463.ハリ・シオシャの縁談
「ハリ・シオシャ殿を知っているか?」
「はい。白の聖人様、ですね。シオシャ公爵閣下の唯一のご令孫で、公爵家は継がずに神殿に入られると伺っています」
レナードの問いに、唐突に出て来た名前に戸惑いながらもレンドルフは頷いた。
シオシャ家は王家の傍系として幾度も王族が嫁いだり婿入りしたりしている高位貴族でありながら、珍しく武門の気質を持つ一族で知られている。本来ならばたった一人の孫に公爵家を継がせるべきなのだが、王家の血統から出た初の聖人ということもあって、王家と神殿の繋がりを深める為に神殿入りをして、公爵家は王太子の子のうち誰かが養子に入る盟約が既に交わされている。
それがレンドルフが知る、王城勤務者や貴族の間で伝えられているシオシャ家と聖人ハリの状況だ。
「今、ハリ殿は許可を受けてお姿を変え、神官見習いとして修行の為に第一騎士団で治癒を担当していただいている」
「白の聖人様は見習い期間はなかったと耳にしておりますが」
「そうだ。本来なら見習いを経て資質を確認した後に神官や聖人認定を受けるものだが、彼の御方の場合は能力が目立ち過ぎた為に先に聖人認定がされた…のは、お前も知っているな?」
「はい」
「しかし神殿側の上層部の一部は、まだ幼い少年の将来を狭めることを危惧している。今更聖人認定は取り消せんが、そのまま資質があれば実務に出すし、なくとも王家の血を引く貴き象徴として扱うつもりなようだ」
レンドルフはその話を聞いているうちに、自然に握り締めた拳に力が入っていることに気付いた。政治的な思惑は貴族であれば年齢に関係なく絡んで来るものだが、年端も行かない少年に対する扱いを思うと何とも言えない感情が湧いて来てしまった。当人の資質の有無を確認することは大切だが、どちらにしても聖人認定をしてしまった以上、その立場からは逃げる術はないのだ。
「その中でどうやらハリ殿は、とある女性に一目惚れをなさったそうだ」
その話を聞いて、レンドルフは以前聞き及んでいた噂の人物の心当たりが一致して、ザワリと全身に嫌な感覚が走った。それが顔に出ていたのか、説明していたレナードもほんの少しだが視線が鋭くなった。
「何でも王城内の薬局に勤める者で、まだ若い女性ではあるがハリ殿からすれば大分年上になるな。以前に、急病人が出た現場で手伝いをしていた姿にお心を打たれたそうだ」
「そう…ですか」
「そこで、シオシャ公爵家から正式ではないが婚約の打診をしたらしい」
「なっ…!?」
思わずレンドルフがソファから腰を浮かしかけて、無理に折り畳んでいた足がローテーブルに当たってしまった。テーブルに乗っていた茶器が触れ合って派手な音を立てて、中身の紅茶がソーサーに溢れた。
「申し訳ございません!」
「まあ落ち着け」
「落ち着くのじゃ」
レンドルフは慌てて懐からハンカチを取り出して拭こうとしたが、正面に座ったウォルターとアナカナに口々に止められた。三人分の紅茶なので、ハンカチ一枚程度では足りそうになかったからだ。そこを部屋の主のレナードがさっさとカップを下げて、新しいカップですぐに紅茶を注ぎ直す。部屋の隅に用意されたティーワゴンに乗っているポット型の魔道具に温かい紅茶が入っているので、注ぐだけですぐに飲めるのだ。
「次はないぞ」
「申し訳ありません…」
出来る限り体を小さくしてレンドルフは頭を下げた。レナードはどちらかと言うと面白がっているような表情をしていたが、ひたすら恐縮し通しで顔を伏せていたレンドルフには分からなかった。
「で、だ。その婚約の打診だが、今のところは進展は一切ないようだ」
その言葉を聞いて、レンドルフは明らかに安堵した溜息を漏らした。これはほぼ無意識だったが、その反応にレナードとウォルター、そしてアナカナは視線を交わして全員困ったような笑みを浮かべた。
王城の敷地内には、現在三箇所に薬局がある。一つは王族の生活空間の一角にある王族や外交などで滞在している貴賓のみが利用出来るところで、専属の侍医がそこに待機していて一般的に開かれている場所ではない。何かあればそこから侍医や薬師が駆け付けることになっているので、薬局と言うよりは医局の方が近いかもしれない。
もう一つは城の中心近くにある大きく品揃えも良いギルド直営の薬局で、医務室と併設されていて薬師や治癒士が交代で常駐している。王城に勤める者や所用で訪れた者など、城の中に入れさえすれば誰でも利用出来る。
そしてもう一つは、王城の端で使われていなかった空き地に最近建てられた研究施設の一角にある小さな薬局だ。城内の薬局からは遠い第四騎士団や、中央に近いので貴族との遭遇が多く気後れから足が遠のいてしまう平民出身の文官などが気軽に使えるように、と設置された王城勤務の者のみが利用可能な必要最低限の品揃えの薬局だ。
その小さな薬局に勤めている女性と、レンドルフは一時期随分親しげだと噂になっていた。しかしすぐにレンドルフが強引に距離を詰め過ぎた為にすっかり警戒されてしまって、今では顔すら合わせてもらえないと伝わっている。
しかしその実、その薬局開設の後ろ盾になっているキュプレウス王国との足がかりを得ようとレンドルフを経由して利権に預かろうとする輩が多かった為に、縁が切れてしまったように見せかけているだけなのだ。
そしてその設定は、この場にいるレナード達全員が把握している。レンドルフはアナカナにならともかく、それが団長二人に筒抜けで情報が共有されていたとは知らないので、本来ならば反応を返すべきではないのだが、すっかり余裕のなくなったレンドルフは隠すことも忘れているようだった。
「今のところ、ハリ殿は正体を明かさずにアプローチをしているようで、幼い神官見習いの初恋として周囲は温かく見守っているらしい。しかし、本気で正体を明かして公爵家から大々的に打診を迫られたら…厄介なことにはなるだろうな」
レンドルフは少し前にショーキに聞いた、ユリの婚約者を勝手に名乗る神官見習いが彼なのだろうと確信した。遠回しにその噂を確認したところ、ユリの方には一切その気はなく、今は薬師の資格を取る為に他のことを考えることはない、とキッパリと否定していたので、その話は既に終わったものと認識していた。
ユリが大公女だと知らないレンドルフは、彼女は両親が亡くなって爵位を返上した元男爵令嬢という知識しかない。実際それは嘘ではなく、ユリの父は大公家の後継から外れて男爵位を与えられていたのだから、ユリの生まれは元男爵令嬢だ。今は後継にこそ認められていないが、大公家の唯一の直系として戸籍に登録されている。
しかしそれを知らないが故にレンドルフは、神殿に入ることが確定しているとは言え公爵令孫で聖人のハリが正式に縁談を申し込めば、はるかに格下の立場では断ることは出来ないと気付いてしまった。身分差があると一度は周囲から反対されるかもしれないが、それこそ適当な家格の家の養女にしてしまえばいくらでも体裁は整えられる。どちらにしろ身分の低い側からの拒否権はほぼ存在しない。
レンドルフはザァ…と血の気が引くのをハッキリと感じていた。鏡を見なくとも、今の自分の顔は真っ青になっているだろう。
その顔色を見て、レナード達は正しくレンドルフが誤解をしていることは理解していた。だが、薬局にいる女性が大公女であることは絶対に知られてはならない事項の一つで、誓約魔法こそ交わしてはいないが他言しようものなら想像するだに恐ろしいことが待ち受けているのは確実だ。この場にいるレンドルフ以外がその事実を知っているのは、アナカナは前世の記憶で辿り着き、レナードとウォルターは「王女の解毒薬入手」の協力者として否応なく真実を知らされたからだ。それもあって、気の毒に思うもののレンドルフに事実を話すわけにはいかない。
「レンドルフ。もし白の聖人殿との縁談が調えば、その女性は幸せになれるかの?」
「そ…れは」
混乱しているレンドルフに向けて、アナカナが静かな声で問う。その言葉にレンドルフはハッとしたように、一瞬体を小さく跳ねさせた。
レンドルフの頭の中では、ユリの望みを優先させたいという気持ちが先走っていたが、よくよく考えれば身分も地位も上の相手からの縁談がもたらす幸福もあるのではないかという可能性が浮かんだ。人を救うという立場からすれば、聖人も薬師も近しい立場だ。伴侶にしたとしても、誰よりも理解があるのではないだろうか。それに今後薬師として医療に携わるならば、神殿とは切っても切れない間柄なのだから、聖人の身内であればもっと活躍の場も広がるかもしれない。
「『俺が幸せにします』くらいの気概を見せぬものかの」
「王女殿下、そこがヤツの良いところです」
深い思考に沈み込んでしまったレンドルフの姿を見て、アナカナはまだウォルターの膝に乗せられたままボソリと呟いてしまった。幸いレンドルフの耳には届いていなかったが、一番近いウォルターにはしっかりと聞かれていて、更に小さな声で返されてしまった。
「では、その相手はどのような縁談を望んでおるのじゃ?」
「どのような…」
「貴族などは家の為に身分や資産が上であればあるほど良い、という者もおれば、ほどほどで気楽に過ごしたいと下位貴族や商家を望む者もおる。平民などは家よりも個人の感情を優先するのを尊ぶ者も多いと聞く。白の聖人殿が望む女性は、一体どのような伴侶を望むのであろうな?」
「何故、俺に」
「わらわを誰だと思っておる。誰が誰に縁談を申し込んでおるかくらい把握しておるわ。それにその女性とは個人的に縁も恩もあるしの。其方に聞くのが一番であろうが」
アナカナに呆れたように溜息混じりに言われて、レンドルフはグッと息を詰まらせた。
「…その、彼女は、薬師の資格を得るまで、そういった縁談とかは考える気は全くない、と…」
「それ遠回しに一緒に振られてないか…痛っ!」
「ウォルター、一言多いのじゃ」
思わずといった風にポツリと本音が溢れてしまったウォルターの太腿を、アナカナはドレスの裾に隠してこっそりと抓り上げた。幼子の力では大したダメージにはならない筈だが、ウォルターは大袈裟に反応を返す。急に声を上げたウォルターにレンドルフはキョトンとした目を向けたので、どうやら内容は聞こえずに済んだらしい。
「レンドルフ」
「はい」
「それでは白の聖人殿よりも高い身分から縁談を持ちかけられたら、ユ…その女性との縁談は消滅するのではないか?」
「し、しかしそうなりますと、それは王族くらいしか…」
そう言いかけて、レンドルフは頭の中に王太子の異母弟、第二王子エドワートが脳裏に浮かんだ。以前警護中の夜会で声を掛けられた際に、ユリに興味を持ったような発言をしていた。もしエドワードがあれからユリのことを気に掛けていたとしたら、と考えるだけでレンドルフの腹の奥が何故か熱を帯びたように重くなった。ハリよりも身分が上でユリとも年齢も近いであろうエドワードが本気で動くとしたら、レンドルフの存在など吹けば飛ぶようなものだ。
「何を誤解しているかは知らぬが、妙な威圧を漏らすでない」
「も、申し訳ありません…」
アナカナはジタバタと身を捩って、抱えられていたウォルターの膝から降り立って腰に手を当ててフンスと鼻息荒く胸を張って仁王立ちになった。
「ハリ・シオシャは、わらわが娶るのじゃ!」
まるで宣言でもするかのような勢いで言い放ったアナカナに、レンドルフはたっぷりと間を空けた後にやっと「はい…?」とだけ言ったのだった。