459.近すぎる誓い
「俺は騎士を続けるつもりだし、怪我も多い職だから心配かけることもあると思うけど、ちゃんと生きて帰って来るよ。それは約束…いや、誓うよ」
「ん…」
人はいつか死ぬもので、どうしても避けられないこともあるのはユリにも分かっている。けれど、レンドルフの言う言葉に嘘はないと信じられた。
「じゃあ…これ…」
ユリはそっとカーテンに触れるくらいの位置に人差し指を立てた状態で手を近付けた。
これは騎士科の学生が遊び感覚で行う「騎士の誓い」だ。国や主人に自らの剣と騎士の魂を捧げる儀式を模したもので、本物は神殿で魔力を込めた誓約書を前に行い、誓約魔法ほど強力なものではないが魔法による契約が結ばれるものだ。この「騎士の誓い」は魔法は一切使わず、ただ少し大切な約束事を結ぶ時などに行われる。人差し指を立てて剣に見立て、それを互いに交差させてから軽くその指で肩に触れる。実際には何の効力もないが、騎士を目指す学生にしてみれば守らなくてはならないという気分になるというだけのささやかな約束事だ。以前レンドルフがユリに教えたものだ。
カーテンがあるので上手く指を交差させることは出来ないが、薄い布越しにユリの少し冷えた指先と、レンドルフの高めの体温が交錯する。
「…俺は、何があっても、出来得る限りの手を尽くして生き延びるよ」
「私は、何があっても助けに行くから。だから、生きて、待ってて」
以前も同じような約束を交わした。けれど今の方がずっと真剣味を帯びている。つい最近、お互いを失うかもしれない出来事を体験したせいもあるだろう。
ユリがベッドの端までにじり寄って、カーテンに触れるくらいまで上半身を傾ける。レンドルフからははっきりとは見えないが、ユリは白の寝衣にクリーム色のカーディガンを羽織っているようだった。真夏の装いよりも薄着のユリに、カーテン越しとは言え触れていいものかレンドルフは一瞬躊躇したが、このままの姿勢で待たせるわけにはいかない。レンドルフはカーテンのせいにすることにして、指先だけ軽くユリの肩先に触れた。
今度はユリの方が手を伸ばしたが、座った状態でもレンドルフの肩はユリには遠いらしく、カーテンが持ち上がって床から離れる寸前まで指を伸ばしても届きそうになかった。それを見てレンドルフはユリに届かせようとカーテンに頭を押し当てて前のめりになったが、同時にユリも更に体をベッドの縁ギリギリまで乗り出した。
ちょうど寄せ合うタイミングが被り、カーテンを挟んで互いの額が軽く合わさった。
レンドルフが驚いて伏せていた視線を上げると、至近距離に目を丸く見開いているユリの金の虹彩がやけにハッキリと見えた。ユリの瞳の色は濃い緑なのだが、レンドルフの脳裏には何故か金色の印象だけが視界一杯に広がった。
ただの偶然に額が一瞬触れ合っただけなのだが、レンドルフの背後にいたミリーとアキハからは完全に誤解された体勢に見えたのだろう。レンドルフの背後でガタンと大きな音がした。
「え…!?」
「何…?」
次の瞬間、ユリが弾かれたように体勢を立て直して、ほぼ同時にアキハも声を上げた。
レンドルフが彼女達の異変に身構えた瞬間、足元から異様な「何か」が駆け抜けて行くような感覚に怖気が立った。地面の遙か下にあるのに、まるで体の内部をザラリとした感触が撫でて行くような、言葉では言い表せないほどに不快な「何か」がすり抜ける。
「わっ!?」
「ひゃっ…!!」
その「何か」が足の下を完全に通り過ぎて、一瞬で遠ざかって行ったと思った瞬間、地面からドン、と突き上げるような衝撃が襲って来た。
レンドルフが座っていた椅子が傾いたので、咄嗟に下りて膝を付き体を支える。
「ユリさん!」
ちょうどベッドの端にまで寄っていたユリは、その衝撃でベッドが跳ねるようになってバランスを崩して、ベッドごとひっくり返りそうになっていた。そのまま巻き込まれそうになって、ユリは反射的にカーテンに縋り付いた。しかし天井から吊り下げられた薄いカーテンはベッドが倒れる重みに耐えられずに、取り付けた金具ごとブチブチと外れた。
レンドルフはすぐさま立ち上がって、落ちそうになっていたユリをカーテンごと包むように抱き止めて、床にひっくり返りそうになるベッドを背中で押し戻した。
ベッドは大きく反対側に弾むように倒れて、位置こそ斜めになったがひっくり返らずに正しい状態に戻った。ベッドの上に乗っていた毛布が床に落ちて、枕は落ちなかったものの足元にまで飛んでいた。
レンドルフは床に直接座り込んだ恰好になっていたが、カーテンごと抱きかかえたユリはレンドルフの太腿の上に乗るような形になって幸い床に触れてはいなかった。思わずいつもより力を込めて抱きしめてしまい、薄いカーテンが加わっても薄着だったユリの柔らかい体がジャケットの上からでも分かってしまう。しかも咄嗟に守る為にちょうど胸の辺りに抱え込むようにしたので、シャツ越しに自分とは違う体温がダイレクトに伝わって来るのに気付いて、レンドルフは慌てて腕を緩めた。しかしユリは驚いたのかカーテンを頭からすっぽりと被ったまま顔を伏せて、レンドルフの胸板に縋り付いて離れようとしない。
「ユリちゃん!怪我ない!?」
血相を掛けて駆け寄って来たアキハが、躊躇なくレンドルフの傍らにしゃがみ込んで床に膝を付く。ユリは無言だったがアキハの問いにレンドルフにしがみついたまま何度か頷く。
「アキハさんとミリーさんはご無事ですか?」
「床に投げ出されただけで平気や。レンくんは?立てる?」
「は、はい、俺は特に…」
レンドルフはユリを抱きかかえたまま立ち上がろうとしたが、そこでようやく足に力が入らないことに気付いた。たったあれだけのことで、と信じられないような思いで足に力を入れるが、腰が抜けてしまったように動けなかった。
「無理せんでええよ。今、原因は知らんけど、でっかい魔力の塊みたいなんが真下を抜けてった。レンくんは魔力量が多いから、それにあてられたんと違うかな」
アキハにそう言われて、確かに揺れが来る直前に足元を「何か」が通り抜ける感覚がしたのをレンドルフは思い出す。今までに経験したことのない酷く気色の悪い感覚で、一瞬だったのに背中がヌルリと汗だくになっているのに今更自覚した。
そのまま立ち上がれそうにないレンドルフは、抱きかかえていたユリをアキハとミリーに促されて二人に託した。ずっと抱えているわけにはいかないのは分かっていたが、レンドルフはユリから手を放すことに随分抵抗を感じてしまった。けれどそうとは気付かれないように、丁寧にカーテンごとユリを渡す。ユリも手放す一瞬だけレンドルフのシャツの襟元近くを掴んで名残惜しげな目を向けられたような気がしたが、レンドルフは気のせいだと思い込むことにした。そうでなければ腕の力を再び強めてしまいそうな気がしたのだ。
彼女達は慣れた様子で、カーテンに包んだままのユリをそっとベッドに座らせて、飛んでしまった毛布を膝の辺りに掛ける。
「このカーテンは色々と…風邪とか?そういうもんを遮断する効果があるから、しばらくはこのままにしとくで?」
薄手のカーテンに包まれたままのユリは、繭の中に入ってしまったかのように不思議な状態になっていて、まだ黙ったまま頷くだけだった。危うく放り出されてベッドの下敷きになるところだったのだ。カーテンのせいで顔色は分からなかったが、その恐怖で上手く声が出ないのかもしれない、とレンドルフは思った。
レンドルフはひっくり返った椅子に手を掛けて体を持ち上げると、少しだけ力が戻って来たのかどうにか立ち上がることが出来た。しかし意識を集中していないと、膝が細かく震えてしまう。レンドルフは平然とした表情を保ちつつ、ユリの前では情けない姿は見せられないと内心必死で膝の震えを押さえ込んでいた。
心配そうにユリに目を向けたレンドルフが、その後ろにある窓の外も視界に入り一瞬にして顔付きが変わった。
「火事か…!」
「え!?あ!ほんまや。煙が出とる!」
この特別室は治癒院の最上階にあるので、エイスの街がかなり広く見渡せる。そこから黒い煙が立ち上っているのが目視出来た。そこまで近い距離ではないので、どの建物が燃えているかは分からないが、結構な量の煙からすると、大きな建物か数軒に渡って延焼しているのかのどちらかだろう。
「俺、もう行きます。ユリさん、また連絡するから」
「あ…!」
レンドルフは休暇中ではあるが、それでも見なかったことに出来る性格ではない。先程の一瞬でも強い揺れで怪我人や、他の場所でも火災が出ているかもしれないのだ。力もあって魔法も使えるレンドルフが役に立つ場は幾らでもある。
しかし思わずユリは声が漏れてしまった。レンドルフを引き留めるつもりはなかったのだが、それでも不安と心配のあまり零れ落ちたのだ。そのまま立ち上がって踵を返しかけたレンドルフが足を止めた。ユリはレンドルフの困ったような顔を見られなくて、そのまま顔を伏せてしまった。
「大丈夫。気を付けるよ」
レンドルフの手が伸ばされて、フワリとユリのこめかみの辺りに微かに触れた。カーテン越しなので触れた感触は分からなかったが、レンドルフの手の熱がユリの頬を包んだ。ユリが視線を上げると、レンドルフはいつものように穏やかな微笑みを向けていた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
殆ど反射的にユリが返すと、レンドルフは一瞬だけ驚いたような顔をして目を見開いた後に、少しだけ恥ずかしそうに笑った。髪がきちんと切り揃えられていたおかげで、レンドルフの耳が見る間に朱を帯びるのが布を通してもユリの目にはハッキリと分かった。
レンドルフとしては何気なく言った言葉であったが、普段よりもずっと部屋着のような軽装のユリに返されると、まるで家族に言われた時のような近さを自覚してしまったのだ。
「後はお願いします」
「任しとき」
レンドルフはアキハとミリーに頭を下げてから、足早に病室を後にした。どうやら魔力にあてられた影響は消えたようだった。
「あんだけ男前なのに花の顔、って卑怯やね」
その背中を見送ったアキハは、思わずポツリと呟いたのだった。
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レンドルフが病棟から魔道具を受け取って街の方に向かったという報告を聞いてから、ユリは二人に手伝ってもらってカーテンからようやく脱出した。何故か複雑に絡まり合ったカーテンを解いてもらうと、ユリの白い髪は静電気でボサボサになっていた。
「ねえ、ミリー。レンさんが立てなかったのって、私のせいだよね?あのまま火事現場に行っても大丈夫かな?上手く体が動かなくて怪我とかしたらどうしよう…」
「一瞬だけだったろうし、すぐに立てたから大丈夫やで〜」
「そうなのかな…それに、見られてない、かな…」
「大丈夫でしたよ。私から見ても、お嬢様がカーテンから出ることはございませんでした」
「それなら…ああっ!まだタッセルの回復薬の交換してなかった!使うようなことになったら…」
先程レンドルフがすぐに立てなかったのは、地下を通り抜けて行った「何か」ではなく、おそらくユリの特殊魔力の影響だろうとこの場にいたレンドルフ以外の人間が認識していた。脳内にある人間の魔力の根源とも言われる魔核という器官が特殊魔力で揺さぶられた状態になって、一時的に体を流れる魔力と血流を悪くして一種の麻痺状態に陥ったのだろう。これは大公家に雇われたての使用人が、ユリの特殊魔力に慣れる過程でよく見られる現象だ。他にも貧血や船酔いのような状態になる者もいる。
遮断されて囲まれたカーテン内に留まっていた魔力がカーテンが外れたことによって一気に放出されてしまい、至近距離にいたレンドルフがまともに影響を受けたのだ。幸いそれをユリの特殊魔力とは思わず、あの謎の「何か」が原因だと思ったようだった。
「その時はユリちゃんが責任とってお嫁にすればいいんやない?」
「アキハおねえさん!」
「冗談やて。ま、レンくんの後をフェイが追って行ったから、なんとかするやろ」
特別室の窓から、アキハは煙の方向に走って行く大きな背中をしっかり認識していた。そしてその後ろから、見慣れた大公家の影の一人であるフェイが着いて行ったのも確認済みだ。レンドルフが走る姿も特に異常は無かったので、問題はないだろうとアキハは見ている。
ただ方向的に煙の出ている場所は、アキハの記憶では中規模な製紙工房があった筈だ。紙を乾燥させる魔道具には火の魔石が使われているし、在庫倉庫に火が燃え移ったら今見える煙くらいでは済まない。その近所が燃えているとしたら、被害が広がる前に抑えられなければ大惨事になる。それに先程の揺れでおそらく少なくない怪我人がこれから治癒院にやって来るだろう。
「ミリーはユリちゃんの帰り支度を手伝ってや。これから怪我人が来るやろうから、ここじゃあんま手を割けんことになるわ」
「畏まりました。すぐに護衛を戻します」
今回のレンドルフの見舞いは、二時間までと定められていた。そしてきっと時間ギリギリまで話しているだろうと判断して、その時間まで護衛は治癒院の外周を見張るように命じられていたのだ。しかし先程のトラブルで半分以下の時間で強制終了してしまった。
「アキハおねえさん。火事で急患が来そうなら、氷出しておく?」
「今は大分気温が低いし、冷たい水の確保はしやすいから心配せんでええよ〜。ユリちゃんは自分の体のことを考えや〜」
「うん、ありがとう」
ユリは意外と大荷物をまとめているミリーを手伝おうとしたが、丁重に断られてしまった。メイドの才能を大公家のメイド長に認められているミリーなので、下手にユリが手を出す方が却って時間が掛かるのだ。仕方なくすることもないのでレンドルフが向かって行ったであろう窓の外を眺めると、最初よりは少しだけ煙が治まっているように見えた。
(こんな状態じゃなければ、レンさんの側で役に立てたのに…)
ユリが扱う属性の一つは氷魔法で、火事場や火傷の負傷者には無類の効果を発揮する。しかし今は体内の魔力制御がおかしくなっているので特に攻撃魔法は禁じられていた。
窓の外を祈るような気持ちで眺めていると、別邸へ戻る準備を終えたミリーに追い立てられるように馬車に乗せられた。
遠回りして火事現場を遠くから見られないかとユリはそろりとねだってみたが、当然のように却下され、街の喧騒から遠ざかるように、ユリはあっという間に別邸へと戻されてしまったのだった。