489.願わぬ出会い
「そろそろスープはいい頃かな」
カクテルを飲み終えて、レンドルフはフツフツとちいさな泡が表面に浮かんでいるスープ鍋に向かった。トマトベースに豚肉のジャーキーとタマネギだけのシンプルなスープだ。クロヴァス領製のジャーキーなので、王都で売っているものよりも脂が多めでスパイスが利いている。他の具材がなくてもジャーキーだけで十分な出汁が出ている筈だ。
レンドルフはスプーンで小皿に取って味見をする。缶詰のトマトなので酸味が少なく、肉の脂とタマネギの甘みもあってまろやかな味わいに仕上がっている。それでも遅れてスパイスが鼻に抜ける香りを届けるので、ぼんやりとした味にはなっていない。
「ユリさん、味見してくれる?」
「うん!いただきます」
サッと小皿を洗ってから再びスープを掬い取って、レンドルフの近くでソワソワした様子のユリに手渡した。ユリはサッと両手で受け取って、軽く目を閉じて香りを楽しんでから口を付けた。
「ん〜、すごく美味しい!甘みがあって優しい味!毎日でも食べたいくらい」
「褒め過ぎだよ。でも口に合ったのなら良かった」
「徹夜明けの朝に食べたら胃に染み渡ると思う。ショートパスタとか入れたらいい夜食になりそうだし…」
「ユリさん?」
「あ…ええと…忘れて?」
ユリはうっかり普段の不規則な生活を口走ってしまって、珍しくレンドルフの眉間に皺が寄った。さすがに失言に気付いてユリは精一杯可愛らしく小首を傾げて小皿を差し出しつつレンドルフを見上げたので、レンドルフは困ったように視線を逸らしながら小皿をユリから受け取った。
「そ、そろそろ魚も焼けるから、パンを焼くね!」
「うん。こっちも芋の焼け具合確認しておくよ」
今度の沈黙は少々気まずくて、ユリは誤摩化すようにいい焼き色の付いて来た魚の方に向かった。レンドルフも火の側にかがみ込んで、耐火用の手袋を嵌めてから棒で掻き出すように黒くなった塊を掘り出した。先程包んだ紙の表面は真っ黒になっているが、少し突ついて一枚めくるとその下は全く焦げ目も付いていない。
レンドルフは色々な用途で使用する為に持参している細い鋼のロープをサッと縒り合わせて串状にして、紙の上からプスリと差し込んだ。どうやら中まで火が通っているらしく、すんなりと入って行った。これならば問題ないと手袋をしたまま焦げた紙を剥いて行く。中の焦げていない部分の紙をベリリと裂くと、中から皮の付いたジャガイモが顔を覗かせる。熱が良く通っている証に皮がひび割れて、中からホックリとした黄色い実が勢いよく湯気を立てていた。その見た目だけで食欲をそそり、レンドルフは思わず生唾を呑み込んだ。
「レンさん、パンとルビートラウトここに置いておくね」
「ありがとう。今、肉を切り分けるから」
「じゃあスープをよそっちゃうね」
網の上で余分な脂がポタポタと垂れて、それが表面を焦がして香ばしい匂いと歯応えを纏わせている。レンドルフは骨の部分を手袋をした手で掴んで、骨の間にザクザクとナイフを入れて行く。特製のタレに漬け込まれた肉は柔らかく、すんなりと刃が入って行く。切り口から透明な脂と肉汁が滲み出して来て、ナイフの先からも雫が滴り落ちた。そのまま手早く切り分けた肉を皿に盛り付けて行くと、空腹を刺激されたのかレンドルフの腹が小さく鳴った。慌ててユリに視線を向けると、彼女はカトラリーを並べてくれていて幸いにも気付いていないようで、レンドルフは小さく安堵の息を漏らしたのだった。
それから二人で手分けして、出来上がった料理を木の器に並べてテーブル替わりに良さそうな平たい岩の上に乗せた。温かいうちに食べたいので、自然に無言で手早く動いていた。
「「いただきます」」
全て並べて座ったところで、示し合わせたように声が揃う。互いに一瞬視線を交わしてクスリと笑い合うと、ホカホカと湯気を立てている紙の包み焼きにしたジャガイモに手を付けた。まずは軽くユリが持参して来たハーブの入った塩を振る。乾燥させて細かく砕いた数種類のハーブが、温かな湯気の中で豊かな香りが蘇って来る。
「これ、ジャガイモ?すごく甘い…」
「紙のおかげで水分が飛んだのかしら。ホクホクしてて甘いのね」
まるで月のように黄色い実はほっこりと甘く、塩気がよりその甘さを引き立てるようだ。息を吹きかけて冷ました筈なのに芯の方はまだ熱く、冷たい空気を吸い込んで火傷を防ぎながら舌の上で転がす。口の中でほろりと柔らかく崩れて、ハーブとジャガイモの香りが一杯に広がると、熱いのは分かっていても次の一口の手が止まらない。
「レンさん、このバターも試してみて。今朝作ってもらったの」
「ありがとう。すごく贅沢だね」
テーブルに置かれた瓶をユリが手渡すと、レンドルフはたっぷりとジャガイモの上に乗せた。出来立てで柔らかなバターはジャガイモの熱でジワリと溶けて、透明な液体になってホクホクの隙間に染み込んで行く。その溶けたところをジャガイモごとたっぷりと掬い取って口に入れると、今度はしっとりとした食感に爽やかなミルクの香りが鼻に抜ける。新鮮なバターの風味は軽やかで、こちらもいくらでも食べられそうだった。
「…もっとジャガイモ持ってくれば良かったわ」
二人で無言でジャガイモを完食して、少し上気した顔でユリが名残惜しそうにポツリと呟いたのだった。
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色々と持って来た食材をほぼ全て食べ終えて、浄化魔法を込めた魔石で後片付けを終えてもまだ帰る時間には早かったので、竈の火を消さずに火の前で並んで座って食後のお茶を飲んでいた。川の側なのでじっとしていると冷えて来るのだが、白ムジナのストールを羽織っているおかげでユリは殆ど寒さを感じなかった。もともと寒さに強いレンドルフは平然として、さりげなく風上に陣取ってユリの風避けになっていた。
「…ユリさんとまたここに来られて良かった」
「うん、私も。レンさんが解毒薬を届けてくれたおかげ」
「運が良かっただけだよ。それにアレクサンダーさんなら、俺の力がなくても絶対にユリさんを助けていたよ」
「ふふ…レンさんは謙虚が過ぎない?」
「そういう訳じゃ…」
たまたまエイスの街で出会ったユリと翌日ヒュドラの討伐地で再会して、折角だからとこの川の近くで仕留めた山鳥をレンドルフが焼いて一緒に食べることになった。その際に、そのまま騎士を続けられるか分からなかったレンドルフにユリが冒険者登録を勧めたことから今に繋がっている。そして変装の魔道具で髪色を変えていたレンドルフが本来の色を晒したのだが、ユリはその薄紅色の髪をレンカという花のようだと言ってくれた。そのレンカは、神の国に咲く清廉な花だと教えてくれた。
珍しい髪色なのでただでさえ目立つのに、巨漢にそぐわない可愛らしい色をもともと好んでいなかったレンドルフが、そのせいで騎士の道が閉ざされかけた。当事者も悪気はなかったことは分かっているし、レンドルフに関しては全く悪くない。それでも自分の外見を責め、仕方がないと諦めかけていたレンドルフの心に光を灯したのは間違いなくユリだった。小柄なユリが遥かに大きなレンドルフに全く怯えた様子もなく何の気負いもなく褒めてくれたことが、今もレンドルフの支えになっている。
レンドルフからすると、全てがこの場所から始まっているようなものだった。
ユリは少しだけ空けていたレンドルフとの距離を詰めて、ピタリと身を寄せて凭れ掛かった。ほんの一瞬、レンドルフの体が緊張して固くなる。人の目のない場所で未婚の男女が身を寄せ合っているのはよろしくないと、今更ながら気が付いたらしい。その鈍さと真面目さが、ユリにとっては何よりも可愛らしく思えるのだが、さすがにそれは当人には言えない。
「レンさんはあったかいね」
「…う…うん…」
レンドルフが落ち着かない様子で少しだけ位置をずらそうとする気配を察したので、ユリは敢えて無邪気にそう言って動きを制してみた。案の定、レンドルフはユリに寒い思いをさせてはいけないと思い留まったのか、そのまま動くのを止めた。
(ずっと、このまま一緒にいられたらいいのに)
ユリはその望みは叶わないと心のどこかでは分かっていたが、それでも思わずにはいられなかった。
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「っ!ユリさん!」
不意にレンドルフが飲みかけの中身が入った木のカップを放り出して、ユリを抱え込むようにして警戒の態勢になった。それと同時に土魔法を発動させて、まだ燃えていた竈ごと地中に埋めてしまう。
ユリは大公家の影が付いているのでそこまで周囲に警戒はしていなかったが、レンドルフは何かを察知したらしい。危険なものが近付けば影が事前にどうにかする筈だが、レンドルフがこうして警戒するのであれば友好的な存在ではないだろう。ユリも最低限奇襲を受けても自分の身は守れるように、腰に下げている短剣にそっと手を伸ばした。
しばらくすると、川向こうからサクリ、サクリと落ち葉を踏みしめる音が近付いて来て、茂みの向こうから金色の毛並みの魔馬が顔を出した。先程ヒュドラ討伐跡地の近くで見かけた魔馬に間違いないだろう。そしてその背の高い魔馬の背に、随分がっしりとした初老の男性が跨がっていた。背の高い魔馬なので彼の背丈は分かりにくいが、それほど長身ではないようだ。しかしその分使い込まれた防具の上からでも分かるほど分厚い胸板に、盛り上がった二の腕が彼を一回りも二回りも大きく見せている。
金色の髪に水色の目をした男性は、川を挟んで向こう側で正面に立ち、魔場の背から降りる様子もなくレンドルフとユリを睥睨していた。
ユリはその男性の顔に見覚えがあって、一瞬息を呑んで守るように抱えられているレンドルフの袖を握り締めてしまった。
「…久しいな」
彼の呟くような言葉はやけにはっきりと耳元で言われたかに響き、低い声は周囲の空気を揺らして肌をビリビリと刺激するようだった。
「ユリさんの知り合い?」
決して友好的な態度を取っているとは思えない相手ではあったが、ユリの反応と彼の言葉で顔見知りなのかとレンドルフが確認を取る。ユリは相手が変装の魔道具で髪も目の色も変えていたので、そのまま答えてもいいものか一瞬だけ逡巡する。
「コーセイ。私はコーセイと言う。そこの令嬢の祖父殿とは旧知の中だ」
そのユリの迷いを先んじて制するように、彼は偽名を名乗った。変装の魔道具を使っているのだから、正体を明かすつもりはないのだろう。
「コーセイ、殿…」
レンドルフの背中に半ば守られているユリでも、目の前の彼の殺気のような威圧が一言一句刺すように感じられた。それを真正面で受けているレンドルフは、どれほどの圧力を受けているのだろう。レンドルフの声が僅かに掠れている。
ユリは足元から這い上がって来る震えを制することが出来ず、更にきつくレンドルフの袖を握り締めてしまった。それはレンドルフにも伝わったらしく、ユリを庇うように回された腕に微かに力が籠る。
しかしユリは、レンドルフが考えているような威圧に対する怯えなどで震えていたのではない。目の前にいるコーセイと名乗った男、コールイ・シオシャ公爵が、ユリの本当の身分を知っていることに震えが抑えられなかったのだった。