506.教育者の立場
「確かその名はヤンソング子爵家の者だったかな」
「…今は家を出ておりますので、ただのレイロク、と」
レンドルフに釣り上げられた新人騎士は、レイロクと名乗った。薄茶色の髪に淡い緑色の瞳のレイロクは、よく見ると顔立ちも柔和で体もまだ完全に出来上がっていない少年のような雰囲気を残していた。
名を名乗っただけですぐにオスカーに家名を出されて、一瞬硬直したが、すぐに何かの感情を呑み込んだようで静かな口調で返した。
一応ヨーカとレイロクは騒ぎを起こしたということで、団員寮の一角にある懲罰房として使用されている部屋にそれぞれ別室に入れられていた。懲罰房と言っても実際の犯罪者が入るようなものではなく、通常の寮の個室と同じものだ。違うとすれば半地下にある部屋なので窓が天井近くにしかない為に少々薄暗く、どこか空気が湿っぽい気がするくらいだ。この団員寮が建てられた時はそんな条件の悪い部屋でも満室になったものだが、現在は全員二階以上の部屋を選べる余裕がある。
今その半地下部屋は外から鍵を掛けられるようにして、規律を違反した者などがそこで反省文を書き終えるまで入れられることになっている。中には堂々とサボれる口実が出来たとばかりにわざと反省文の完成を引き延ばす者もいるのだが、この部屋は訓練場にも近いので、昼間に日々仲間が鍛錬を重ねている様子が声だけ伝わって来るのだ。あまり長引かせると彼らと差が付くことに気付いて、最終的には焦って仕上げることになる。そこで焦らない者はそもそも騎士に向いていないので、懲罰房に入る前に様々な理由で騎士団を去っている。
今回はまだどの程度の反省文を書かされるのかは決まっていないが、二人が口裏を合わせることがないように早々にこの部屋を使うようにオスカーが手配したのだった。
「ヤンソング家はカトリナ伯爵家の寄子だったな。それで従ったのか」
「いいえ。ぼ…私は家を出た身で、ヨーカ…カトリナ伯爵令息との家同士の柵はございません」
「では個人同士での上下関係があったと?」
「上下関係ではありませんが…伯爵令息は実力もありますので、私が補助をする方が相応しいかと思いました」
「それでレンドルフとの手合わせに介入したということか。それは自身の判断か?」
「はい、間違いありません」
あまりにも断言するレイロクに、オスカーは分からないようにそっと溜息を吐いたのだった。
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部隊専用の談話室に戻って来たオスカーは、やけに疲れた顔をしていた。オスカーは教育担当の上官として問題を起こした二人から事情を聞いていたのだが、何となくヨーカの聴取は大変だったのだろうなと聞かなくても全員が察した。
「お疲れさまです」
「ああ、ありがとう」
オスカーの顔を見ると同時にポットから温かい紅茶を注いで、ショーキがすぐに前に差し出した。その気配りにオスカーもようやく表情を緩めた。
「大変なことになってたみたいですね〜」
「ああ。しかし私よりもワシニカフ副団長の方が大変だろう」
「うわ、やっぱりそっちに回ったんですか。毎年勘違いしてる新人はいますけど、最近では稀に見る大物でしたからね」
オルトが心から同情するように言いながら肩を竦めた。
レンドルフが第四騎士団に来てから今のメンバーで改めて組まれた部隊だが、それ以前からオスカーとオルトは別部隊でも教育担当としてよく一緒に行動することが多かったそうだ。オスカーは騎士の中では体格が良い方ではないがその分を補うだけの高い技術を持っているので、同じような体格の悩みを持つ新人の教育には最適であったし、オルトは外見はともかく中身は気さくな兄貴分なので、平民出身の入団者の面倒を見ることに長けていた。そこで毎回数人はいる問題児の扱いに揃って頭を悩ませていたことで親しくなって行ったそうだ。
「何かすみません…俺が挑発したみたいになって」
「いや、レンドルフの対応は悪くなかった。あそこで大事にせずに宥めただけで終わらせては、後々王家へどんな報告されないとも限らんからな。場合によっては伯爵家の重大な不敬罪になりかねなかった」
ヨーカがレンドルフだけに突っかかったのならば、その場で宥めるかして穏便に済ませることは出来た。けれどレンドルフを通じて王家も媚を売る相手に目を掛けているような物言いをしたので、それがどんな風に歪曲されて伝わるか分からなかった。そうなる前に、当事者のレンドルフが厳しく制裁をしたという事実があれば、それ以上の追い打ちはないだろうと思っての手合わせの申し出だったのだ。
それにヨーカは実家の爵位の権威をそのまま自身のものと考えているような態度だったので、そうなるとあの場で対抗出来る身分は辺境伯令息のレンドルフしかいなかったのも事実だ。
「何か、貴族って大変なんですね…」
「そうだな…」
「レンドルフ先輩が言わないでくださいよ」
基本的に第四騎士団は平民が中心の構成なのであまり身分差は煩くないのだが、それでも平民の苦労は存在する。平民出身のショーキの呟きにレンドルフがしみじみといった風情で相槌を打ったので、ショーキは思わず笑ってしまった。
どう考えてもヨーカにレンドルフが負ける筈はなかったのだが、それでも正々堂々と手合わせしていれば敗北したとしても彼の剣技は評価されて決してマイナスで終わらなかっただろう。それでレンドルフは手打ちにするつもりだったが、予想に反してレイロクの反則の介入があった。
そこで今度はオルトが機転を利かせて、何故レンドルフと手合わせすることになったかの理由をまだ多くが知らないことを利用して、彼らが「憧れの騎士に構ってもらいたくてわざと絡んだ」と大きな声で周知したのだ。二人の評価は、まるで子供のようだと思われただろうが、それでも王家への不敬罪として伝わるよりは遥かに影響が少ない。
「まあ、あとは副団長がどうにかしてくれるだろう」
オスカーは教育担当の上官として出来ることはやったので、もうあとは実質第四騎士団のトップに任せる他ないのだ。
第四騎士団の副団長ルードルフ・ワシニカフは、祖父母が異国から移住して来た平民の出だ。副団長に就任する際に騎士にありがちな一代限りの爵位ではなく、子に継承可能な男爵位を叙爵されているのだが、あのヨーカが身分差を理解しているかは怪しい。それを思うと、苦労することが目に見えているルードルフに、談話室の一同は思わず同情と応援の祈りを捧げたのだった。
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「ちょっと休憩だ」
「何を勝手なことをおっしゃいますの?まだ課題が残っておりますわよ」
「だーっ!!ヤニが足んねぇんだよ、ヤニがっ!!」
「その言葉使い!大概になさいませ!!」
オランジュは思わず声を荒げてテーブルを叩いたが、彼女の細腕では大した音は出ずにただ自分の手が痛むだけだった。
「後で追試でも何でも付け加えといてくれ。ただ、今は一服だ」
柳眉を吊り上げて淑女らしさもどこかへ放り投げたオランジュに、サミーは視線を逸らせて背中を丸めるようにしてそそくさと部屋を出て行った。その背中に、つい「姿勢が悪い!」と叱りつけてしまいそうなのを辛うじて呑み込んで、オランジュは座っていた椅子の背もたれに体を預けて深く溜息を吐いた。
オランジュがレンザ直々に依頼された後継教育の相手とは、サミーであったのだ。
まずオランジュには、最近大公家の影として雇った者に高位貴族としてどこに出しても恥ずかしくないように教育を施し、そこから見込みがあれば公爵家を担える程度まで鍛えて欲しいと依頼されたのだ。そしてその相手には、今後の任務で高位貴族と関わる仕事を任せたい為だとだけ伝えてあるらしい。
オランジュにもレンザの最終的な目的がどこにあるかは教えてもらえなかったが、目的を達しようとしまいと二年後にはオランジュには相当額の報酬と、一つだけ大公家の手の届く範囲内で希望を叶えるという条件が提示された。その希望もすぐではなく、期限の二年が過ぎてから考えればいいと破格の条件だったのだ。勿論家門に害を為すようなことを願えば逆にどのような手段でも密かに始末されるだろうが、その見極めは当然出来ると思われているのだろう。
何故王家とは繋がりを持たないようにしている大公家が、傍系王家でもある公爵家の当主を育てようとしているのかはさすがにオランジュでも意図が読めない。けれどそれを読み解くことをオランジュはゾクゾクする程の悦びだと判断したのだ。
そして彼女が承諾して数日後、貴族らしい服に身を包んだサミーと対面したのだった。
初対面のサミーは長身で貴族らしい所作ではあったが、明らかに貴族令息とは違う鍛え上げられた服の下の筋肉と日に焼けた肌が目を惹き付けた。最初からレンザに影だということを聞いていなければ、オランジュでも異国の貴族だと思っただろう。
更にオランジュが思わず息を呑んだのは、サミーのその顔だった。通常ならば、前髪を上げてはっきりと晒されている瞳の色に目が行くだろうが、オランジュはそれよりも彼の面立ちの方に釘付けになった。サミーの顔は、肖像画でしか見たことがない亡き夫の若き日によく似ていたのだった。
実のところ、オランジュの夫バッカニア公爵は先王の異母弟であったのだ。つまり故バッカニア公爵と先王のご落胤であるサミーは叔父と甥の関係になる。どこか血の繋がりを感じさせるのも無理はない。サミーは先日もコールイに先王に似ていると評されたばかりだ。もっとも生まれてすぐに国外に攫われてそこで育ったサミーには、彼も彼の周辺も異国の王族の顔など知る必要もないことだったので誰も指摘はしなかった為に当人も気付いてなかったのだ。とは言え、養母が手を尽くして調べ上げた自身の出自を知ってから、王族の証にもなる薄紫の瞳の色を隠すようにしたので幸い気付かれずに来たのだ。
オランジュもサミーの目の色と顔立ちを見て、レンザが彼を傍系王家の家と縁付かせようとした意味を何となく察した。どういった経緯で彼が大公家付きになったのかは分からないが、レンザが王家に深く食い込む楔を打ち込もうとしているらしいことは理解したのだ。これまで大公家と王家は互いに干渉し合わないことで均衡を保って来た。しかしサミーが大公家への忠誠を保ったまま傍系王家の一員に連なれば、大公家はこの国で最も力を持つ家門へとのし上がる可能性もある。
オランジュは別に王家へそこまでの忠誠もないが、恨みがある訳でもない。しかしただ安穏とした日々よりも、これに乗って変化を目の当たりにした方が余程楽しい。レンザの真意は予想も付かないが、オランジュはしっかりと自分のするべきことを決めたのだった。
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「お待たせいたしました」
「約束通り一本のようですし、きちんと消臭もしていますわね」
しばらくして戻って来たサミーは、オランジュでさえ一瞬見惚れるような美しい所作で彼女の手を取って甲に唇を落とす仕草を披露した。しかしオランジュはその態度に絆された様子は一切見せず、サミーが出て行ったと同時に引っくり返しておいた砂時計にチラリと視線を送った。
これは教育を開始した初日に取り決めたもので、常に煙草を吸いたがるサミーがあまりにもうるさいので休憩時間に一本だけ、きちんと消臭して戻ることを条件に許可したのだ。ちょうど一本吸うくらいの時間で落ち切る砂時計を準備して、過ぎたら容赦なく追加で課題を与えると取り決めてある。
「それでは…」
「でも!約束よりも一時間も早く休憩を入れたのだから、追加は確定ですわよ」
「うへぇ、ちょっとくらい…」
「却下しますわ」
取りつく島もないオランジュに、サミーはガックリと肩を落として正面の椅子に座り込んだ。
サミーの教育を始めて一週間が経ったが、オランジュはなかなかに興味深い生徒にすっかり夢中になっていた。夢中と言っても恋愛的なものではなく、どちらかというと珍しい動物を見ているような気分に近いだろう。勿論、そんなことは一切表に出すつもりはない。
オランジュの目から見たサミーは、ひどくアンバランスで極端な人間だった。大公家に雇われる前は、あちこちの国で護衛業を務めていたと言っていた。特に育ちが海運業が盛んなラストーラ王国だったこともあり、船の護衛を中心に請け負っていたらしい。
その育ちのせいか普段の言葉遣いは荒っぽく、王都の平民でもあまり聞かないような乱暴な言葉が口から零れ落ちる。それでも一応貴族令嬢との会話なので、彼曰く「手加減はしている」そうだ。
そんなサミーではあるが、一旦仮面を被るとまるで別人のように異国の貴族で通用する態度になる。教わったのがラストーラ王国の貴族であった養母だそうなので、多少オベリス王国との違いはあるのだが、それでも国内の社交界でも十分に通用するだけの立ち居振る舞いだった。
一応オランジュはオベリス王国に沿ったマナーに修正するように指導しているが、瞳の色と顔立ちはともかく、焼けた肌などは異国風に見えるので修正しなくてもいいかと悩んだ程だ。しかし最終目標はあくまでもオベリス王国の公爵家当主を狙えるだけの知性とマナーだ。
もともと地頭が良く要領も悪くないサミーは多少修正するだけですぐに覚えたが、今のところは一時社交をする程度のものだ。護衛業をしていると貴族と接することもある為、揉め事を起こさないよう身に着けたものなので、根本的な貴族の考え方や心構えとなると一切持ち合わせていない。どちらかというとそちらの教育の方が苦労しそうだとオランジュは初日から覚悟を決めた程だった。
「いい加減になさいまし!」
これほど人生で大きな声を上げたのは初めてという初日から声を嗄らしたオランジュだったが、数日でコツを掴んだので今はいくら声を張り上げても大丈夫だ。むしろそんな風に感情を露にするオランジュを時に呆れたように、時に同じくらいの感情で返し、そして本当に稀に楽しそうな顔をしているサミーに、オランジュはいつしか可愛らしさを覚えるようになっていた。
今は面白くなさそうに口を尖らせるサミーに、オランジュは容赦なく分厚い貴族名鑑を押し付けたのだった。