え、ベテランの肩にも重責が掛かった。その為魔法はとにかく効率重視となって、魔法陣の代わりに魔石や魔道具を利用することで補うことが主流となった。
そして魔法学の講師なども、確実性と効率を優先して魔法陣を使用せずに発動するものを求められたため、あっという間に魔法陣を行使する魔法は廃れて行った。今や目にするのは高度な精霊獣の召喚魔法を使う際くらいで、その召喚魔法を使える者自体も少ない。レンドルフはその珍しい召喚魔法を使うことが出来るが、魔法陣を使用する程の高度なレベルには達していないのだ。魔法陣を使用する魔法は、相当魔法に傾倒した者の趣味の領域だとさえ言われている。
ただ半永久的に効果を保つ為の魔法などは、安定の為に何かに書き記して使用することもあるので、魔法陣は完全になくなった訳ではない。最も代表的なものが、王都全体をあらゆる呪詛や凶暴な魔獣から守っている防御の魔法陣だ。建国王が国を治めていた時代に王城の地下に描かれたという魔法陣は、定期的に王族の魔力を補充する必要はあるが未だに有効なのだ。
騎士科にいたのでそこまで詳しい内容ではなかったが、レンドルフも授業で使用した教本などで魔法陣自体は幾つか目にしたことはある。それだけにプロメリアの作り出す魔法陣が、構築される速度と精緻さが桁外れだということは理解出来た。禁術とされる魔法ではあるが、見る者に有無を言わせぬ圧倒的な美しささえあった。レンドルフは、それを編み出して実行出来る彼女の並外れた実力に、恐怖と同時に畏敬の念すら感じてしまった。
魔力の奔流で巻き起こる風にあおられて、きちんと纏めてあったレンドルフの髪が乱れて顔に絡み付く。何も出来ない悔しさもあったが、こんなに凄まじい魔法を目の当たりにして目が逸らせなかった。それは禁術であっても、最高峰の魔法の到達点の一角でもあるのだ。もうこんな魔法を目にする機会はこの先おそらくないだろう。
「さあ、こちらへ」
魔法陣が完成したのか、プロメリアの足元だけでなく周辺にも魔力で描かれた魔法陣が浮かび上がり、それが連動して鼓動のように明滅している。そしてプロメリアはゆっくりと片手を上げてアイヴィーを誘うように手招きした。それに釣られるように、アイヴィーの体がユラリと前方に揺らぐ。
アイヴィーの足が魔法陣の中に入った瞬間、地面から光る蔦のようなものが出現して体に巻き付いた。魔力で出来たそれは実体がないのか、アイヴィーの体に染み込むように巻き付いて行く。
拘束されているアイヴィーの顔からは完全に感情が抜け落ちて見えた。
このままプロメリアの魂が入ってアイヴィー達の体が保たなければ、長年脅威とされて来たトーカの魔女は終焉を迎える。それが最も確実な方法かもしれないが、それでもそれを最後の手段として避けようとして来た人々がいた。もしレンドルフもそれを事前に知らされていれば、どうにかしてそれを回避出来ないかと手を尽くした筈だ。
ふと、レンドルフはかつて学園で受けた魔法概論の授業のことを思い出した。その授業では座学で魔法陣のことにも触れていたが、その中で繊細な魔法陣はそれだけ強大な魔法を行使することが出来るが、その反面僅かな歪みが生じるだけで威力が半分以下になると講師は言っていた。
複数同時展開しているプロメリアの魔法陣のどれか一部でも崩すことが出来れば、そこに隙が生じて魔力無効化の血を打ち込む瞬間が出来るかもしれない。レンドルフが持っていたものは奪われてしまったが、まだ予備はある。その予備の一つは、彼女に一番近いところにいるアイヴィーが所持している筈だ。
まだレンドルフの魔力は完全に戻ってはいない。けれど今ならば、短時間ではあるが身体強化魔法くらいなら使えるところまで回復している。本当は遠距離から攻撃出来る土魔法が使えれば良かったのだが、今の回復具合では簡単に防がれてしまう程度の威力しか発動出来ないだろう。
レンドルフは、ドレスのスリットを利用して太腿に括り付けてある短剣に手をソロリと這わせた。プロメリアを直接狙うのは警戒されているだろうが、そう見せかけて直前に方向転換をして魔法陣を叩くことは出来ないかと距離を測る。
完全に禁術が発動して、プロメリアの魂がアイヴィー達の体に入り込む前に行動を起こさねばならない。レンドルフは注意深くタイミングを逃さないように、息を詰めてプロメリアの動きに集中した。
「さあ、その体をわたくしに差し出しなさい」
魔力の蔦はアイヴィーの体を完全に包み込んで、まるでアイヴィーの体が発光しているかのようになっていた。プロメリアはニィ、と口角だけを上げる微笑みのような表情になって、片手をアイヴィーの方へ伸ばした。
「させるかよっ!」
レンドルフがもう少し距離を詰めれば自身の攻撃射程内に入るというところまで移動していたが、それよりも早く倒れたままだったヨーカが飛び起きた。
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「ヨーカ!?よせっ!」
右目ごと顔を切られて、更に右肩を深く刺されているヨーカは、もう半身がグッショリと血に塗れている。おそらく右腕は腱を切られたのだろう。全く力が入っておらずに走るヨーカの動きにブラブラと揺れるだけだ。それにヨーカは行動制限の魔道具を装着されているので、攻撃態勢を取ることが出来ない。そんな状態でプロメリアに向かって行くのは無謀としか見えなかった。
レンドルフが、狙いを変えてプロメリアよりもヨーカに向かって走り出す。それと同時にダンカンもプロメリアに向かって地面を蹴っていた。しかしそれなりに距離が開いている為、レンドルフが追いつくよりもヨーカの方が早くプロメリアの魔法陣に到達していた。
「くらえっ!」
ヨーカが左手の中に握り込んでいた小瓶を、プロメリアに向かって投げ付けるのが見えた。
「…馬鹿な子」
プロメリアはヨーカに一瞥すら向けず、アイヴィーに伸ばしかけた手のうちの人差し指だけを軽く動かした。それと同時に、ヨーカに向かって黒い蔦が地面から出現して一直線に向かって行った。あれほど膨大な数の魔法陣を展開しながら、同時に別の魔法を行使出来るなど予想出来なかった。
「ヨーカ!!」
(間に合わない…!)
レンドルフが辿り着くよりも早くプロメリアの魔法がヨーカの胸を貫くのは火を見るより明らかだ。しかしそれでもレンドルフは体内の僅かな魔力を絞り出すように、足に身体強化魔法を重ねて掛けた。
幼い頃から辺境の環境は身内のような領民の死が身近だった。それに騎士である以上、避けられることではないのは理解している。しかしそれでもレンドルフは諦めたくはなかった。
「!?」
黒い蔦が真っ直ぐにヨーカの胸を貫く瞬間、一瞬ヨーカの体が消失した。
「蜘蛛か!」
消えたように見えたのは、ヨーカの体が突然後方に飛んだからだ。通常の動きならば有り得ないものだが、レンドルフの視界の端に掌サイズの黒い蜘蛛が入り込んで来たのを捉えていた。そしてその蜘蛛はヨーカの体に糸を絡めて、一本釣りのように引っぱり上げたのだった。そのおかげで黒い蔦はヨーカのトラウザーズを僅かに掠めただけで、離れたところにヨーカを着地させた。
あの蜘蛛は話に聞いていたレイロクの操るものだろう。彼の操る蜘蛛の中で一番大きなもので、強くしなやかな糸を吐くので、それで相手の動きを鈍くさせたり、逆にヨーカの足場となって読めない動きをする手助けをするとレイロクから聞いている。
ヨーカが投げ付けた小瓶は、何か黒い液体が入っていた。しかし投げ付けたときに力が足りなかったのか、芝生の上でバウンドして中身が零れることなく魔法陣の一つの側に転がった。
(あれはおそらく魔力無効化の血…!)
その中身をプロメリアの魔法陣に浴びせ掛けることが出来れば、確実に一部でも崩すことが出来る筈だ。
ヨーカの状態も心配ではあるが、あの蜘蛛がついているのなら一時は凌げるだろうとレンドルフは転がっている小瓶を拾うべく方向を定めた。
「アイヴィー!!」
まだレンドルフよりも魔力が残っていたダンカンの方が先に魔法陣の側に到達し、剣を魔法陣に叩き付けた。だが、実体のない魔力の筈なのに固い金属音が響き、剣を弾き返す。その魔法陣の向こうには、プロメリアとアイヴィーが向かい合うように立っている。しかし幾度も剣を振り下ろしても、ダンカンはそこから近寄ることが出来ずにいる。
「くっ…!」
レンドルフが転がった瓶に手を伸ばそうとした瞬間、先程ヨーカを貫こうとしていた黒い蔦が今度はレンドルフを追って襲いかかった。反射的に伸ばした手を引っ込めて、横っ飛びに地面を転がる。今度はレンドルフに狙いを定めたらしく、レンドルフが通過した直後にザクザクと蔦が地面に突き刺さった。どうにかそれを避け切って距離を取ると、黒い蔦はそれ以上は追いかけて来なかった。
(距離の制限があるのか)
ある程度距離を取るとそれ以上は追って来ず、魔法陣の周囲で黒い蔦はその場に留まってウネウネと蠢いている。やはりプロメリアの魔力でも無限ではないらしい。けれどそれをかいくぐってその先にある瓶を拾わなければならない。だが成長期前の体になったレンドルフは、体力も力も当時のものになっているようで、もう息が上がってしまっていて何度も試すことは出来なさそうだ。
しかしこのまま手をこまねいている訳にも行かない。レンドルフは、多少怪我をしても次でどうにかあの瓶を割らなければならないと短剣を抜き取った。
(左から回り込む…!)
反対側はダンカンが魔法陣に攻撃をしている。そちらに向かえば黒い蔦がダンカンの方に攻撃を仕掛けてしまう恐れがある。レンドルフは短剣を構えて、一旦真っ直ぐに向かってから急旋回して左側に回り込んだ。それに釣られて、黒い蔦の動きが一瞬だけ遅れる。
狙い通り僅かに隙の出来た瞬間を狙って、レンドルフは瓶に手を伸ばす。が、その瞬間後方に強い力で引っ張られる感覚がしたかと思うと、今までレンドルフの体があったところの地面から鋭い槍のように尖った枝が一斉に突き出していた。
黒い蔦ばかりだと思っていたが、他にも攻撃手段が仕込まれていた。あのままでいたら、レンドルフは確実に串刺しになっていただろう。思わずゾッとした次の瞬間、レンドルフは自分の腰に蜘蛛の糸が巻き付いていることに気付いた。どうやらレイロクの蜘蛛がヨーカと同じように助けてくれたらしい。
「あれは…止せ!」
フワリと地面に軟着陸させてもらったレンドルフは、その瓶の側に小さな黒いものが蠢いているのに気付いた。目を凝らすと、それは糸を出す蜘蛛の半分くらいの大きさの別の蜘蛛が瓶を拾い上げている。そして黒い蔦がそちらに一斉に攻撃を仕掛けようとした瞬間、蜘蛛が抱きしめるようにその瓶を砕いた。
『ギッ!!』
その中身が飛び散って、それに触れた黒い蔦が砂のように一瞬で崩れた。だが、瓶を割ったことでそれは蜘蛛の体にも掛かっている。
魔獣は他の生物と違い、生命の源は魔石と呼ばれるものだ。魔石は魔力の元でもあり、魔獣とそうでない生物の差は魔石の有無で決まる。つまり魔獣の体は魔力が実体化したようなものなのだ。レイロクの使役している蜘蛛は魔獣の一種だ。だからこそ、魔力無効化の血を浴びてただで済む訳がないのだ。
シュウシュウと全身から煙を出しながら、蜘蛛の体が崩れる。その様子は、まるで熱い紅茶の中に放り込んだ角砂糖のようだった。
しかし蜘蛛は動きを止めず、一番近いところにあった魔法陣の端に取り付いたのだった。
もう殆ど原形を留めていないが、蜘蛛は魔法陣の複雑な紋様の一部に張り付いた。そして触れたところから同じように白い煙が立ち上っている。魔力無効化の血が、魔獣の蜘蛛を分解しているが、それと同時に魔法陣を崩している。
あの繊細な魔法陣の一角を崩すことが出来たが、それを喜ぶ間もなく血を浴びた蜘蛛は跡形も無く崩れて中空へと消えて行った。
「あいつ…!」
ヨーカの残った片目でもその蜘蛛の最期は見えたようで、悔しさを滲ませた声が漏れる。だがそんな感傷に浸っているよりも、今は命懸けで魔法陣を崩してくれた好機を活かさなければならない。レンドルフは腰に巻き付いている蜘蛛の糸を短剣で切ると、すぐさまプロメリア達のいる方向へ走り出した。
「ふふっ、可哀想に」
蜘蛛が空けた僅かな穴にプロメリアは指を向ける。そして次の瞬間には、まるで何事もなかったかのように魔法陣の紋様が復活していた。その速度は、レンドルフが再び駆け寄るよりもずっと早かった。
が、そのプロメリアの伸ばした指先に、爪程の大きさの小さな黒いものが張り付いた。
「ちっ!」
その張り付いたものも小さな蜘蛛だ、とレンドルフが認識すると同時に、プロメリアは舌打ちをして一瞬で蜘蛛を消し去ってしまった。振り払った素振りもなかったので、小さな蜘蛛は彼女の魔力で一瞬で消し飛んだのだろう。
「あなた達とは後でゆっくりと遊んであげるわ。快楽と苦痛、どっちで歪ませて上げようかしら」
勝利を確信したのか、プロメリアはクスクスと笑った。口元を軽く隠すようにして笑う仕草は、この場には不釣り合いな程優雅ではあったが、どこか禍々しくレンドルフの目には映った。
「アイヴィー!」
「アイヴィー殿!」
幾度となく全力で剣を振り下ろしているダンカンの顔は汗だくで、髪も無惨に崩れている。それでも彼は手を止めることはなく、何度弾き返されても魔法陣に叩き付けられている。
レンドルフも手にした短剣で魔法陣を攻撃するが、襲って来る黒い蔦を避けながらなので数回切っ先を掠めた程度だ。
その二人の様子を嘲笑うように、プロメリアは光る魔力で覆い尽くされようとしているアイヴィーに触れようと手を伸ばした。
「なっ…!?」
あと少しでプロメリアの指先がアイヴィーの体に触れようとした瞬間、不意に規則的に蠢いていた光の拘束がグニャリと歪んだ。それはプロメリアの予想外だったのか、彼女の顔に僅かに狼狽の色が滲んだ。
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「よくやった、少年…!」
その光の下から、アイヴィーが腕を伸ばしてプロメリアの手を掴み、獰猛とも言える表情で破顔したのだった。