508.フラウの思惑とヒスイの思惑
「ただいま戻りました」
「お疲れさま…って、大丈夫か!?唇真っ青だぞ!」
「ちょっと…冷えちゃいました」
フラウが自身の勤務している会計課のある執務棟に戻ると、先輩の女性文官が大慌てで駆け寄って来た。レンドルフと話す為に外の休憩所の四阿にいたせいで、すっかり体が芯から冷えてしまっていた。レンドルフに言ったように冬用の制服なので本来はそこまで冷えることはないのだが、そうなってしまった原因は自分にあることをフラウは分かっている。レンドルフが敷いてくれた上着がなければ、話の途中で歯の根が合わなくなっていたかもしれない。
「受け取った書類はこっちで受けとくから、更衣室のストーブの前に行っといで!」
「お言葉に甘えます」
フラウが所属している会計課の執務室にも暖房器具はあるが、部屋が広いので全体が均一に適温になっている。それだと体の冷えきったフラウが温まるまで時間が掛かってしまう。その点女性用の更衣室はあまり広くないのと、火の魔石で燃焼筒を熱して暖を得る旧式のストーブがあるので、すぐに温まるには都合が良いのだ。
大急ぎで更衣室に飛び込んで火の魔石をセットすると、炙られるような勢いでストーブの前に陣取る。
「…ホント、噂って当てにならないのね」
手袋を外して熱源に翳してようやく指先に血が回って来た感覚にホッと息を吐きながら、フラウは誰もいない更衣室で小さく呟いた。
フラウの婚約者であるヨーカが教育担当に噛み付いたと聞いて、彼女はその相手と上司を調べて好みの品を手土産に謝罪に行っておかなければ、と考えていた。学生の頃からあちこちで悶着を起こすヨーカの代わりの謝罪行脚は慣れている。一介の新人文官の小娘が手土産を持参しても鼻であしらわれるかもしれないが、領地なしとは言えフラウは伯爵家当主なので、その謝罪はそれなりに価値があることを自分でも分かっていた。
しかし今回はよくよく確認してみれば、王国史上最年少で永年正騎士の栄誉を手にした人物に喧嘩を売った上に、第一王女に対して不敬発言まで及んでいたことが分かった。フラウは思わず目眩を覚えて、混乱のあまりその場で倒れなかった自分を褒めてしまった程だった。
ヨーカは周囲にはあまり信じてもらえないが、虚勢を張っていない素の彼は友人思いで根っこは優しいのだ。領地が隣同士で爵位も同じだったフラウとは幼馴染みで、そのまま婚約に至った経緯がある。ヨーカの実家の寄子だったレイロクも同い年だったので、爵位は違っていてもよく一緒に遊んだものだった。
フラウもレイロクも、ヨーカに振り回されることは多かったが、それでもどこか憎めない彼の元を離れる気はなかった。直情的であまり頭は良いとは言えないヨーカがあちこちで問題を起こす度に二人がフォローに回るのがいつものパターンであったが、さすがに今回の案件は荷が重い。しかもレイロクもフォローの為にした行動が更に悪い方向へと転がってしまった。
その後どうやら周囲が穏便に済ませて、ヨーカは反省文40枚と二週間の謹慎を言い渡されて済んだと自宅で聞いて、フラウは安堵のあまり今度こそその場で人事不省に陥った程だった。
しかしやはり当事者達に謝罪は必要だろうと、フラウは相手のことを調べて頭を抱えてしまった。
最も気を遣って謝罪をしなければならない相手はレンドルフだった。一旦収束したように思える状態だが、レンドルフがやはり思い直して「恐れながら」と王家に訴え出ればヨーカは騎士生命を絶たれたも同然であるし、場合によっては命そのものが危ない。フラウは必死になってレンドルフの好みや性格を知ろうと、この三日間でひたすら噂を集めた。その結果、何とも混乱した事態に陥っていた。
基本的にレンドルフは真面目で、面倒見が良いとの評判だ。騎士としては、剣も攻撃魔法も使う戦闘スタイルで、剣技は技術よりも体格を利用した力押しだということ。その体格故に遠巻きにされることもあり、当人はあまり威圧をしないように普段の行動は控え目ということ。そういった声の中に、女好きという噂も漏れ聞こえて来た。どうやら複数の女性と同時進行で付き合っているかららしいのだが、それと同じくらい誠実という声も出て来るのだ。その中で、優しさ故に女性から迫られると断り切れず、一度付き合ったからには平等に大切にしているという噂がフラウの中では最も腑に落ちた。
「やっぱり、着替えておこう」
体も温まって来たので、フラウは冷えの原因になっていた服を着替えようと、文官の制服のボタンを外した。冬用の制服なので、首元まで詰まった形の厚手の生地で出来ている。その上着の前面を開くと、その下は生地は薄く胸元が大きく開いたまるで新婚用ナイトウェアと見紛うばかりの扇情的な服が現れた。いくら冬用の制服でも、上着のすぐ下がこんなに薄手では全く防寒の意味を成さない。
フラウはレンドルフが女性に迫られると嫌と言えないタイプで、しかしそれでも女性に言い寄られることは嫌いではない人物だと判断して、もし話し合いが悪い方向に向かった場合はこのとっておきの悩殺勝負服を見せて取引をしようと思ったのだ。勿論フラウはレンドルフと怪しい関係になるつもりはなく、上手く取り入ってヨーカのことを今後も不問に付してくれればそれで良いし、それでも信頼ならない場合は未婚の女伯爵の肌を強引に暴いた、と捨て身で脅す腹積もりだった。
ただフラウは細身で全体のボリュームのない薄い体型なので、妙に開いた胸元のデザインが貧相さを却って強調してしまって、興味を持たれるかどうかが懸念材料だった。
しかし結果的に実際に会って話したレンドルフは誠実そのものを体現したような人物で、年若い女伯爵だと知っても侮って来る訳でも、不埒な視線を向けることも一切なかった。むしろ婚約者の代わりに謝罪に来たフラウを心配そうに見ているだけだったのだ。何だか自分がレンドルフにそんな取り引きを持ちかけること自体が気恥ずかしくなってしまって、結局フラウは勝負服を欠片も披露することなく、ただ寒い思いだけをして戻って来たのだった。
「おーい、フラウ、あったかいお茶淹れて…ってアンタ!そんなの着てたんかい!」
「わぁ!ノノカ先輩!?ちょ、ちょっとこれには…」
「いいから、さっさと着替えな。見ただけで寒そうだ」
「はい…」
上着を脱いだタイミングで、先程書類を預けた先輩が更衣室に入って来た。手には湯気の立つ紅茶が入ったカップが二つ握られている。彼女は普段は絶対に着ないようなフラウの姿を見て目を丸くしていたが、問い質す前に着替えるように勧めてくれたのでありがたくフラウはロッカーの中に入れていた保温付与の付いたインナーとブラウス、その上から厚手のセーターを着込んだ。その包まれる感覚にフラウはようやく安堵の溜息を吐いた。
「どうしたんだよ、らしくもない」
「あはは…ですよねー」
先輩のノノカは、フラウが新人で配属された時から教育担当として付いている女性だ。子爵令嬢だと聞いているが、下町の少年のような口調とさっぱりとした性格で頼りになる存在だ。薄紫の髪を無造作にキリリと束ねてシンプルな宝飾品すら一つも着けていないのだが、垂れた目とぽってりとした唇、そして何より特注しないと上着のボタンが留められない程のボリュームのある胸囲というギャップが妙な色香を醸し出している。
「あれだろ?婚約者を元気付けようとしたんだろ?」
「えっ!?」
「フラウが珍しく自分から騎士団へ書類届けに行くって言い出したから、ついでに謹慎中の婚約者に会いに行くんだろうなーって」
「え…と、は、はい」
「で、どうよ?元気になったか?」
「いえ…それが、会えなくて…」
「何だよー、折角フラウが頑張ったのにな。ま、謹慎解けたらババーンと見せつけてやれよ!」
ノノカはケラケラと笑いながら温かいカップを手渡して来た。そして彼女もここで休憩を取るのか、ストーブの前に腰を下ろす。フラウもその隣に座って、受け取った紅茶をそっと啜ると、フワリと生姜の香りと優しい甘さが広がった。普段フラウは甘い紅茶は飲まないのだが、それを知っていながらもノノカは冷えきって震えていたフラウの為にジンジャーシロップを入れて来てくれたようだ。
「なー、今度の休日、予定がなければあたしと買い物行かね?」
「いいですけど…ノノカ先輩、何か欲しいものでも?」
「いや、アンタの勝負服見立ててやろうと思ってさー。さすがにアレはないぞ」
「ない…ですか」
フラウもよく分からないまま急いで下着を扱う店に仕事帰りに飛び込んで、取り敢えず自分の中でギリギリ許容範囲の布量の服を購入したのだ。似合うとか似合わないとか以前の問題だった。
「フラウは華奢だからさ、ほっそい腰とか二の腕とかを強調するほうが庇護欲ってヤツ?それを煽ってけば相手も盛り上がると思うんだよな〜。半オーダーメイドの店ならすぐに出来るし、紹介するからさ」
「あ、あの…そういうのはまだちょっと…」
「ありゃ。もう萎えたのか。仕方ねえな〜。あ、でも今度の休日買い物は行こうな!気になるカフェがあるからさ」
「はい、よろしくお願いします!」
ノノカが彼女なりに自分を励ましてくれようとしているのが伝わって来て、フラウはようやく気持ちが軽くなったのを感じて、弾む声で返事をしたのだった。
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フラウを見送った後、レンドルフは休憩所の向こう側にある小さな薬局に目をやった。基本的に朝と昼休憩時にしか開いていないが、そろそろ早番の昼休憩に入る時間だからか開店を知らせる看板がかかっている。
「いらっしゃいませ〜。あ、レン様」
「こんにちは、ヒスイさん」
つい吸い寄せられるように薬局に向かったレンドルフが扉を開けると、店内の受付担当をしているヒスイがにこやかに出迎えてくれた。ほんの一瞬ではあるが、ヒスイの赤みがかった金髪と鮮やかな緑の瞳の組み合わせに、つい最近アイヴィーに忠告された彼女の妹のことが脳裏によぎって表に出る程ではないがギクリと心臓が跳ねた感覚がした。アイヴィーと双子の兄アイヴィスの髪色はもっとはっきりとした濃いピンク色であるので違うのは分かっていても、あの固有魔法の自分が自分でなくなる感覚を体感してしまったばかりなので反射的に思い出してしまったのだ。
「ええと、今日はユリちゃんは」
「大丈夫です、聞いてます」
いつもはユリがいる時に訪ねて来ているので、どうやら間違ったか連絡が行っていないのではないかと心配されたようだった。
「今日は、遠征が近いので毒消しを補充しておこうかと」
「はい、何本ご入用です?」
「五本お願いします」
本当は今日でなくても別に良いのだが、店内に入ってしまったので何となく何も購入しないで出るのは悪い気がして、元々補充しようと思っていた毒消しを買っておく。
「キャンディも扱ってましたっけ」
「ああ、それは冬季限定です。王都の冬は乾燥しがちなので、喉に良い蜂蜜飴を置いてみたら結構好評で」
「俺も買って大丈夫ですか」
「勿論ですよ。ここに入れる方はどなたでも」
レンドルフの片手ですっぽりと収まってしまう程度の小振りの瓶の中に、金色の飴が10粒程詰まっている。これならば遠征に持って行くのもいいかもしれないと、二瓶を棚から取る。その隣には、少し違う色の飴が入っている。ラベルを確認してみると柑橘系の絵が描いてあるので、どうやらフルーツ味の飴のようだ。ついレンドルフは幾つかの違い絵柄のものも追加してしまった。合わせて六瓶になったので、さすがに両手に抱えた状態になる。
「こちらにどうぞ」
いつの間にかカウンターの中から出て来たヒスイが、クスクス笑いながらレンドルフに籠を差し出す。レンドルフはそれに甘えて抱えていた瓶をその中に入れて、そっと更にもう一つ追加していた。
「お買い上げありがとうございます」
「買い過ぎていませんか」
「まだ十分在庫がありますから大丈夫ですよ。ケース買いする時は前もって言っていただけると助かりますけど」
「分かりました、そうします」
レンドルフが買い上げた飴が置いてあったコーナーが少し寂しくなっていたので、気になったようだ。けれど季節柄なのか潜在的に甘い物好きが多いのか、コンスタントに売れるので在庫は十分確保してある。
ヒスイの言葉に嬉しそうに微笑んだレンドルフに、ヒスイは心の中で「ケースで買う気なんだ」と呟いて、今後の仕入れの参考にしておこうと頭の片隅にしっかりと留めたのだった。
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「そう言えば先程あちらで文官の方と座ってましたね」
「あ…見えてましたか」
持ち運ぶ際に瓶同士が触れて傷が付かないように紙に包みながら、ヒスイはさり気なく先程の休憩所での光景を口にする。
「ごめんなさい。女性文官の方がこちらに来るのは珍しくて、つい」
「いえ、誰からも見える場所ですから。先日教育担当に付いた新人騎士の婚約者だそうで、わざわざ挨拶に来てくれまして」
「そうなんですか。綺麗なお嬢さんでしたね」
ヒスイの言葉にはレンドルフは反応せず、ただ変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。
(こういうところは貴族なんだよね…)
ある意味正しい対応をしているレンドルフに、ヒスイは改めて彼が高位貴族の生まれだということを思い出していた。
この薬局も含む研究施設は、外部からの干渉を防ぐ為に鉄壁とも言える防犯対策を整えている。そしてこの周辺で何か良からぬことを考える者がいないか、しっかり監視もしているのだ。隣接している王城の休憩所もその範疇で、先程レンドルフとフラウが話していた内容もヒスイには筒抜けだった。
けれどそれはレンドルフと言えど外部の者に勘付かれてはならないし、レンドルフも多少誤摩化してはいるがそれは守秘義務の範疇だと理解している。
ただ彼女を見つめるレンドルフの視線がやや同情的なものを含んでいたので、その感情がどのように変化するかは分からないと、ついヒスイは探るような言葉を掛けてしまったのだ。
「重量がありますのでお気を付けて…ってレン様なら大丈夫ですね」
「これくらいなら軽いものです」
毒消しと飴の瓶を紙袋に詰めてレンドルフに手渡すと、彼はまるで綿の塊でも持ち上げるように片手で軽々と抱え上げた。
「また二日後にお待ちしていますね」
「えっ、あ、あの…はい、また」
二日後にはユリが薬局に来ているのだ。互いにスケジュールを知らせているのはヒスイも知っているので、きっと二日後には気に入った味の飴を再度買いに来たと言って来店するのではないかという確信があった。ヒスイが声を掛けたとき、ちょうどレンドルフも次のユリの勤務日に来ようと思っていたところだったのだろう。先程の貴族らしい顔を覗かせた時とは別人のように動揺していた。
(これはユリちゃんに報告しておかないとね)
ヒスイは微笑ましい気持ちで、薬局の扉をくぐり抜けて出て行くレンドルフの広い背中を見送ったのだった。