487.火にも水にも強い紙
王城に隣接して建っている中央神殿の中でも選ばれた者しか足を踏み入れられない、神に最も近付くことが出来ると言われる場に珍しく来客があった。
「我が国を照らし旅人を導く美しき知恵の一つ星、第一王女殿下にご挨拶申し上げます」
「本日は非公式の場じゃ。堅苦しいことは望まぬ」
「それではお言葉に甘えまして。ようこそおいで下さいました」
淡い金髪を高い位置で結い上げ背中に垂らした毛先を緩く巻き、淡い紫色のレースのリボンで飾られているアナカナは、いつも以上に清楚で愛らしい。子供用の扇子を優美にハラリと広げて口元を隠して受け答える完璧なまでの仕草の中に、既に美しさと気品も兼ね備えている。その仕草は大人でもなかなか出来る者は少ないだろう。
「レイ神官長殿直々の出迎え、感謝する」
「いえ、ミスリル団長も王女殿下の護衛を務めていただき、感謝いたします」
アナカナを出迎えたのは、この国で最高位と言われる中央神殿所属の神官長であるレイだった。中央神殿はオベリス王国内の全ての神殿の頂点であり、最も古い歴史がある場所だ。そこの組織のトップである神官長はまさに最高位と評しても過言ではない。
そしてそのアナカナの脇には、正騎士の正装に身を包んで細身の長剣を腰に下げているレナードの姿があった。この服に袖を通すのは実に数年ぶりで、おそらくアナカナが目にするのは初めてだろう。そしてその襟元には永年正騎士の証が控え目に光っている。
レイに案内されて、アナカナとレナードは神殿の最奥の地下へと進んで行く。石造りの回廊を降りて行くと、ヒヤリとした空気が刺さるように研ぎ澄まされて行く。
幾度か曲がり、階段もなくなったことにようやく目の前に石の壁が出現した。レイはその壁に手を翳すと、その手の下の壁がほのかに光り、音も無く重そうな石の壁が横の動いてその先の道を示した。
「こちらへ」
振り返って柔らかい笑顔を向けたレイに、アナカナは扇子を広げたその陰でゴクリと生唾を呑み込んだのだった。
アナカナ達が案内された地区は、中央神殿の中にある神官長の私的空間だ。中央神殿で神官長を務める者は五名いて、表向きはそこに上下はないとされている。しかし誰よりも長命で任期の長いレイは実質神殿の最高位の神官長だ。長年使用している私室は少しずつ広がり、今では地方の礼拝堂よりも広い敷地を有している。その空間は、人には知らせられない病などに冒された重要人物を匿い、治療する為に使われている。その病状はさまざまであるが、共通するのは治癒魔法では簡単に回復させることが出来ずにそのままにしておけば死に至るものであり、そして亡くなれば周囲に多大な影響を及ぼす危険がある者ばかりだ。それは後継を指名する前に卒中で倒れた重要な領地を有している貴族の当主であったり、オベリス王国遊学中に祖国の者に毒を盛られた異国の王族であったりだ。現在も三名が治療のために、ほぼ時間を停止させた魔法空間の中で静かに眠っている。
かつてここでは、何年にも渡って毒と洗脳を受けていたユリも長い眠りについて治療を受けていた。
アナカナ達は今回は関係がないのでその治療空間は通らず、そことは違う一画にあるレイの本当の私室に招かれた。私的空間という割には一切の生活感のない場所が続いていたが、そこだけは少しだけ人の営みが感じられてアナカナは僅かに緊張を解いた。
「ここならば外部からの干渉は入らない。たとえ王家や神殿の影であっても、ね。彼らは今頃我々の幻影に張り付いているだろうさ」
「そうか」
扉を閉ざすと、急にレイの口調が砕けて態度も近寄り難い雰囲気から一変した。それに合わせて、騎士然としていたレナードも襟元を緩めて、勧められてもいないのに勝手に手近なソファに腰を下ろして足を組んだ。
「お主ら…いきなり変わり過ぎじゃろ」
「まあ慣れた相手ですし」
「付き合いが長いですからね」
呆れたように呟きながら、アナカナも自力でソファによじ登る。ここにウォルターかレンドルフがいれば手を貸してソファの上に乗せただろうが、この二人は一切動く気配がない。それはそれで気が楽なのでアナカナも別に文句を言う気はなかった。
レイは確定は出来ないがおそらく祖母辺りの極めて近しい血縁にエルフがいた為に、その血を色濃く引いて膨大な魔力と複数の属性の高位魔法を行使することが出来る。そして人並み外れた美しい容姿と不老長寿の特性も受け継いでいた。
そして片やレナードも数代前の当主にハーフエルフがいたらしくその血を引いている。レナードの場合は当主とエルフとの間に産まれた子供が庶子だったが後継がいなかった為にミスリル家を継承し、そのエルフも亡くなっていたせいもあってレナード自身も自覚が出るまでエルフの血を引いていることに気付かなかった。他の親戚や兄妹にエルフの特性が出なかったのもあって、いつまでも年を取ったように見えないことで調べてもらった結果、エルフの血統で不老長寿の特性を有していることが判明した。
その長い人生の中で出会った二人は、調べたところ血縁のエルフは姉妹だったと判明した。今のところ他にエルフの特性の出た者は見つからず、二人は何となく気が合ったのでそこから緩く親戚付き合いを続けている。秘密にしている訳ではないが聞かれることもないので、この二人の関係を知る者は少ない。
「一応確認ですが、王女殿下はこの先何を見ても聞いても、他言はせずに不敬も問わないとお約束していただけますか?」
「約束と言うより誓約じゃろ。早うペンを出すが良い」
「…察しがよろしいのですね」
「ふん。見合いの態でこんなところまで連れて来られたのじゃ。しかも護衛はレナードを指名して。腹黒二人でわらわを丸め込もうとする気満々ではないか。だったら抵抗するのもいちいち問い質すのも面倒じゃ」
鼻で笑うようにアナカナは腕を組んで胸を張った。入口で挨拶を交わした愛くるしい姫君の姿はどこかへ逃げ去っていた。その辺りではまだ王家の優秀な影が監視していたので、全員ガッツリと猫を被っていたのだ。そして今は完全に外部からの目から外れた状態にあるので、猫を被る必要もない。
「王女殿下、年相応に振る舞う気もないのですね」
「お主らの前で取り繕うのも面倒じゃ」
「そういった潔さは非常に好ましいですね」
「美形にそう言われると悪い気はせぬな。覚えておこう」
レイはクスリと笑って、既に用意してあった箱の中から誓約書とペンを取り出してアナカナの前に置いた。これは神殿が発行する魔法誓約書で、闇魔法士が魔力を込めて紙の上に魔法陣という形で定着させたものだ。基本的にこの魔法誓約書は悪用を防ぐ為に、使用するには複数の神官の許可と効力に応じた金銭が必要になる。ただ神官長に任命されている者が関わる場合は、金銭さえ支払えばどんな強力な誓約でも一人だけで使用許可が出せることになっている。
誓約魔法は魔力だけで結ぶことも出来るが、こうして魔力を込めて更にそれを強める魔法陣を乗せた書面に当人が記すことでより安定した誓約が結ばれる。強力な誓約は燃やしても濡らしても駄目になることはない特殊な紙を使用し、術者当人か同等以上の魔法士が上書きをしなければ破棄することが出来ない。効力の弱いものは通常の紙を使用するので燃やしてしまえば無効になるのだが、当人以外も破棄出来る為にトラブルの元になるので、最近ではほぼ全ての誓約書には特殊な紙が使用されている。
「この、不利にならぬ程度の嘘は許される…とは随分曖昧な書きようじゃな」
「さすがにご家族の立ち合わせない見合いの内容を問われて、祖父殿にも言えない誓約を結ばされたなどとは報告出来ますまい」
「ああ…ではわらわは陛下に聞かれたら『噂に違わぬ素晴らしい御仁であったので是非とも婚約者に据えていただきたい』とおねだりすれば良いのじゃな」
「さすがにご理解が早くて助かります」
他言無用の誓約魔法は比較的よく使われるものだ。これは自白剤を使用されても絶対に話すことが出来ない効果があるので、迂闊に重要な秘密を知ってしまった者などは自身の身の安全の為に進んで誓約を望むことが多いのだ。そうなれば相手もいくら拷問をしても自白剤を使用しても無駄だと知っているから、誓約が破棄されない限り手を出されないのだ。
アナカナにもこの空間で見聞きしたことは他言しないよう誓約を結ぶが、さすがに国王や王太子に尋ねられて「言えない」はあまりにも怪し過ぎて通用しない。だからこそ嘘は許される、とわざわざ追記されていた。
アナカナは一度目を通して、躊躇なくそこに自分の名を記した。それと同時に魔力の籠められた誓約書に微かに魔法陣が光り、無事に誓約は結ばれたのだった。
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予定より早めに薬草採取を切り上げて、再びノルドに騎乗してレンドルフとユリは近くの川原に移動した。
「ユリさん寒くない?寒かったら風よけを作るけど」
「大丈夫。魚焼くのに火の側にいるし、ちゃんと防寒対策してるし」
火を熾して持って来た食材を焼くので少し開けた場所を選んだので、森の中にいるより風が通り抜ける。ユリは火の側で調理をするので、羽織っていたストールは畳んで荷物の中にしまい込んだ。さすがに脱いだ瞬間は首の辺りが冷たく感じたが、レンドルフが作った簡易竃の側にいればすぐに気にならなくなった。
「先にスープを作るよ。後で味をみてくれるかな」
「うん、お願いね。あ、その前にこれを火の中に入れておいてくれる?時間が掛かるから」
食材を入れた袋の中からユリは白い紙に包まれた丸いものを取り出した。
「これ、前に祭に行った時に買った紙?」
「そう、包み焼きの。あれから色々試してみて、使い勝手がいいから追加で取り寄せたの。中はジャガイモが丸ごと入ってるから」
「じゃあ火の真下に埋めるようにした方が良さそうだね」
その紙は、以前フィルオン公園で開催されていた祭で見付けたものだった。一見すると普通の紙だが火にも水にも強いもので、その紙の産地では食材を包んで熾火で蒸し焼きのようにしているらしく、祭で実演販売していたのだ。
レンドルフは土魔法で火の下に包みが入るくらいの穴を開けて、野外で作業をする際に色々な用途で使用する金属の棒でジャガイモを転がして放り込んだ。上から軽く土を被せれば、竈の火の下でじっくりと良い具合に焼けるだろう。
レンドルフはユリが持っている圧縮魔法の付与が掛かった鞄から寸胴鍋を借りて、スープを作り始めた。今回はクロヴァス領から送ってもらった豚肉のジャーキーを千切って湯の中に入れて、柔らかくなったところにトマトの水煮の缶詰と小さなタマネギを丸ごと入れて煮込む簡単なものだ。本当は肉や野菜を炒めた方がいいのだろうが、野外で簡単に手早く作るには工程は少ない方がいい。レンドルフは慣れた手付きで小さなナイフで次々とタマネギの皮を剥いて行った。
「やっぱり慣れてるから手際いいね」
「そこは故郷で教え込まれたから。でも自炊は殆どしないし、こうやって外で簡単な調理をする方が慣れてるかも」
ユリも持参して来た下処理をして串に刺さっているルビートラウトを袋から取り出して、火の側に突き立てるようにして焼き始める。そしてその隣で、小さな鍋で何かを煮立て出した。周囲にフワリと酒精の香りが漂う。
「それはミズホ国のお酒?」
「そう。これでちょっとあったかいカクテルでも作ろうと思って。酒精は殆ど飛ぶけど、すごく体があったまるよ。レンさんの分は甘めにしておくね」
「ありがとう。楽しみにしてる」
今度は朝一番に貰って来た生みたての卵を器に割り入れて、風属性の魔石が付いているホイッパーでくるくると撹拌する。これは風の力で自動で回転するので、自力でやる時の半分以下の労力で済む優れものだ。薬液の撹拌用に作ってもらった魔道具だが、料理にも使えると気付いて分家の商家で調理器具として販売をしている。一般家庭では魔石の維持費が掛かるので普及はしていないが、専門の料理人の間では必需品だと好評らしい。
そこに砂糖も入れてふんわりとするまで混ぜると、小鍋に入れた酒が良い具合にフツフツと湧き始めていた。それを火から下ろして、卵液の中に固まらないように少しずつゆっくりと混ぜて行く。酒と卵と砂糖だけというシンプルなカクテルで、工程も多くないのだがコツがいる作業だ。ユリは熱に弱い薬液を調合することも多いので、このカクテル作りを失敗したことはない。
完全に混ざるとそれを金属のカップに均等に注ぎ、片方には追加でハチミツをひと回し投入する。そしてそれを今度は別鍋で温めていた湯の中にカップごと入れる。こうしてゆっくりと湯煎することで、とろみが付いて滑らかな口当たりのカクテルが出来上がるのだ。
程良く混ぜていたマドラーの手応えが変わったところで湯から引き上げて、周りの水分を拭き取って木製のカバーに嵌め込む。こうすれば手に持つ時に熱くないし保温効果もある。
「レンさん、出来たよー」
「ありがとう。何だかカスタードクリームみたいだ」
「まあ材料は近いかな。見た目より熱いから気を付けてね」
簡易的に作った網の上に骨付き肉を乗せて遠火でじっくり焼き始めたレンドルフに、ユリはカップを手渡して隣の石に腰を下ろした。お互いにそれぞれ準備は終わって、後は火が通るのを待つだけだ。パンを炙るのはすぐに済むので、出来上がってからでも十分間に合う。
レンドルフもカップを手にすると、ユリの側に座り込む。
「いただきます」
とろみのせいかあまり湯気が立っていないが忠告されたのでレンドルフは用心深くフウフウと息を吹きかけてからそっと一口啜った。それでもやはり熱かったらしく、一瞬カップから口を離して、再び更に用心して口を近付けた。
「ああ…これは温まるね。甘くて芯からポカポカして来るよ」
「良かった。これはミズホ国に伝わる風邪予防の飲み物なの」
「卵を使って栄養もあるからかな。酒精も飛んでるし、子供も飲めそうな感じだね」
「子供向けにはお酒の量を減らしてミルクを入れるみたい。そうなると飲むカスタードクリームね」
「それも美味しそうだ」
甘い物好きなレンドルフは、うっとりとした様子でまた一口啜った。どうやら気に入ってもらえたらしいので、ユリは今度機会があれば子供向けレシピの方を作ろうと密かに決めたのだった。
しばらく二人は並んでカップを両手に包み込むようにしながら、パチリと時折木の爆ぜる音に耳を傾けていた。無言のまま少しずつカクテルを啜っているが、その沈黙は全く重いものではなかった。隣に互いの気配を感じながら座っているだけなのに、間に流れる空気が柔らかく温かいのは気のせいではないとレンドルフは感じていた。
「こういうのが、幸せの味って言うのかな…」
ふと、心に浮かんだことが口の端に浮かんで声に出ていた。ごく小さな呟きではあったが、静かな空間でははっきりとユリの耳にも届いた。
「…きっと、そうだと思う」
ユリも同じくらい小さな声で呟いて、その後二人は再び静かに肉と魚の焼ける音に聞き入っていたのだった。