519.異邦人と来訪者
今回はユリのターン。レンドルフはお休みです。
「こんにちは!」
「おお〜待ってたよ、ユリちゃん」
「すっかりご無沙汰しちゃいましたね」
ユリは久しぶりにムラサキが経営している酒場に顔を出した。酒を楽しみに来たのではなく、今は昼の明るい営業時間外だ。その為ムラサキも化粧をしていない眉のない顔でユリを出迎えた。初めて会った時は夜用の妖艶美女の顔であったので、この素顔を見た時はユリは迂闊にもギョッとしてしまった。ムラサキはその反応が見たくてわざとそうしているので楽しげに笑っていたが、ユリとしては決してやってはならない反応だったと猛省したものだった。
ムラサキは酒場の女主人で、このエイスの街ではミキタと並ぶ顔役として頼りにされている存在だ。力のミキタ、搦手のムラサキというあだ名で密かに囁かれていて、街の女性達の困り事の相談などに乗っている。実のところムラサキは大公家直属の諜報員で、定めた場所で住民として暮らしながら市井の動向を探る「根」と呼ばれる影の一員だ。ミキタは当人の希望で正式な大公家の配下ではないが、嘱託のような立場でムラサキと似たようなことをしている。
ユリを溺愛しているレンザは、いつか彼女が市井に降りることも可能性の一つと鑑みて、ユリの為だけにこのエイスの街を住みやすい場所へと作り変えているのだ。まだ完全ではないにしろ、ここは大公家の箱庭のようなものだ。
ムラサキの酒場「パープルアイ」はエイスの街に入る為の門に一番近い酒場で、酔客などから情報を聞き出したり怪しげな者が出入りしていないかを監視する役割も負っている。
「何だ、フェイ、アンタも来たのかい」
「名誉ある荷物持ちだ。お嬢さんに重たいもの持たせる訳にはいかんだろ」
「そりゃそうだ」
ユリの後ろからは、両手に木箱を抱えたフェイと、街娘の恰好をした女性が入って来た。この二人は大公家の中でも特に腕の立つ護衛なので、ムラサキとも顔馴染みだ。
「いつもの悪酔い防止のドリンクと、二日酔いの薬。それから特製の胃薬も持って来ましたよ」
「あぁ〜、ユリちゃんの持って来てくれる薬は効き目が違うからね〜。助かるよ。それと、例のものは…?」
「それもありますよ。前のものよりも水分を留めておけるようにツルアオ草の成分を増やしてみました」
「じゃあ後で使わせてもらわなくっちゃね」
木箱の中には、ユリが直接注文を受けて調合した薬が入っている。通常の薬局でも購入出来るのだが、そういったものはあくまでも汎用品で、薬師に直接注文して個人別に成分を調整して合ったものを作ってもらうことも出来る。その場合は多少値は張るが、ユリの場合はまだ見習いなのでそこまで高価な薬品は扱えないため、市販品よりも少しだけお高めと言った程度だ。
ムラサキは、比較的珍しい女性の薬師(見習い)であるユリに、同性の目線で肌や髪の調子が良くなる化粧品も注文していた。ユリもその期待に沿えるようにと、ムラサキや彼女の店で働いている女性達のに使用感を聞きながら開発に勤しんでいたのだ。そして今のところ、肌の水分量を上げる効果のある化粧下地がムラサキを始めとするお姉様方に好評だった。
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「ところでムラサキさんのお手紙にあったお話ですけど…」
「ああ、どうするね?ユリちゃんが嫌なら、あたしから断りを入れるからさ」
「いいえ、会おうと思います。その方がスッキリとするでしょうから」
「分かった。じゃあ連絡を入れるから、特別室で待っててくれるかい?」
「はい、お願いします」
ムラサキとやり取りをしている間に、店のバックヤードに木箱を運び込んだフェイがシロップの入った瓶とポットを勝手に持って出て来る。少し苦味のある柑橘類を数種類混ぜたもので、酒や炭酸水で割って楽しむものだ。ユリはそれをハーブティーに混ぜて呑むのを好んでいる。バックヤードはかなり奥まった場所にあるのでムラサキとの会話は聞こえない筈なのだが、フェイはしっかりと把握していたらしい。
「食器は部屋に用意してあるよ」
「承知」
「…最初から私が受けると予想してたんですか?」
この酒場の最も奥にある特別室に慣れた様子で消えて行くフェイを見送って、ユリは複雑そうな表情でムラサキの顔を眺めた。
「準備をしてただけだよ。どうせユリちゃんが使わなくても神官様には来てもらうつもりだったからね」
「どなたかが具合でも悪いのですか?」
「ちょっと気になることがあってね」
ムラサキがユリに送って来た手紙には、神官見習い「ハリー」が面会を希望していると書かれていた。それはただの偽名で、その人物は白の聖人ハリ・シオシャだということは既に知っている。何故かユリに縁談を申し込み、その後もエイスの街で変装をして「ハリー」と名乗ってユリと接触しようとしていた。一体何の目的は分からなかったのでユリは絶対に会わないようにしていたのだが、ムラサキからの手紙をレンザに相談したところ「ユリの思うようにしなさい」と予想外にも判断を投げられたのだった。
もしユリに危険が及んだり、何か少しでも良くない懸念があればレンザは絶対に許可しなかっただろう。それを敢えてユリに任せたということは、おそらくハリに対してはもう危険なことはないと確定したのだとユリは悟った。個人的にあまり会いたい相手ではなかったが、それでも今後関わる可能性もゼロではないので、これを機に接触しようとしていた理由を聞いてしまった方がスッキリすると判断したのだった。
「刀自」
ユリが特別室に向かおうとした時、不意に店の奥からヌッと現れた人影があって、一瞬ユリは動きを止めた。薄暗い店内なので最初は影にしか見えず、その相手は随分と長身に思えた。とは言え小柄なユリからすれば大抵の人は長身の部類に見えるし、更にレンドルフを見慣れていると平均身長の感覚がおかしくなる。
「ああ、ユリちゃん。このコは最近店に入ったコだよ。ミズホ国の出だってさ」
「はじめました」
「まだちょっと言葉が怪しいから店の方には出てないんだけどね。このコを神官様に診てもらうつもりだったのさ」
目が慣れて来ると、黒髪でスラリとした長身の女性が立っていた。切れ長の目元が涼やかで、どちらかというと凛々しい顔立ちをしていた。比較的あっさりとした顔の造作は、確かにミズホ国出身の人間によく見られる特徴だった。やはりまだ昼間のせいか顔に化粧っけはなく、ここで出会わなければ細身の美青年という雰囲気だ。
「テンカ・ユリ…ユリ・テンカ?です」
「ユリ…さん?」
「そうなんだよ。ユリちゃんと同じ名前でね。まあウチの店では紛らわしいから略して『テンリ』ちゃん、って呼んでる」
「そう、テンリ、でした。よろしくな」
「よ、よろしく」
少々言葉が辿々しいが、通じない訳ではなさそうだった。そして彼女は何とも優雅な仕草でユリに向かって手を差し出して来た。ユリは握手を求められているのだと思いその手を取ると、テンリはスッと手首を返して握り締めたユリの指先に軽く唇を触れさせた。
この大陸では、恋人や伴侶でもない限りフリをすることが暗黙の了解だ。それを知らないのかは分からないが、やけに慣れている様子にユリは思わず目を丸くしてしまった。そしてテンリはユリの手を握り締めたまま、フッと微笑んで目を細めた。その整った顔立ちとブルーグレーの淡い瞳に、ユリは思わず見惚れてしまった。
「テンリちゃんは祖国で役者をやってたらしくてね。王子やら騎士の役をやって人気役者だったそうだよ」
「そ、そうなんですか」
「国には、男だけの舞台、女だけの舞台があります。私は女だけの舞台、神様に差し上げていました」
「ああ、聞いたことがあります」
ミズホ国には神に奉納する為の舞台があって、決められた人間しか立つことが許されないという行事がある。建国の神話や英雄達の伝記を上演するのだが、その年によって演者が男性のみ、もしくは女性のみで行われるそうだ。この話は、ミズホ国の馴染みの貿易商マサキから聞かされていた。
確かその舞台に立てる役者はオベリス王国でいうところの神官のような神に仕える存在で、ミズホ国の中でも高い地位として扱われていた筈だ。ミズホ国の神は好戦的で享楽を好むとされていて、良い役者であれば神に愛されて祝福が多く与えられると伝えられている。
そんな彼女がどういった理由でこの国に流れ着いたのは分からないが、相当な訳ありなのだろう。
「まあテンリちゃんは女性だけど腕っ節もなかなかのモンだから、その内ウチの店じゃない仕事を紹介してあげるつもりなんだけど」
確かに握られた彼女の手には、僅かではあるが力仕事をしていたようなタコがある。位置的にレンドルフの剣ダコと似ているので、テンリも剣を扱うのかもしれないとユリは冷静に考えていた。
「刀自、私を見捨てる気か」
「違う違う。あんたにはもっと良いところで働いてもらいたいってことさ」
「刀自!私、刀自の為なら何でもする」
「あ〜はいはい。ありがとね」
「すごく慕われてますね」
ムラサキの店は女性が客をもてなす酒場なので、どちらかと言うと女性に人気が出そうなテンリではあまり向かないかもしれない。ムラサキも彼女の為にそんなことをかんがえているのだろうが、それを少々誤解したのかテンリは途端に不安そうな顔になってユリの手を離して今度はムラサキの手を握り締めた。彼女の「刀自」呼びは、ミズホ国の言葉で目上の女性に使う敬称だったとユリは記憶している。
「ま、雛鳥の刷り込みみたいなもんだよ。役得さ」
ムラサキはそう言ってキュッと目尻に皺を寄せた。おそらく片目を瞑ってみせたのだろうが、ほぼ両目が半目の白目になっていた。眉のない素顔のせいか、幼い子供がまともに見たら夜に粗相をしてしまいそうな表情になっていたが、ユリは敢えてそこは見ないことにしたのだった。
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不意にテーブルの上に置いたペーパーウエイトのような透明な石から、チリン、と涼やかな音がした。これは一見そうは見えないが、大公家の影の中でもムラサキのように拠点を構えて諜報を担当している通称「根」が持っている魔道具の一種だ。これで会話が出来る訳ではないが、鳴らす音や回数で決まった符牒があるので、影同士の連絡に使われている。
「ああ、そろそろ来るみたいだね。ユリちゃんは部屋で待っておいで。先にちょいとテンリちゃんの健康診断をしてもらってもいいかい?ほら、遠い異国から来てるから、ちゃんと診てもらっておいた方が良いだろうと思ってね」
「大丈夫ですよ。じゃあ私は部屋に入ってます」
同じ大陸の中でも地域が違えば水も土も違っている。当然口にするものも変わって来るので体調を崩す者はそれなりに多い。しかもテンリは更に遠くの島国からやって来たのだから、当人は自覚がなくても不調があるかもしれないのだ。自国では気付かれなかった風土病を有していることもあるので、気を付けなければいけないことは早めに知っておいた方がいいだろう。
これから来るハリはまだ11歳という年齢ではあるが、聖人認定される程の治癒魔法の使い手であるし、「真実の目」と呼ばれる鑑定魔法より上位の加護も持っているのだ。ユリ自身は警戒対象と認識しているが、才能があるのは分かっている。
(一体何の話をするつもりなのかしらね)
大公家に縁談を申し込むというのは個人で、ましてや聖人と言えども未成年の少年の意志で出来るものではない。その背景にはシオシャ公爵家の思惑が絡んでいるのは予測が付くが、先日レンドルフに決闘を挑んで来た当主コールイの様子からすると、ただの政略ではない。
縁談の話が無くなったとすれば、他にハリと直接会って話す理由が思い当たらない。ユリは何とも言えない居心地の悪さを感じつつ、しっかりと護衛はついているので大丈夫だろうと覚悟を決めてハリを待つことにしたのだった。
お読みいただきありがとうございます!
ユリは大公家の息が掛かっている者がエイスの街にいるのは知っていますが、レンザが街を丸ごとユリの為に作り変えているのまでは知りません。エイスは王都の一部なので、一歩間違えば侵略行為とも取られかねない為さすがに王家にも秘密です。ただ大公女が療養していることになっている別邸に近い街なので、街中に大公家の関係者が多くいるのは見逃されています。