492.シオシャ家の思惑
「そう逸るな。ここは水場だ。場所の移動を」
「…わかりました」
「よかろう。ここから西に向かったところに開けた場所がある。着いて来い」
コールイはレンドルフの返答にあっさり剣を鞘に納めると、クルリと背を向けて歩き出した。まだレンドルフが大剣を引いていないのに随分大胆なことだと少しばかり呆れたような気分になったが、この場で戦闘になるよりはマシだ。魔獣相手ならともかく、意思疎通の可能な理性のある者同士が私闘を行う場合は水場は避けるというのがどんな種族でも暗黙の了解となっている。
「ユリさんはノルドで引き返し…」
「一緒に帰ろう。言うことを聞く必要なんてない」
「そういう訳にはいかない」
後に続こうとするレンドルフの腕に、しがみつくようにしてユリが引き留める。
「これは私のことよ。レンさんが勝負を受ける理由なんて」
「理由はあるよ。俺が嫌なんだ」
握り締めたユリの手にレンドルフは自分の手をそっと重ねながら、前を行くコールイの背に視線を向けた。彼はレンドルフが来ていようがいまいが関係ないように、歩調を緩めずにどんどん遠ざかって行く。
「ユリさんは俺の大切な…その、友人だし、仲間だし…大事、だから。だから、ユリさんを傷付けるようなことは絶対に止めたい」
色々と口ごもりつつも、レンドルフは見えなくなりそうなコールイを追うべく、ユリの手を外そうとした。
「一緒に行く」
「だけど…」
「足手まといにはならないから。お願い、追い返さないで」
「そういうつもりじゃ…」
レンドルフはユリを何とかこの場から遠ざけようとしたが、ユリは首を振った。そして一度離されたが再びレンドルフの袖をしっかりと握り返すと、キュッと唇を引き結んだ。
「分かった。でも危険だと思ったらすぐに退避して欲しい」
「うん。だけど、レンさんなら勝つでしょ」
「……負けはしないと思うよ」
ほんの少しだけ間を置いて返されたレンドルフの言葉に、ユリの大きな目が不安気に揺れた。レンドルフとてユリにそんな顔をさせたい訳ではなかったが、けれど「勝てる」と断言は嘘でも出来なかった。完敗するとは思わないが、勝てるかと言うとそんなに甘くはない相手だと理解していた。直接刃を交えた訳ではないが、コールイの隙のない動きや、レンドルフを挑発して狙わせる場所の的確さに背中に冷たいものが走るのを感じていた。わざと反撃しやすいように挑発しているのは分かっていても、つい手が出そうになった。
対人戦が苦手なレンドルフが磨いた武器破壊の技術も、あの分厚い刃の剣、それも二本を相手にするのは非常に難しいだろう。使い込まれた剣は、見た目以上に色々な付与や強化がされている筈だ。一本だけなら自分の手と引き換えに折るという手もあるが、今回の相手はそうはいかないだろう。
けれどレンドルフは負けられないのは分かっている。引き分けに持ち込めればいいのだが、手加減出来る相手とは思えないし、それが狙える程器用な真似も出来ない。レンドルフが確実に勝っていると思えるのは体力と持久力くらいなので、自分から降参を言い出さずに体力の続く限り戦いを挑んでいれば負けもないだろう。
10分ほど森の中を歩くと、少し小高くなっている草原に出た。レンドルフの膝くらいまで下草が伸びているが、奇妙な程にぽっかりと周囲に木が生えていなかった。
「何かの建物があった跡地みたい」
「ああ、あれが土台と朽ちた柱か」
ユリが離れたところにある下草から飛び出したレンガが積み上がっている名残を見つけた。レンドルフも言われて注意深く見ると、柱のようなものが倒れて上からうっすらと苔むしているのが見えた。
「大きな屋敷…ううん、屋敷ではなくて温室だったみたいね。大きな木が生えにくい土壌が残っているのよ」
「ああ、だからこんな風に空き地になっているのか」
元は貴族の管理下にあったのか、残っている建築物の残骸には凝った意匠が施されているのも微かに確認出来た。周囲の壁もなくなってしまった今でも、美しい紋様の描かれた陶器の鉢が半分土に戻りつつもかなりの数が形を保って積み重ねられていた。
「さて、ルールを決めようか」
空き地のほぼ中央まで歩を進めたコールイは、振り返ってこう告げた。レンドルフは、彼は先導している時に一度も振り返らず、着いて来ているか一瞥もしなかったことは分かっていた。逃げるのを期待していたのか、それともわざと逃げる隙を作って攻勢に転じる策だったのかは彼のみぞ知るところだろう。しかしユリがレンドルフの袖に縋るようにして手を握り締めているのをチラリと見て、一瞬ではあるが目元が緩んだかのようにも見えた。その表情が意味するところは全く分からなかったが、ユリに対して攻撃するような意思はないように思えてレンドルフは少しだけ安堵した。勝負のどさくさに紛れてユリに攻撃を仕掛ける腹積もりだったなら、どんなに致命傷を負っても身を呈して阻止するつもりだった。勿論油断は出来ないので、レンドルフは少し体を前に出してユリを背に庇うように対峙する。
「魔法の使用は禁止、と言いたいところだが、すぐに勝負がついてはつまらんだろう。防御魔法と身体強化のみ、ではどうだ?」
「いいでしょう」
コールイはレンドルフが頷くと、すぐに腰の剣を抜いて両手に構えた。
「ユリさん」
レンドルフも剣を抜こうとしたが、まだユリが手を握り締めている。手袋越しでも冷えきったユリの小さな手が微かに震えているのが伝わって来た。
「ユリさん」
空いている片方の手で一度ユリの手を上から包み込むようにして、レンドルフは優しい声とともにそっと絡めた手を外した。その瞬間、ユリの顔が泣きそうに引きつって見えたが、レンドルフは見ないフリをしてそっと彼女の両肩に手を添えて後ろに押し出した。
「寒くないようにあっちの陰で待ってて」
「…うん」
ユリが小走りにレンドルフから離れたのを見届けてから、改めて一旦納めた大剣をスラリと鞘から抜く。柄に取り付けた黒のタッセルがサラリと揺れ手の甲に触れると、グッと手に力が入った。
「勝利条件は、どちらかが降参を宣言するか、戦闘不能となった時でよろしいかな」
「了承した」
「では、貴殿が勝利した際の望みは?」
「彼女とは二度と関わらないことを。話題に出すことも、噂を流すことも含めて」
「いいだろう、その時は誓約を交わしてしてやろう。しかしそれならば、私も全く同じことを望むが、不服はないな?」
「……分かった」
レンドルフはますます負ける訳にはいかなくなった。しかしこのまま勝負を受けないという選択肢もない。離れたところにいるユリも、おそらく身体強化を使ってこの会話は聞いているだろう。彼女がどんな顔をしているかは気に掛かるが、今のレンドルフには振り返る勇気はなかった。
「さあ、始めようか」
「…ええ」
腰を低くして構えるレンドルフに、コールイはあくまでも両脇に剣を持った手をダラリと下げている自然体のままニヤリと不敵に笑った。
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「殿下は、『予知』の加護をお持ちではございませんか?」
そうハリに問われて、アナカナは丸い目を更に丸くして何度か瞬きをした。
「その…わらわは加護持ちではないぞ」
「そうでしたか…ご無礼をお許しください」
「いや、別に無礼とは思わぬぞ。その辺はハリ殿の加護で分かる…いや、わらわはよく見えないのであったな。いたいけな五歳なのに」
「申し訳ありません…」
「別に悪いことをしてもおらぬのに謝るでない。して、ハリ殿は何故わらわが加護持ちと思ったのじゃ?」
「殿下はこれまでに国内で起こる天変地異などを予測して、未然に防いだことが幾度もあると聞き及びました。固有魔法で予言を発動するブライト伯爵家や、直系だけが扱えるツジーノ伯爵家所有の予測の魔法具よりも精度が高いと」
アナカナは、自分が熱心にプレイしていたゲームの世界に転生していたと気付いて、つい浮かれてゲーム知識から大きな被害の出そうな自然災害をポロリと周囲に漏らしてしまったのだ。前世の自分が愛した世界に起こる厄災を、そのまま見過ごすことは出来なかった。
一番最初の「忠告」は、まだやっと言葉で半分程度の意志の疎通が出来るようになったばかりの頃だった為にすぐにアナカナの主張は通らなかったが、アナカナの言う通りに災害が起こった為に一気に信頼を得た。その時は、アナカナが主張していた被害の規模を覚えていた文官がいて、災害が起こった後ではあったが彼が急いで対処したおかげで被害は半分以下で済んだ。
その後も大きな出来事を言い当てて、それが大人の文官ですら読み解くのに時間が掛かるような専門書を幅広く調べた結果知り得た予測だと当人が主張したため、アナカナは稀代の天才児であると有名になったのだった。
「わらわは…予言書のようなものを読んだ…ような記憶があるのじゃ」
「予言書!?そ、それは一体どこに…あ、もしかして王家の禁書では」
「そういったものではない。う〜ん…異界の記憶と言うか…わらわはな、『異界渡り』なのじゃよ」
「え…ま、まさか?王女殿下の出自はこの国で間違いないと…」
「何と言うか…記憶だけが異界を渡って来たのじゃ」
この世界には、ここではない、決して辿り着くことの出来ない別の世界「異界」と呼ばれる場所があるという伝説がある。そしてごく稀に、その異界から流れ着く者がいると伝えられている。そうしてやって来た者を「異界渡り」と呼び、彼らはこの世界にはなかった技術や知識を有し、国の発展に大きく寄与したと記録に残っている。オベリス王国でも最も有名な「異界渡り」は、建国王の側近でありアスクレティ大公家の始祖であった五英雄の一人だ。特に薬や医学に特化した知識を持ち、この国の医療の発展に大いに影響を与えた人物だ。アスクレティ大公家が未だに「医療の」と二つ名を冠しているのは、その始祖の教えが受け継がれているからだ。
「わらわはあちらで異界…向こうで言うところの『異世界』のことが描かれた書物のようなものを愛読していたのじゃ」
「それが予言書、ですか。それでは異界は神の国でございましょうか」
「そんな大層なものではなく、わらわも一平民として暮らしておったぞ。そしてその書物のようなものは、娯楽の物語の態であったな」
アナカナは以前ユリにも記憶の異界渡りの話をしたことはあったが、それはユリの始祖がおそらく異世界転移者であったので、異界渡りの言い伝えが知識として備わっていると思っていたからだった。それにアナカナの知識にあるゲーム内の大公女とはあまりにも違ったので、もしかしたらユリも異世界転生者なのではないかと思ったのもあった。実際は違ったのではあったが。
「あくまでも娯楽じゃから、似たような人物がいて、同じような事件が起こることもあるが、必ずしも同じではないのじゃ。それにわらわの読んでいた物語とはもう大分変わっているからの。そのうちわらわの記憶とは違う流れになるのじゃろう」
「はあ…申し訳ありません。私にはその…理解が及びません」
「まあ、普通はそうじゃ。理解せんでよいぞ。わらわとて妄想かもしれぬと思うしの」
まだ他のことへの刺激が少なく前世の記憶が鮮明だった頃のアナカナは、意志の疎通が出来るようになると同時に多少異世界転生に浮かれていたこともあって、次々とこれから起きる厄災や事件などを阻止して回った。しかしそれが却ってアナカナが後継候補として目立つ存在となり、命の危機に晒されるようになってしまったのだ。
今のアナカナは少しずつ「成人すれば只の人」を目指して、少しずつ厄介事に首を突っ込まないようにしていたのだが、今回のハリとの縁談を自ら提案したことにより後継候補に更に頭抜けた存在として再び厄介事が浮上して来るだろう。
「じゃが妄想と片付けるには、未だにわらわの記憶の中と同じような天災や事故が起こるのじゃ。それを無視するのはやはり出来ぬのでな。じゃから、其方と婚約しようと思ったのじゃ」
「殿下!?その繋がりが分かりません」
アナカナの中では繋がっているので説明を端折っているのだが、ハリにしてみれば唐突極まりない。レナードなどは突然話が飛ぶアナカナには慣れているので「その内分かる日も来るだろう」と大したツッコミを入れないのだが、ハリの反応はなかなかに新鮮だったらしく、アナカナは妙に得意気に鼻息を荒くした。
「わらわはこう見えても人気の暗殺対象でな。最近は大人しくしておったのであちらも静かなものじゃった。が、今後は本気で王座を狙ってみようと方針を変えたのじゃ。そうするとまた人気者に返り咲きじゃ。そんな時に、治癒魔法や再生魔法を使える伴侶がいればこれほど心強いものはない」
「それならば専属の治癒士をお側に侍らせれば良いだけで、私を婚約者に据える必要はございません」
「史上最年少の聖人であるハリ殿と釣り合うにはわらわは力不足か?」
「滅相もございません。殿下ならば、歴代に名を遺す良き王になることでしょう」
「世辞はよい。わらわだけでは無理なのは分かっておる。その為には其方の力が必要ということもな。…正確にはシオシャ家も必要、とでも言うべきか」
「わ、私は神殿に入る身ですし、ご存知の通り公爵家の血を引いてはおりません。公爵家の力が欲しいのであれば、別の方法を探された方が…」
「力や後ろ盾を欲しているのではない。ただ、シオシャ家はあるだけで良い」
探るようにハリを見ると、アナカナの言葉に思うところがあったのか俯いてその視線が足元を彷徨っていた。
「シオシャ家が消滅すると、国内貴族の均衡が狂うのじゃ。そして、大公家の暴走が始まる」
幼女らしからぬ口調でアナカナが静かにそう告げると、ハリは弾かれたように顔を上げたのだった。