509.オランジュの予想するところ
今回はレンドルフとユリはお休みです。
「何で俺がこんな目に遭うのか、アンタなら理由を知ってるんだろ」
「残念ながら知りませんわ。わたくしのような凡人には、大公閣下の深いお考えは及びもつきません」
サミーは半ば机の上に突っ伏すような姿勢になりながら、恨めしげにその薄紫の瞳をオランジュに向けた。けれどオランジュは手にしていた扇子で口元を隠しながら、ツンとそっぽを向く。
「予想でいいんだよ。アンタなら幾つか思い当たる節くらいあんだろ」
そう言われてオランジュはどこまで話していいものかとしばし思案した。レンザは、サミーには高位貴族の懐に入り込んでもらうと話してあるそうだが、今オランジュが教えているのはその領域を越えているのは聡いサミーには分かっているのだろう。オランジュが聞いているのは公爵家当主を狙える程度まで教育をするということだが、それが本当に言葉通りなのか比喩としての程度の話なのかは分からないのだ。そしてそのことは話すなとは言われていないが、全て話すのは悪手であるとオランジュの勘が告げている。
「…そうですわね。どこかの高位貴族の元に送り込むつもりなのかとは思いますけれど」
「それは俺も知ってる。だが俺はまだ雇われたての新人だし、裏切るつもりはねえが、もっと古株の適任者ならいくらでもいるだろうって話だ」
「何を仰っていますの?貴方でしたらその顔と目の色で、大公家の子飼いの影の中で誰よりも不可侵の家門にも入れますわよ。それを更に深いところにまで入らせるように、ということではないかしら」
サミーは人前に出る時は前髪を降ろして目の色と顔立ちを誤摩化していた。オランジュに命じられて仕方なく剃ってしまったが、以前は髭をたくわえていることも多かった為に大分印象が違っていた。しかし前髪を上げてさっぱりとした美丈夫な外見になったサミーは、明らかに王族の血を引いていると分かる風貌になっているのだ。
「別に高位貴族のところに仕えるなら今のままでもいいだろうがよ。それくらいならいくらでも誤摩化せるぜ」
「もっと深いところと言いましたでしょう。これはわたくしの予想ですが、養子縁組を視野に入れているのではなくて?」
「養子だぁ?それはいくら俺でも」
少し斜め上に視線を向けながら話すオランジュに、その内容を聞いたサミーが明らかに嫌そうな顔をした。
サミーからしてみれば、ようやく望まない大逆の家の名から逃れて敬愛して止まない養父の実家の名を得たのに、いくら忠誠を誓っていてもそこは譲りたくなかったのだ。
「別に本当に縁組みをする必要はなくってよ。別の身分を用意するくらい閣下はいくらでも可能ではなくて?」
「…まあ、それなら。けど、何で養子なんだよ。側近とかでいいんじゃねえか」
「あるとすれば、その家門が持つ特殊な魔道具や古代遺跡、あるいは書物…などが目的かしら」
古い家門には代々受け継がれる特殊な家宝が存在していることが多い。それは血統に紐付いて受け継がれる場合が多いが、当主だけが受け継ぐことが出来るものもある。当主のみが継げるのならば、血縁でなくても優秀な後継さえいれば指名されて家宝を得ることが出来るのだ。
更に歴史ある高位貴族は大抵どこかで王族の血が入っていることが多いので、サミーの場合は血統でも条件を満たしている確率が高い。つまりはその家門の当主の信頼を得て養子に望まれることになれば、サミーの手に家宝が転がり込んで来るということになる。
現在、後継が決定していないか少々後継に問題がありそうな高位貴族はオランジュが知るだけで五家門ある。そのどの家門も何らかの家宝を有していた筈だ。しかしレンザの指定した公爵位はその中で二つだ。かつてのオランジュの婚家であったバッカニア公爵家と、シオシャ公爵家だ。
オランジュは、うっすらとサミーを後継に就けようとしているのはバッカニア公爵家ではないかと予想していた。一応バッカニア公爵家の後継は、第二王子エドワードで確定しているが、正式に臣籍降下するのは最短でも二年後となっている。その二年後というのも、王太子の子が七歳になるので、いよいよ後継指名をするのではないと目されているからだ。
この国に限らず、主神キュロスを信仰している国では子供は七歳を境に神の膝元から旅立って人の世に仲間入りするという伝統がある。様々な要因で亡くなりやすい子供は、幼いうちは神の国に魂があるとされ、七歳という年齢が魂の分水嶺と言われている所以だ。その年齢になると魔法を使うことも許可され、貴族は家庭教師、平民は学校で学ぶことになる。他にも幼児には禁忌とされているスライム粉の使用許可が下りたりして、色々と大人の世界に一歩踏み出す重要な年齢なのだ。
だからこそ、その年齢に達した時に次期後継者を選定すると大半の者は考えている。ただ実際に行うとは王家からの通達はないので、その限りではない。それが決定しない限り、王太子のスペアでもあるエドワードの臣籍降下が出来ないのだ。場合によっては、バッカニア公爵家当主の空席期間が延びてしまう。
オランジュが手塩にかけて育て上げた公爵家はそう簡単に崩れることはないだろうが、それでも二年の間に何が起こるか分からないし、いつまで当主不在のままでは領民達も不安に思うだろう。
もしエドワードの臣籍降下が延期になった場合、亡き前当主に面差しの似た、更に前当主夫人が直接教育を施したサミーが現れれば当主の座をかっ攫うことはおそらく難しいことではない。
オランジュからすれば、エドワードは幼い頃から夫と共に後継として慈しんで育てた子供のような弟のような存在だ。だから大切に思ってはいるが、その一方で、短い期間ながらもサミーの方がバッカニア公爵家の家風に合っていると考えている冷静な自分も感じていた。
「ああ…仕方ねえ。御前なら何か書物とか欲しがりそうだしな」
「あくまでもわたくしの予想ですわよ。それに…」
「それに?」
「怒りません?」
「今更」
サミーを教育している間、互いに声を荒げて言い争うことはあったが、サミーは決して何かに当たったり恫喝するようなことはしなかった。言い争いの内容は、どうにか理由を付けて煙草休憩を挟もうとするサミーをオランジュが叱りつけることが大半だ。口調は荒いが、きちんと女性に対しての気遣いはあるのはオランジュも理解している。
「もしかしたら、大公女様の練習台、かと…」
「練習台?」
「貴方は大公女様のことはご存知ですわよね?」
「あ、ああ」
「ではレンドルフ・クロヴァス様のことは?」
「ああ!レンの旦那なら前に任務で結構長く一緒にいたからな。アンタも知ってたのか」
レンドルフの名を出した瞬間、サミーの顔がパッと明るくなった。その様子に、オランジュは「随分と人たらしだこと」と感心していた。
「よくご存知なようなら伺いますけれど、クロヴァス様は大公家に向いていると思われます?」
「うっ…」
明らかにレンドルフ贔屓の様子だったサミーが、思わず言葉に詰まった。ここ最近はオランジュは、ただ参考文献を読ませるだけよりは実践的な会話を交わすことで貴族の裏の読み方をサミーに叩き込んでいた。オランジュは亡き夫から直々に当主の在り方を叩き込まれている。夫人らしい立ち回りだけでなく、男性の貴族の間でも通用する会話の機微は知っているのだ。
その貴族の片鱗を突き付けられて、何となくそのやり方を肌感覚ではあるが理解し始めているサミーにはさすがに首肯出来なかったようだ。
「…レンの旦那は、貴族らしくないとこがいいところなんだけどなあ」
「それは同意ですわ。ご実家の気風も影響しているのでしょう。王都から遠い地方領主になったならばさぞ良い領政を施かれることでしょうね。ですが中央政治に関わらない大公家とは言え、どの家門よりも貴族的な立ち居振る舞いが必要。まずクロヴァス様には不向きですわ」
二人揃って微妙に褒めているのか分からない見解を述べてから、オランジュは一つ小さく息を吐いて目の前に置いてあるぬるくなった紅茶を一口飲んで喉を潤した。
「彼を大公家に迎えるとなれば、それを守る人物が側に必要ですわ」
「守る…ねえ」
「物理ではございませんわよ」
「それくらい分かる」
「ですから閣下は大公女様をわたくしに鍛えさせるおつもりなのか、と勘ぐってしまいましたの」
アスクレティ大公家も、大貴族ながら後継が決まっていない家門だ。レンザのことであるから、全く候補がいないと言うことはなく、複数の中から最も良い選択をする機会を窺っているといったところだろうとオランジュは思っていた。そしてレンザの唯一で最愛の孫であるユリは、後継の立場からは完全に外しているようだった。歴史があり、分家や寄子を多く抱えている大貴族は家の存続を第一に考えているところが多い。
その為それに関わらせないというのは、レンザの溺愛ぶりの証でもある。生まれた時から後継としての教育を与えて、当人も覚悟を持っていたとしてもそれでも大公家は重い。それに女性も当主になれる法は整備されても、まだまだ中枢政治は男性優位だ。たとえユリが最初から後継教育を受けていたとしても、女性であるという点だけで侮る者もいるだろう。そうなると、対処出来るだけの優秀な伴侶は必須だ。
「あのお嬢様を御前の後継に?そりゃいくらなんでも…」
「周囲に優秀な側近は必要かもしれませんが、絶対に不可能ではないと思いますわ」
「どうだかな…いや、アンタが言うなら…まあ、そうなんだろうな」
オランジュはユリが大公家を継ごうが、幾つも所有している爵位と領地を貰って分家になろうが、どちらにせよ大公家の柵からは逃れられないだろうと考えている。
そしてユリが大公家の直系であることに価値を見出した者達が奪い合いをするのも簡単に予想がつく。そうなればユリ自身は命の危機はないだろうが、彼女が隣に望む者の身の安全の保証はない。むしろ容赦なく排除される側だ。
それがレンドルフであれば、物理的な排除は難しいだろうが、搦手であれば罠に掛かるのは容易いのはすぐに分かる。そこをユリが補って、更に権力で守れるようにならなければ彼らのこの先は悲劇しかない。
権力とは関係ない場所で穏やかに安寧な真綿で包み込むような愛情から、レンザはもう一歩踏み込んだ愛情を示そうとしているのではないかとオランジュは読んでいた。優しく甘い世界に閉じ込める手から、厳しいが未来へ送り出す為の背中を押す手へ。そんな風に全てを傾けてくれた相手をオランジュは知っている。
オランジュは亡き夫の姿を、レンザに重ねて見た気がしたのだ。
「ん?じゃあ練習台ってのは」
「貴方の教育が上手く行けば、わたくしが姫君の家庭教師に任命されるのではないかしら。多少失敗しても二度目ならば、もっと上手くやれるでしょうから」
「そういうことかよ!」
「あくまでも勝手な予想ですわ」
「いや、そっちのほうがしっくりくるぜ…あのお嬢様溺愛の御前のことだ。俺なら失敗しても別の使い道はあるし、成功すれば役に立つ…御前の一人勝ちかよ」
サミーは整えてあった髪をガシガシと掻きむしった。折角上げていた長い前髪も落ちて来てしまって、目を半分隠す。
「あら」
「?何だよ」
「こうして前髪を下ろしている姿を改めて拝見しますと、意外と可愛らしいと思っただけですわ」
「……アンタ、本当にヒトが悪いな」
「褒め言葉と受け取っておきますわ」
その日のオランジュの授業の間、サミーは以前のように髪で目元を隠したままで殆ど顔も上げないままだった。日に焼けた肌で分かりにくいが、チラリと髪の隙間から覗くサミーの目元がうっすらと赤くなっているのをオランジュはしっかりと確認して、「やっぱり可愛らしい」と全く顔に出さずにそう思ったのだった。