522.レイの思惑、ハリの決意
「第一王女…アナ様、ですか?」
「はい…」
何故そこでアナカナの名が出て来るのか繋がりが分からず、ユリは何度か目を瞬かせた。ハリはユリの方を見られないのか少し俯いて目を伏せているため、その感情までは読み取れなかった。
「王女殿下は…その、私に、婚約の申し込みを」
「ああ。それはおめでとうございます」
「いえ…それを、私は受けるわけにはいかないのです」
ユリは既にアナカナがハリを婚約者に据えるように、と祖父である国王に進言していることを知っている。ハリの立場を鑑みれば、別にアナカナとの縁談が持ち上がってもおかしくない。本当はハリは公爵家の血筋ではないが、表向きは唯一のシオシャ公爵令孫であり、史上最年少で天才と名高い聖人だ。地位や将来性は王族との縁組みを打診されても何ら問題がない。現在ハリは11歳で、アナカナが五歳で年の差はあるが、貴族の政略ではよくある範疇だ。むしろユリとの年の差の方が大きいくらいだ。
「私は…こんな罪人の私は、王女殿下には相応しくありません…」
第一王女アナカナは王太子の第一子で、性別問わず長子相続を推奨している国の方策で鑑みると現在の王位継承順が限りなく高い存在だ。そのうえ稀代の天才児で、一説によれば予知能力もあるのではないかと噂される程だ。順当に行けば将来的に女王の地位に就いてもおかしくない。しかしこれまでのオベリス王国の歴史で女王は後継が幼い為に中継ぎとして選出された例があるだけで、正式な為政者として王冠を戴いたことがない。
まだ女性当主には根強い抵抗がある中で押し進めて来た長子相続を王家が守らないとなると一悶着ありそうだが、女王の治世に反対をする者も多い為どちらに転んでも茨の道しかない立場の王女だ。
「だから罪を告白して大公家に罰してもらおうと?」
「……はい」
「それはしたことへの反省ではなく、アナ様から逃げる為の手段ということですね」
「そ、そのようなつもり、は…」
思わず責めるような口調になってしまったユリにハリは慌てて顔を上げて否定したが、その途中で自分でもそう思われても仕方ないことに気付いたのだろう。言葉の最後は殆ど聞き取れない程に小さく弱かった。そして再び俯くと、小さいがはっきりと「その通りかもしれません」と呻くように呟いた。
「あの方の隣に立つ者は、もっと優秀で正しい人物でなければならないのです。私のように周りの者を不幸にする存在は、あの方の側にいてはならないのです」
「あー…」
彼の独白を聞いて、ユリはどこか居心地が悪そうにソワソワしてこめかみに軽く指を当てた。
(これ…神官長様が私に引き合わせるように仕向けたわね。昔の私にそっくりだもの…)
穏やかな美しい顔をしていながらその中身は全く予測も出来ない策略家であるレイの顔を思い浮かべて、ユリは思わず眉を顰めてしまったのだった。
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ユリは母方の実家で物心ついた頃から離れと言われる実質物置小屋のような場所に押し籠められ、疎略に扱われ続けていた。そんな不遇な生活から助け出されて大公家に引き取られてから、しばらくは周囲の変化について行けなくてずっと心を閉ざしていた。だが何年もかけて少しずつ温かな環境に包まれて守られ、やっと人間らしい生活が送れるようになって来たが、今度は自身の存在が周辺に悪影響を及ぼすことに気付いてしまった。
大公家に保護された当初は栄養状態も悪く、洗脳の為の毒を少しずつ摂取させられていた影響で発育が悪かった。だがやっと毒が抜けて生命維持から体の成長に栄養が回せるようになると同時に、身長は伸びなかったが体付きは一気に年相応になった。
女性らしい体付きに子供のように小さな身長というのはどうにも侮られる対象と映りやすいらしく、外出するとユリはかなりの高確率で厄介な男性に絡まれた。勿論護衛は付けるようにしていたが、それでも全く被害がないとは言い切れなかった。酷いものは護衛自身が金銭を掴まされて、その相手とユリと二人きりになるように手引きされたこともあった。その為、ユリに付けていた護衛はどれだけ替わったか分からない。そして連れて歩いている侍女や、ユリと顔見知りになった薬師などにも直接、間接問わず被害が散見されるようになって行った。
その頃のユリは、幼い頃から刷り込まれた自分を価値のないものと思う考えから脱却することが出来ず、自分のせいで周囲に迷惑をかけることを必要以上に恐れた。ユリにしてみれば、ようやく手に入れた安全な居場所が無くなってしまうことを極端に恐れると同時に、自分には幸福を感じること自体が相応しくないとも思い込んでいたのだ。
そんなことが立て続けに起こると、少しずつ快方に向かっていたユリの心は再度閉ざされかけた。元々壊れかけていたユリの魂は、精神状態によって大きく影響する。精神状態の悪化が、そのまま命の危機に直結するのだ。
この時はレンザを始めとする周囲のフォローのおかげで辛うじて持ち直すことが出来たが、そのことでユリはすっかり外出を怖がるようになってしまっていた。
しかしレンザはそれを「薬師の資格を取る」という興味の方向に導き、信頼のおける冒険者と出会わせることで再びユリに外に目を向けさせたのだった。それにユリに対してよからぬ振る舞いを仕掛けた者に反撃をする装身具の完成を急がせたので、それを着けてユリはどうにか外出が出来るようになったのだった。
そしてその後レンドルフと再会を果たして、ようやくユリは自身を縛っていた枷から本当の意味で解放されたのだ。
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「ハリ様は、アナ様にとって必要な方だと思いますが」
「私のような者など、お役に立てるとは思えません」
命を狙われやすい王族には、それこそハリのような治癒魔法の使える者が側近や伴侶として望ましい。けれど神殿との関係や後ろ盾の家門との派閥なども考慮すると、候補者がいないことも珍しくない。しかしハリの場合は、表向きの出自は親王家派の一角でもあるシオシャ公爵家なので、王族との縁談があってもおかしくない。しかも現在唯一の未婚の女性王族であるアナカナとは家格も年齢も釣り合う。むしろハリが聖人認定を受けた瞬間に、王命で婚約が結ばれていてもおかしくなかった。
それでもそんな話が全く出ていなかったのは、やはりそこはハリが実際はシオシャ家の血を引いていないことが影響しているのだろう。そのことはさすがに表には出せないが、王家も把握している。
「ですがそうなりますと、アナ様のお立場が大変悪くなりますよ?」
「そのようなことは…」
「アナ様は我が大公家に大きな貸しがありますから」
「貸し、ですか?」
「ええ。ハリ様もご存知の通り、つい先日まで私が毒にあたり入院していましたでしょう?その毒はアナ様を狙ったものであり、その身代わりで私が受けてしまったことも、もうお聞き及びですね?」
ユリの言葉に、ハリは無言で頷いた。
あの案件は、アナカナが勝手に研究施設の立入り禁止区域に入って研究中の毒草に触れてしまった、と公表されている。事実はアナカナを狙った毒を阻止しようとしたユリが受けてしまったものだ。ただでさえ大国キュプレウス王国との共同研究を行い、敷地内は治外法権が認められている場所の為、公にしては国交や共同研究に影響が出ると事実は伏せられたのだ。
そして健康体のアナカナを治療の為と称して大公家別邸で一時的に保護し、ユリの治療は徹底的に秘された状態で行われていた。
それは王家にすら秘匿されていたのだが、シオシャ公爵家ではそれを掴んでいたらしい。もっとも、その仕掛けられた特殊な毒を流通させていた裏には、シオシャ公爵の存在があった。その為対立している「医療の」大公家に掴ませない為に、以前より影を付けて動向を報せていたのだろう。そうでなければユリの入院先にハリが来ることはまずない。
この毒の流通に関しては、名だけ公爵家に紐付いてはいるが完全に家を出て神殿を生活拠点にしているハリは全くの無関係であることは分かっている。
「アナ様はその借りを、ハリ様をお引き取りいただくことで返すと仰ったのですよ?」
「僕を!?…あ、いや、私を、ですか」
「ええ。私とハリ様との縁組みを王命で出されたら色々と面倒ですから」
アスクレティ家の縁組みは特殊な場合が多いので、王命が出されることがほぼ伝統となっている。条件として王家の血を引いていないことと、アスクレティ家の血が濃くなり過ぎないことが絶対だ。王家の血を引く者とは子を成せないのと、アスクレティ家の血が濃くなると王族よりも魔力量が大きくなって権力バランスが狂うことを危惧される為だ。
アスクレティ家では建国王との盟約により王命を拒否することも認められているが、だからといって断ればその後が色々と面倒なことになる。ここ最近では候補を選出することも手間がかかる為、アスクレティ家から候補を出してそれに王命が出される形を取っていて、いわば出来レースという状態だ。
今回は様々な思惑が絡んでいるので、もしアスクレティ家の意向を無視してハリとの縁組みが王命が出された場合、勿論レンザは拒否する姿勢ではあるだろうが、とてつもなく面倒なことになるのは間違いない。
「アナ様が自ら希望したとなれば、私との縁談は消滅するでしょう?ハリ様の出自を公表する気がない以上、断る理由はございませんよね。ですからアスクレティ家が王命を断る手間を掛けさせない為に立候補することで借りを返すと」
「そ、れは、その通りですが」
ユリの言ったことはアナカナからも聞いていたかと思っていたのだが、それを告げると同時に見るからにハリの顔色が悪くなってしまった。
(これはひょっとして悪いことを言ってしまったのかしら)
この説明では、まるでハリの身柄を取り引き材料のように扱ったも同然なので、知らされていなかったのならショックだったのかもしれない。アナカナのことだからとうに説明していると思っていたユリは内心慌てたが、もう告げてしまったことを取り消すことは出来ない。それに強引に大公家との縁談を進めさせない為のアナカナの横入りなのは事実だ。どうせいつか知ることになるだろうと、ユリは気にしないことにした。
「それにハリ様が婚約者としてお側にいる機会が増えれば、それだけアナ様のお食事が安全になりますよ?」
「食事の…まさか」
「アナ様のお立場は難しいですから。そもそもあの研究施設に来て社会見学をするというのも、実際はあの場で出される食事が目当てなようなものでした」
アナカナは基本的に王城で準備される食事をほぼ口にしていない。王族なので毒味はいるのだが、まだ幼い彼女は大人の毒味役とは致死量が違う。それにすぐに殺さなくても時間を掛けて分からないように体内に蓄積させる毒や、体力を削るだけのものでもそこから風邪でも引けばあっという間に命の危機になる。
そうならないようにアナカナは変装して城下に出ては、屋台などで買い食いをしていたのだった。
ユリは完全に信じてはいないのだが、アナカナは魂だけ「異界渡り」をして来て、異界の記憶を持っているという。その異界では一庶民であった為に王城で出される食事よりも平民向けの料理の方が口に合うらしく、アナカナは喜々として買い食いを楽しんでいた。
「ハリ様の加護は、食事には使えませんか?」
「多分、使えると思います」
ハリの加護は「真実の目」という鑑定魔法の上位版のようなものだ。そこまで強い加護ではないので色々と制限はあるが、食事の成分を見る程度なら可能な筈だとハリは頷いた。その為には、どれに毒素や異物が混入しているかを見分ける為の知識を得ておかなければならないが、学ぶことは嫌いではない。
「ハリ様がアナ様の申し出を受けてくだされば、私にしたことは不問に致します」
「そんなことが…許されるのでしょうか…」
「その内、ハリ様のお力を必要とした時にご協力いただくということで。貸しです、貸し」
「貸し、ですか」
ユリが鷹揚に頷いてみせると、頭上から小さな溜息が聞こえて来た。ユリから顔は見えないが、隣に立っているフェイの渋面が想像が付いた。彼は主人であるレンザへの忠心と、そのレンザが最優先にしているユリの望みのどちらを採択するべきか悩んでいるのだろう。今回はどちらをとってもレンザが渋い顔をしそうだった。ユリは心の中で「ちゃんとおじい様へフォローはするから!」とフェイに謝っておいた。
「……私にも、今度こそ助けられるのでしょうか」
「ハリ様のお心次第かと」
「分かりました」
ハリの表情はまだ迷いを完全に吹っ切れてはいないようだったが、それでも懸命に握り締めた手は固く決意に満ちていたようにユリには見えたのだった。