499.裏で動く者達
ひとまず昂っていた感情を落ち着かせるように、とレナードは戸棚の奥から片手に収まるくらいの瓶詰めを取り出した。それをレンドルフの前に置くと、その傍らにティースプーンも添える。
「これは…」
「ペアーマン領で採れるハチミツにナッツを漬け込んだものだ。高級品だぞ。ちゃんと我慢が出来た褒美に進呈してやろう」
ソファに座ったまま戸惑った顔でレナードを見上げるレンドルフに、まるで幼子にするかのようにレナードは柔らかな薄紅色の彼の髪をクシャリと撫でた。
ペアーマン男爵領は、フルーツの産地で有名な領地だ。温暖な土地柄ではあるが広さがない分、量よりも質を上げることで功績を上げた家門だ。王家御用達の座を不動のものにしても尚品種改良に余念がなく、よりよい交配を押し進める為に領全体で養蜂業も盛んに営んでいる。一種類の果樹に絞って採集させたハチミツは、ほのかにフルーツの香りがすることで人気が高い。その為常に品薄で、どれだけ高額でもすぐに完売してしまうという幻の品なのだ。
「レナードは甘い物は好まぬと思っておった」
「執務室に数日泊まり込みになった時などに甘味は重宝しますよ」
「ブラックじゃな…」
「このように高価な物は…」
「言ったろう、褒美だ。遠慮せずに食べて行け」
「は、はい。ではありがたくいただきます」
瓶の中には太陽の恵みそのものな黄金色のハチミツがたっぷりと詰められていて、数種類のナッツが漬け込まれている。そっと蓋を開けると、薄く焼き色の付いたナッツにトロリと絡まるハチミツがキラキラしていた。
「…あの、団長。取り分け用の皿はありませんか」
「放っておいても構わんだろう」
「……食べ辛いです」
レンドルフの手元を、アナカナが穴の空く程凝視していた。しかも口が半開きで今にも涎を垂らしそうな、淑女としてはかなりナイ寄りの状態になっている。レナードは仕方なく小皿を置いてくれたので、レンドルフはスプーンで二回程ナッツを掬って皿の上に出した。
「レンドルフは紳士じゃ」
「提供者は団長ですよ」
「彼奴はこんなに沢山分けてはくれぬ」
食べ物の恨みは深いらしく、アナカナはレナードがこれまでねだってもどれだけ少ししかくれなかったかと滔々と語り出した。レンドルフは何となくここで恨み節を唸ったところで次の機会にはもっと少なくされるのでないかという未来が見えるような気がしたが、そこは敢えて黙ることを選択していた。
------------------------------------------------------------------------------------
「少しは気持ちも落ちついたか?」
「はい、ありがとうございます」
瓶を綺麗に空にしたところで、レンドルフはいつもの様子を取り戻したようだった。アナカナも最初は分からなかったが、こうして見比べてみると改めて初めの頃は表情に険があったと実感した。
「ユリ嬢に関しては、わらわも其方の望み通り何かあれば口添えをするから、安心するがよいぞ」
「恐れ入ります」
「もっとも、大公家が動くのであればわらわの力なぞ吹けば飛ぶようなものであるがな」
いくら王族とは言ってもまだ幼児であるアナカナに出来ることは少ない。レンドルフが知らないだけで、大公家当主が溺愛する孫娘であるユリの周辺は今以上に固められるのは予想がつく。
「しかし、レンドルフがそのように熱くなるとは思わなんだぞ。鍛錬のとき以外は一歩引いたところで控え目にしている姿ばかりじゃったが、年相応なところもあるのじゃな」
「殿下こそ年相応の言動を取り繕ってください」
「いたいけな五歳をつかまえて失礼なのじゃ」
レンドルフよりも早くレナードが呟いたので、アナカナは憤慨した様子で口を尖らせた。今は実年齢よりも少し上に見えるように変装しているが、それでも年相応には見えない。何かと規格外なアナカナであるが、こうして言動に気を遣わない相手はごく限られている。そうでない相手には、人見知りで警戒心が高いという設定で余計なことを言わないように気を付けているのだ。それでも前世のあるアナカナには年相応の真似はさすがに出来ず、どうしても大人のような態度は滲み出てしまう。そんな風に猫を被ったアナカナしか知らない者は、このレナードの執務室で自由にしている彼女を見れば仰天するだろう。
「まあ、私もレンドルフが年相応になったのは良い傾向だと思うがな」
「団長まで…」
「今回のような無茶は困るが。だが、きちんと話を通そうとしたことだけは褒めてやろう」
「まるで子供扱いではないですか」
「年齢だけで言えば、曾孫くらいだぞ」
完全に子供扱いされて少しだけ拗ねたような声色のレンドルフに、レナードは涼しい顔でカップの紅茶を飲み干した。
レンドルフが辺境から学園に入学した頃には控え目で周囲をよく見る性格は既に出来上がっていて、もともとの気質と故郷での環境が形成したのだろうとレナードは思っていた。そしてその性格はこれ以上ない程近衛騎士に向いていた。だからこそレナードはその性質を強化する方向でレンドルフを教育したのだ。素質もあったのだろうが、レンドルフは若くして理想的な近衛騎士に成長して、そのまま王太子の側近として公私ともに支えになるだろうと考えていたのだ。
しかしその道から外れたレンドルフを見ていると、レナードはそれは正しかったのだろうかと疑問に思うことがある。その微かな疑問と罪悪感が、レナードにしては珍しくついレンドルフに肩入れしてしまう理由なのかもしれなかった。
「何かあれば気軽に私に言いに来ても構わんからな。人に言うだけで解決することもある」
「そうじゃぞ。わらわとてレンドルフの相談に乗るのはやぶさかではない。大船に乗ったつもりで話すが良い」
「大船…?」
「こっちではあまり使わぬ言葉か。まあ、安心せよと言うことじゃ」
「はい、お気持ちはありがたく受け取ります」
「気持ちだけか!」
レンドルフにまでそう言われて、アナカナは更に膨れっ面になった。
------------------------------------------------------------------------------------
深夜、寝静まったシオシャ公爵邸の最上階にある当主の寝室に、一つの影が入り込んだ。
「…なかなかの手際だな」
「やっぱり待たれてたか。そう上手い話はねえな」
ベッドの中央で静かな寝息を立てているコールイに影が近寄ると、その背後からコールイの声がしてベッドで横たわっている姿が掻き消えた。ベッドで寝ていたのはコールイが魔法で作り出した幻影だ。高度な技術で作り出された幻影は、触れた感触も体温すら相手に錯覚させることが出来る。コールイの寝室まで忍び込んだ影は、一切の明かりのない中で体温と呼吸を感知する魔道具で位置を探りながら到達したのだ。そうやって来ることを完全に読まれていたとしか言いようのない状況に、その影は苦笑混じりの軽い声で返した。
ホワリと旧式のランプに火を点すと、暗闇の中に二つの人影が壁にユラユラと映し出された。
「どこの手の者だ」
「お察しの御方からの派遣でございますよ」
「まさか…!いや、ヤツなら有り得んこともないか」
目だけ出した覆面姿の背の高い男性の目の色を見た瞬間、コールイは信じられないものを見たかのように息を呑んだが、すぐに冷静さを取り戻したようで、ランプをテーブルの上に置いて傍らのソファに腰を下ろした。
「矜持だけでは飯も食えん。そう教わった者同士だからな。目的の為には王家の血筋も利用する、か」
コールイはそう言って自分の向かいのソファを勧めたが、相手は距離を取ったまま動かなかった。
「顔くらい見せたらどうだ。剥ぎ取られるのが好みならそうしてやるが」
「慎んで遠慮しますよ」
ランプの明かりによってより深く澱んでいる部屋の隅の暗闇が、一瞬生き物のようにザワリと動いた。それを視界の端で確認して、その人物は覆面を外した。
そこに現れた顔は、薄紫の瞳を持つサミーであった。
「その顔…先王陛下の落とし胤か」
「へえ…そんなに似ておりますか」
「面差しがお若いときの先王陛下によく似ておられる。もっとも、あの方はもう少し威厳があったがな」
「一介の平民には、そんなもの必要ありやせんぜ」
いつもは長めの前髪を降ろして目を眇めているサミーだが、今は動きやすいようにキッチリと髪をまとめてある。普段のサミーを知る者はすぐに分からないかもしれない出で立ちだが、それで血縁上の父と似ていると言われては今後も顔は誤摩化し続けた方が良さそうだとサミーは頭の片隅で思う。
サミーは最近戸籍と引き換えに大公家に召し抱えられた影だ。一応現国王の異母弟ではあるが、認知もされていないし生まれた記録も残されていないので存在自体がないのと同じで、王家の血筋に出ると言われる薄紫の瞳と高い魔力はサミーにとっては足枷でしかなかった。それに会ったこともない王族に何ら感情を持つこともない。隠れるように市井に紛れて暮らしていたので、大公家と王家との確執を知ったのは大公家お抱えになってからだったくらいだ。
しかしコールイは長らく王家に仕える忠臣であり傍系王族でもあるので、サミーの王族の血を引く薄紫の瞳に反応を示したのだった。サミーはそれを見て「道理で目の色は分かるようにしておけと言われた筈だ」と内心納得していた。
「さて…アスクレティ大公殿に命じられて私を殺しに来たか。それともあの可愛らしい姫君が望んだか?」
「そこまでは命じられておりません。ただ少し黙らせるように、と閣下から」
「ほう。喉でも潰すか」
「私には殺さずに喉だけを潰すような器用な真似は出来ません。ただ、毒で少々喉を焼くだけです。なぁに、きちんと治療すれば元に戻りますのでご安心を」
「まったく…どいつもこいつも私を病人にしたいらしい」
口調はうんざりと言った風だが、ランプの光に浮かび上がるコールイの顔はどこか楽しげに見える。サミーはコールイと距離は取っているが、それが通用しないことは教えられている。命じられた任を遂行するには、絶対に見つからないようにしなくてはならなかった。だがそれが出来なかった今、サミーの命はコールイに握られたも同然だった。
サミーには戸籍を取得していずれは他国にいる養父母の孫を引き取る目標があったが、このままでは自分の手でどうにかすることは潰えそうだと背中をヒヤリとしたものが伝う。ただサミーに何かあっても目標は大公家が請け負うと誓約は交わしている。最悪の事態になっても目標が叶うのであればどんなことも厭わないと決めていた。
「…まあ、いいだろう。このまま帰したのでは子供の使いにもならん」
コールイの足元から、黒い闇が触手のように広がってザワザワと蠢いた。サミーは思わず後ずさったが、この場から逃げることはなくジッとコールイを見据えていた。コールイは言葉にならないような何かを口の中で呟いている。半分伏せられた目はどこを見ているともなさそうだが、その隙を突いて逃げられるとは到底思えなかった。
どのくらい時が経ったのかは分からなかったが、不意にコールイの唇が動きを止めた。そして大きく息を吐くと、サミーに向かってニヤリと笑った。
「持って行け。ヤツならこの意味を読み取れるだろう」
コールイが何か小さな石のようなものをサミーに向かって放って来た。サミーも何かは分からなかったが咄嗟に受け止めてしまう。手を開くと、子供の指先程の小さな石のようなものが乗っていた。黒曜石に似た真っ黒な鈍い光を放つそれは、触れている部分がピリピリとした感覚を伝えて来る。サミーには魔力感知の能力はないが、これは見た目は石だが魔力の塊だということは分かった。
「決闘の敗者として、決め事を遂行したまでだ。さすがに神の怒りは買いたくはないからな」
ザァ…とコールイの周囲にあった闇が引いて行った。相変わらずランプの明かりで出来た闇は部屋の隅に存在しているが、先程のような生きているような気配は霧散している。
「さっさと持って行かんと長くは保たないぞ。石に見えても魔力の煮凝りのような物だ」
「あ…ああ…」
「ヤツに報告すれば、あの青年にも伝えてもらえるのだろう?」
「私には与り知らぬことです」
「成る程。なかなか良い駒を手に入れたようだ。羨ましいことだ…では、せめて貴殿の名を教えてくれぬか」
サミーはレンザ直々に今回の任務を命じられたが、コールイの喉を焼く毒を投与すること、としか教えられていない。人によっては詳しい任務の目的を教えられた上で黙秘の誓約を交わすこともあるが、サミーはただ行くように言われた場所と、すべきことだけを告げられて公爵家に潜入したのだ。貴族の間ではコールイがどんな誓約魔法も解除可能な闇魔法使いだと知られているが、平民だったサミーは知らない。内容を知らされなければ、どんなに自白を強要されても答えようがないからと知らされなかったのだが、サミーはそれを疑問に思うことなくすぐに命じられた通りに動いたのだ。
それは自身が雇われている主人に対して全面的な信頼を置いているという証左に他ならない。
「サ…サムエーレ・トーカ。死んだ男の名です」
「トーカ…そうか、そう言うことか」
サミーは今の名ではなく、かつて自分を縛り付けていた名を口に出した。サミー自身に何か確信がある訳ではなかったが、コールイにはその名を名乗った方が正しいと直感が働いた。
それが正しかったのかは分からなかったが、自分に言い聞かせるように呟いたコールイの瞳が不安定に揺らいで見えたのはランプの火のせいだけではなかったとサミーは感じていた。
「…もう目的は達しただろう。さっさと去れ」
「…言われなくても」
コールイは僅かに窓に向かって首を傾けて、サミーに逃走経路を指し示した。どうやら見逃してくれるようだとサミーは急いで覆面を付け直すと、音も立てずに最上階の窓から躊躇いなく飛び出して夜の闇の中に消えたのだった。