47.【過去編】敵でも味方でも怖い男
短めです。
「何か飲み物でも用意させようか?」
「いえ…結構です」
タイキに会う為について行ったところで、ステノスはタイキと直接顔を合わせたことはない。むしろミスキから「こっち来んな」オーラが駄々漏れになっていたので、このまま一件落着ムードに便乗して帰宅しようかとも思っていたのだ。
「さて…では単刀直入に言おう。我が家に仕えないか?」
「は…?」
何を言われるか分からず密かに胃の痛みを感じていたステノスが、唐突にレンザに爆弾を落とされて頭が理解するのを一瞬だけ放棄した。
「安心したまえ。君の誓約魔法は全て上書きして無効化してある。恥ずかしながら大公家と言えど人手不足でね。優秀な手は是非とも欲しいところだったのだよ」
レンザは後ろに控えていた執事に指示すると、彼は手にしていた封筒から書類の束を取り出すと、ステノスの前に置いた。レンザが手だけで確認するように勧めて来たので、ステノスは恐る恐る書類を手に取って中身を確認した。
その書類は、以前にステノスが貴族の諜報員として仕えることになった際に締結された守秘の誓約魔法に使われたものだ。書類自体は術者にしか読めない特殊な文字で書かれたもので、術者がそれを読み上げて、掛けられる者がそれに同意してサインと自らの血を垂らすことで完成する。
その自分のサインと血の跡の上に、何か別の文字が入っている。たしか誓約の時にはなかったものだ。
元々、誓約魔法は精神に影響する闇魔法の一種で、使い手が極めて少ない。そして上位魔法でもあるので、使えるものは総じて強い魔力を持っている。
この誓約魔法を解除する方法は、掛けた術者以外は基本的にはないとされている。
術者よりも更に強い魔力を持つ者が強引に上書きをすることで一見解除されたように見えるが、誓約の条件を無効に設定することで解除されたのと同じ状態になるのだ。これは最初の誓約の条件を詳しく知らなければ失敗する確率が高い。このように誓約内容が書かれた書類があり、術者よりも強い魔力を持つ者の両方が揃って初めて上書きが可能になる非常に繊細な魔法なのだ。
もし上書きする術者の魔力が最初の魔力を下回るか拮抗していた場合、術者だけでなく掛けられた側もその影響で廃人同様になる危険がある。その為、当人の同意が無い状態で上書きをするのは本来禁じられていた。
「あのですね…わたくし、同意した覚えはないのですが…」
「してないからね。体に問題はないだろう?」
「無いです。無いですけどね…」
「大丈夫だよ。私だって廃人になるつもりはないからね」
「ご自身で上書きされたんですか!?」
まさか大公家の現当主ともあろう者が、そんな危険な行為をするとは夢にも思わなかった。ステノスは思わず立ち上がってしまって、すぐにハッとして座り直した。もう冷や汗は背中どころか全身から吹き出している。
「あの家の闇魔法の使い手は私より下だからね。以前から何度も上書きしているよ」
「はあ…」
「私が自ら危険を冒してまで君に仕えて欲しい、という誠意は受け取ってもらえたかな」
「もう十分いただきました…」
ステノスはポケットを探って、クシャクシャになったハンカチで額を拭った。やはり先程何か飲み物を貰っておくべきだったと少々後悔する程の汗の量だった。
「あの…わたくしを買ってくださるのはありがたいのですが、何故そこまで」
「君が優秀だから、では不満かい?」
「いえ…不満ではありませんが…その、何か違和感が」
そのステノスの言葉に、レンザは喉の奥で微かに笑い声を上げた。そして軽く片手を上げると、それを合図に部屋に残っていた執事が下がって部屋を出て行く。そしてこの部屋の中は完全にステノスとレンザだけになってしまった。
「これを聞いたら君は我が家に仕えるしかなくなるけど、いいのかな」
「聞いた上でお断りすると言ったら?」
「なんてことはない。君がいなくなるだけだよ」
サラリと不穏なことを不穏な空気を一切出さずに、当然のようにレンザは言ってのけた。ステノスは、レンザの言うことは比喩表現でもなんでもなく、本当にいなくなるのだろうと理解した。一見細身で品の良い初老の紳士ではあるが、さすが王家と同等の権力を持つと言われる大公家の当主だと思わざるを得なかった。
「願わくば、今後長くお仕えさせていただければ僥倖でございます」
「先の短い年寄りに無理を言うねえ」
ステノスが居住まいを正して深々と頭を下げた。彼の態度だけでなく声も口調もがらりと変わったことに、レンザは満足げな表情を浮かべた。
「何、ほんの少しの感謝だよ」
「感謝、ですか」
「ああ。切っ掛けはどうあれ、君のおかげでようやくあの家が落とせる」
レンザの言葉の最後は、ゾッとする程低く温度が一切感じられなかった。顔は先程とあまり変わらず微笑みを浮かべているのに、その口から漏れる声色は別人のようだった。
「ノーザレ夫人の生き延びる為の勘の鋭さは見事だよ。彼女は自分が生き残る為ならなりふり構わず食らいつくだろうね。いくらあの家でも無傷では済まされないだろう。現に彼女には見張りを付けて、捕まったと同時に殺すように仕向ける程度には警戒していたようだしね。だが、それも失敗に終わった。今回はほんの少しだけだが、一度坂を下れば、後は次第に勢いがついて地の底に沈むまで止まらない」
一旦レンザは言葉を切って、何か思案するように無意識なのか自分の唇に指を這わせた。その何気ない仕草なのに、ステノスは見てはいけないものを見てしまったかのような感覚に囚われる。
「12年前は逃してしまったが、やっと切っ掛けが出来た…」
その呟きはステノスに聞かせるものではなく、ただ心のままにレンザから漏れたものだったのだろう。彼の目が、うっとりとしたようなドロリとした甘さを含む。
「君が仕えていた侯爵家はあと数年で没落する。だからそうなる前に逃げる猶予をあげようと思ってね。共に沈められたくはないだろう?」
「お気遣い、ありがとうございます」
きっとその侯爵家を徹底的に沈めるのはレンザ自身なのだろうな、と確定した未来に微かに寒気がしたが、ステノスは完全に腹を括ってアスクレティ家、そしてレンザに仕えることにもう迷うことなく覚悟を決めたのだった。
「あの…一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「何かな?」
「あの侯爵が誘拐されて酷い目に遭っていた三男坊を助けて恩を売るって策、今の閣下ともよく似ていますよね…?」
「そうだよ」
誘拐されたタイキを助けてミキタ達に恩を売って味方に付ける。結果的にやっていることは侯爵と同じになっている。あっさりと返答したレンザに、ステノスは一体いつから、どこまでレンザの手が及んでいたのか想像するだけで目眩を覚えた。
「他には何か?」
「いいえ。十分でございます」
「そうか。ではこの部屋を出たところにいる執事に、今後我が家に仕える条件の詳細を聞いておきたまえ。報酬もそれほど悪くないとは思うが、侯爵家より悪かったら遠慮なく言うんだね。善処させよう」
「ご配慮感謝します」
「ああ、それと」
レンザは立ち上がって部屋を出て行きかけようとして足を止めた。
「彼女の店には定期的に『コメ』を下ろすように手配しよう」
「コメを、ですか?」
「ミズホ国の主食だろう?我が領はこの国で唯一ミズホ国と交易があるからね。食べたければ彼女の店に行くといい」
ミズホ国は、この国からは広い海を越えた遠い島国だ。今は船舶技術も上がった為に定期便で交易が可能になったが、それでも輸送料は相当掛かるため、ミズホ国の品は全般的に高級品になる。
「今後は欲しい情報は自分で得ることだね」
クスリとレンザは笑って、ステノスの反応を待たずに部屋を後にした。
今回の騒動の発端になったのは、ステノスの油断と慢心からでもあった。そこに釘を刺されたようで、ステノスは思わず苦笑していた。そして既にステノスがミズホ国出身という情報も押さえられていたことに、内心まだ見ぬ同僚の仕事の早さに身の引き締まる思いになったのだった。
ステノスの過去話はガッツリありますが、この作中では年代も場所も違い過ぎるので、書くとしたらシリーズの別作品扱いになる予定。いつになるかは未定…です。
なのでここでは軽く補足的な裏話。
ステノスとランガはかつて同じ主人に仕えていた側近同士。後継問題で主人が暗殺され、内乱に乗じて他家に乗っ取られて一族が歴史から消える。(ミズホ国は皇王がいるけれど、過去の権力争いに負けてから数百年単位でお飾りの存在で、実質トップは宰相。ステノス達の主人はこの地位にいました。ステノスが仕えていた頃は各地で領主同士が権力を奪い合う戦乱の時代。現在の時間軸ではほぼ宰相とその一族が制圧したので、割と平穏な時代になってます)
ステノスはその主人暗殺の際に重傷を負って記憶が曖昧に。窮地を救った旧友の刀鍛冶に勧められ、新天地を求めて国を出る。傭兵仕事で暮らしていたところ、ミキタと出会って結婚。ミスキも生まれて新しい人生を歩もうとしたところで、かつての主人の家臣を名乗る者から連絡が入り、過去を精算する為に会いに行って騙し討ちをされて瀕死に。それを助けたのはランガで、ほぼ体も記憶も失っていたステノスの世話をミキタに内密に頼む。追っ手がかかることを懸念して、一度死んだことにして別の場所で親子で暮らそうと準備していた矢先、ステノスが記憶を取り戻して行方不明になる。
自分の意志で姿を消した以上、無理に探すよりもステノスはランガのところに必ず来る(色々因縁があるので)筈なので、ランガはミキタとはそれまで偽装夫婦として暮らすことを提案。ミキタもそれを受けることにした。
こんな感じです。
ランガとミキタは名義上の夫婦で、事実上の夫婦関係はありません。ランガはかつての主人以外に興味がない人なので。ランガは自分の死期を悟っていたので、自分とステノスの過去に巻き込んだ迷惑料として遺産をミキタに残すための婚姻の意味もありました。なので、ユウキの戸籍上父親はランガですが、本当の父はステノス。それを知るのは現在はミキタだけ。ステノスは瀕死で世話をされていた期間の記憶が殆どないので。そしてタイキは、ステノス、ランガが仕えていた主人の忘れ形見です。タイキの年齢の時系列がおかしいのは出生が特殊なため。
ステノスは、二度目の重傷を負った際に体の大半を失って、特殊な魔道具で補っている為に通常の回復薬の効き目が悪いのです。