478.牡蠣祭開催
待ち合わせの店の前に到着すると、まだ他の馬車はいなかったのでレンドルフは安堵の息を漏らした。
今日予約した店は一見少し裕福な民家に見えるが、一日一組だけの予約制のレストランで、高位貴族もお忍びで利用すると言われている店だ。その為看板も出ていない。レグスタン街で個室のレストランを探していたところ、ユリが急遽キャンセルが出たと聞いてすぐに押さえてくれたのだ。
店の脇は馬車が二台は停められるスペースがあるので、先にユリが来ていれば一目で分かる。
馭者には時間までどこかで過ごせるように銀貨を数枚入れた袋を渡して、レンドルフは入口前のポーチで待つことにした。小さいがよく手入れされたポーチには、この時期には珍しい淡い色合いの花の寄せ植えが置かれている。淡いピンクや黄色のものをメインにしてあり、フワリと柔らかく光る照明の魔道具を置いてあるのでどこか雰囲気が温かい。入口の木製の扉もよく磨かれて、暖かみのある飴色に光っていた。
もう冬も本格的になって来たので、比較的温かい王都でも吐く息は少し白い。寒さに強いレンドルフは少し薄手のコートでも問題はないのだが、見た目は寒そうに見えるかもしれないと考えて、次にユリと会うときはきちんと冬物のコートは着ておこうなどと思っていた。
途中で受け取って来た褒章の入った手提げ袋は、小さいものなのでコートのポケットに入っていた。十分に注意しているが迂闊に潰していないかと、レンドルフは何度目かコートの上から手で触れて確認する。その親指には、濃い緑に金の偏光色の入った石の嵌まったシンプルな指輪が存在を主張していた。
それほど時間をおかずに、こちらに向かって小型の馬車が静かに近付いて来た。よくユリが使っている貸し馬車の商会紋が入っているので、乗っているのはユリに間違いない。
馬車がゆっくりと停まるとレンドルフはすぐに近付いて行って、降りようとする馭者を制して自分が扉を軽くノックした。
「ユリさん、開けても大丈夫?」
「ええ、大丈夫」
返事を待ってそっと扉を開けると、中から随分と温かい空気が流れ出す。馬車の中には、レンドルフが贈った白いストールをキッチリ巻いたユリと、見知った顔の護衛騎士マリゴと侍女のサティも同乗していた。
「ユリさんコートを」
「すぐお店に入るから大丈夫よ」
「…じゃあ、少し触れても?」
「ええ、お願い」
レンドルフはいつものようにユリの許可を取って、抱きかかえるようにして馬車から降ろす体勢を取った。本来ならば手を貸してエスコートをするのだが、小柄なユリは乗り降りが大変なのでレンドルフはいつも抱きかかえている。出会った当初は戸惑っていたユリだったが、今となってはすっかり慣れてしまった。
「それじゃ」
「え…!?」
途中まではいつものように抱き上げたのだが、レンドルフは馬車の傍にユリを降ろさずそのまま大股に店の前まで歩いて行って扉の前にユリをそっと降ろした。そしてすぐさま扉を開けて、すぐにユリに入るように促した。馬車を停めたところから玄関先までそう距離はないが、レンドルフの身長で早足ならばユリが歩くよりずっと早く到着する。ほんの僅かな時間でもユリが冷えないようにと殆ど反射的に取った行動だった。
しかしその動きは護衛からしてみれば肝の冷える行動だったとレンドルフが思い当たったのは、視界の端で馬車から飛び降りるような勢いで二人が慌ててこちらに走って来るのが見えたときだった。
それでもレンドルフはユリを最優先して先に温かい室内に入れてから、追いついて来た二人に「申し訳ない」と頭を下げた。
「まあ、レン殿ですからな」
「いやあ、お嬢様を抱えて颯爽と歩いて行くお姿は眼福でございましたよ〜。ちょっと拝んでいいですか?」
「いや、それはちょっと」
どうやらこれまでのレンドルフと信頼は築けていたようで、二人とも納得してくれていたので安心した。実は病み上がりのユリに寒い思いをさせないようにすることしか考えておらず、二人のことは全く頭から抜けていたとは言いにくい。
「レンさんたら、過保護なんだから…おじい様みたい」
二人に謝っているレンドルフを見つめながら、ユリからすれば最上の褒め言葉でレンドルフからすれば少々複雑になるであろう言葉を呟いたのだが、幸か不幸かレンドルフの耳には届かなかったようだった。
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正面玄関から入ると、狭いが内装は高位貴族の邸宅でもおかしくない程の上質な調度品が揃えられていた。エントランスに敷き詰められた絨毯には踏むのを躊躇う程見事な紋様が織り込まれて華やかな分、調度品はよく磨かれて落ち着いた色合いのものが揃っている。吹き抜けの天井が高いのでゆったりとした感覚を与える。見上げた天井には、レンドルフも名を知る有名な画家の神とその眷属を描いたモチーフの天井画が広がっていた。
「ようこそおいでくださいました」
初老の執事風の従業員に案内されて、重厚だが少し小さめな扉を抜けると、中の部屋は驚く程広いホールのようになっていた。室内に池のように水を通して、石で出来た橋を通過して池の中央に浮き島のようになった場所にテーブルが置かれている。少し明かりを落とした室内だったが、池の上に灯りを点したランタンを浮かべてあるので足元は明るい。水を循環させているのか、ランタンはゆったりと流れて動いていた。
「床の方が温かい。これはお湯かな?」
「左様でございます。この近くに温泉が湧いておりますので、そこから直接引いております。当店の蒸し料理はその温泉を利用しております。よろしければ是非ご賞味ください」
「それは楽しみだ」
部屋の中に流れる湯は湯気が立つ程の温度ではなさそうだが、湿度を調整しているのかフワリと柔らかな温もりが足元から上って来るようだ。これならば冷えやすいユリも快適に過ごせるのではないかとレンドルフはそっと隣を歩く彼女に視線をやった。ユリはキラキラした目で水面を見つめていて、大きな濃い色の瞳にランタンの光が幾つも反射していた。
今日のユリの装いは、レンドルフと同じようにいつもよりフォーマルなドレス姿だ。ワインレッド色のベルベット生地で襟元から胸に掛けてゆったりとしたドレープに覆われて、その下は体に添ったタイトなデザインの足首まであるロングスカートだ。きちんと結い上げた黒髪を飾るのは、以前レンドルフが贈った珊瑚の髪留めで、彼女の黒髪によく映えていた。襟元にドレープがあるので首の宝飾品は着けず、代わりにピンクの紅貝真珠を葡萄のように並べたピアスが彩っている。
少し濃いめに目元に入れた赤い色が熱を帯びて潤んでいるような印象を与えるせいか、いつもよりもユリの細い首や華奢な肩が目に入ると見てはいけないような目が離せないような気分になって来て、レンドルフは強引に顔を逸らして視界から外した。
「ねえレンさん、手紙にも書いておいたけど、お腹空かせて来てる?」
「あ、うん。昼を控え目にして、午後はいつもより長く走り込みして来た」
「じゃあ準備万端だね」
昨日ユリからもらった手紙に、「特別メニューを用意してもらったから、空腹で来てください」と書かれていたのだ。レンドルフはそれに従って今日の昼食は大盛りにしてもらわなかったので、シェフ姉妹に異口同音にハモって問い質された。そこで「予約した店の夕食が楽しみで」とまるで子供のような理由を素直に答えるレンドルフに、たちまち彼女達は慈愛に満ちた目を向けたのだった。
しかしレンドルフの胃袋には少な過ぎたのか午後も早い内からグウグウと空腹を訴えてしまって、他の騎士に聞こえないようにひたすら今日は個人鍛錬に明け暮れていた。
席に着くと、すぐに白ワインと生ハムやサラミ、ナッツ入りのチーズなどが乗った前菜が並べられる。どれもほんの一口程度の少量なので、レンドルフは余程ボリュームのあるメインで出されるのだろうかと期待する。
「レンさん、永年正騎士の授与、おめでとう」
「ありがとう。ユリさんも研究施設への復帰、おめでとう」
正面ではなく角を挟むように近い位置に椅子を並べてあったので、細めのワイングラスを軽く差し出すだけですぐに縁が触れ合う。チリンと軽やかな音を立てて乾杯を交わして、レンドルフは軽く白ワインを口に含む。微かな炭酸の刺激が喉の奥に滑り落ちて、爽やかな酸味と共に胃の奥に熱を感じた。アルコールには強いが、さすがに完全な空腹なところに流し込んで失敗はしたくはない。
「お待たせしました」
給仕がワゴンを押して、大皿いっぱいに並べた殻付きの牡蠣を運んで来た。どれも大振りでレンドルフの片手程のサイズで、しかも見るからに丸く厚みのある身がツヤツヤと輝いていた。
「これ…」
「うふふ、牡蠣の食べ放題にしてもらったの。レンさん、今日は思い切り食べてね」
「え、い、いいの?」
「レンさんのお祝いだもの。とびきり良いものを揃えてもらったから」
「ありがとう…!」
生牡蠣だけでなく、注文すれば焼いたり蒸したりなどすぐに対応可能な調理をしてくれるということだったが、レンドルフはまず手始めにそのまま10個程皿に取り分けてもらった。皿の脇にはくし形に切ったレモンを山盛りに乗せた別皿と、トマトソースや塩とハーブオイル、タバスコ、ソイなども並べられた。ユリは二つを取り分けてもらってサーブしてもらう。
レンドルフは並んだ牡蠣を見て顔をほころばせる。そして親指に嵌めていた指輪を引き抜くと、丁寧に胸ポケットにしまい込んだ。ユリはその行動でレンドルフの牡蠣に対する本気を見た気がした。
不意に牡蠣から視線を上げて、ユリの方に目を向けた。ユリは嬉しそうなレンドルフの顔に見とれていたので、すぐに視線が合う。何となくどちらともなく微笑み合っていた。
「「いただきます」」
声が揃ったのは、偶然のような必然のようなタイミングであった。
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まずレンドルフは牡蠣の上にレモンを搾って、フォークで殻から外してツルリと口の中に滑り込ませた。夏に食べた牡蠣と違い、噛み締めると濃厚な海の香りと甘みのあるスープが口一杯に溢れて来る。そこにキリリとしたレモンの酸味が後味をスッキリさせて、喉の奥に流れ込んで行く。レンドルフは最初の一つを呑み込んだ後、しばらく余韻に浸るようにうっとりとした表情をしていた。そして無意識なのか少し濡れた唇を赤い舌が舐めて行く。その顔は妙な色香が漂っていて、ユリは思わず食べようとしていた手を止めてレンドルフを凝視してしまった。
「すごく美味しい…」
「そ、それなら良かった。どんどん食べてね」
「うん。あ、でも他の料理もあるんだよね」
「メインは豚肉の塊を蒸した料理だって。脂の乗った部位を蒸してしっとり仕上げてあるみたい」
「それも美味しそうだな」
「レンさんは食べたいのを食べればいいよ。折角の大好物食べ放題なんだし」
レンドルフは「少し食べながら考えるよ」と笑いながら、次の牡蠣に手を伸ばした。
ここは高位貴族に人気の格式の高い店なので、通常ならばこういった自由な食べ放題などは実施していない。基本的には客の好みや注文を聞いてコース料理を提供している。けれどここはユリが存分に大公家の権力を利用して、少々強引に捩じ込ませてもらったのだ。店側も大公家に一つ貸しを作ることのメリットもあってか、快く引き受けてくれた。貴族の無茶な注文も難なく受けてこその人気店なだけはある。
片や食べ放題で片やコース料理だとレンドルフが食べにくいのではないかと考えて、ユリもコースではなくアラカルトをテーブルの上に並べてもらうメニューにしていた。それも小皿に盛るのではなく取り分けるスタイルなので、レンドルフは牡蠣の合間に他の料理も一緒に摘めるという算段だ。
「こちらは温泉で茹でた朝採れの卵でございます。バゲットに絡めても、肉や野菜、勿論牡蠣と一緒にお召し上がりいただいても濃厚な風味がお楽しみいただけるかと存じます」
説明を受けてレンドルフは添えてあったスプーンを差し入れてみると、思ったよりも弾力ある手応えと共に、中から鮮やかな黄色い黄身が現れた。試しにそのまま少しだけ口に入れてみたが、普通の半熟の茹で卵とは全く違って、黄身の濃厚さと白身の甘みが際立っていた。温泉には僅かに魔力含まれているらしく、それで調理をするとより素材の味が良くなるのだそうだ。
それを聞いてレンドルフはすぐに蒸し牡蠣を頼み、ユリも釣られて同じように追加した。
「これはメインの蒸し豚を食べる余地も残しておいた方が良さそうだな」
「それなら明日のランチサービス頼もうか?」
「ランチサービス?」
「そう。ここって予約がなかなか取れないから、ランチボックスの注文もやってるの。ここで出す料理をサンドイッチとかにしてバスケットに詰めて持ち帰れるように。明日ってレンさん夜警当番でしょ?良かったら薬局の休憩所で一緒にお昼食べない?」
「それは嬉しいけど、ユリさんは大丈夫?久しぶりだから疲れるんじゃ」
「大丈夫。お昼を楽しみに頑張るから!」
ユリはさり気なく明日のランチの約束も入れられて、ホクホクした笑顔を浮かべていた。レンドルフはまだ少し心配げであったが、それでも断る理由もなかったのでユリとの約束を受け入れた。レンドルフの明日の夜警当番は夕刻から深夜帯まで王城内の見回りに出る為、昼はゆっくり時間が取れる。
「じゃあ俺は飲み物を持って行くよ。貰い物だけどレクタング領のジンジャーシロップがあるんだ。紅茶に少し落とすと香りが良いし、お湯で割っても体が温まるよ」
「レクタング領の名産ね。楽しみにしてる」
蒸し豚も食べる為に牡蠣を少し控えようかと思ったレンドルフだったが、明日も食べる機会があるのなら、と今日は牡蠣に集中することにしたのだった。
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以前、レンドルフが騎士の先輩に好きなだけ食べればいいと言われて殻をバケツ二杯分一杯にしたと聞いていたので、ユリはその倍くらい用意しておけばいいだろうと仕入れを注文していたのだが、本気を出したレンドルフの胃袋を甘く見ていた。実に幸せそうに次々と牡蠣を平らげて、少なくともバケツ四杯は越えたところでようやく「そろそろデザートかな」と言った時には用意した牡蠣は残り三個になっていた。
店の料理人も、後でそのことを聞いたユリも心から安堵したのだが、そんな裏事情があったことを全く知らないレンドルフは、ただただ満面の笑みでデザートのシャーベットを食べていたのだった。
お読みいただきありがとうございます!
レンドルフの胃袋にはきっと空間魔法が掛かっています(嘘)
牡蠣の食べ放題は年に二回くらい行くくらいは牡蠣好きなので、その辺が反映されております(笑)大体30〜40個くらい吸い込めます。