450.失念だらけの日
「大丈夫です、追って来てません」
ようやく足を止めたレンドルフ達の元へスルスルと木から下りて来たショーキが報告して、少しだけ張り詰めていた空気が緩んだ。
「あれってやっぱりムーンベアとレッドベアの混血ですか?」
「ああ、そうだろう。額に月の紋様があったが、色は赤かった。体はムーンベアの大きさだが、ムーンベアよりも速さも力も上だったな」
正面から対峙したのはレンドルフだったが、一瞬でオスカーも特徴を確認していたらしい。ムーンベアは真っ黒な毛皮に額の付近に三日月に似た形の白い毛があるためその名が付いた。そしてレッドベアは真っ赤な毛皮故にそう呼ばれているのだ。
「レッドベアよりは劣りましたが」
「その違いが分かるの、レンドルフ先輩だけですから…」
レッドベアは極北の地を生息域としているので、実物を見られるのはこの国では最北のクロヴァス領と周辺くらいだ。レンドルフは王城騎士団に入団する前に故郷で二回ほど討伐に参加したことがあったが、王都近郊に暮らす者には無縁の存在だ。
「それと、おそらくだが『魔力喰い』だな。しかも土魔法を喰うようだ」
オスカーが折れてしまった自身の愛刀を見つめて、少しばかり名残惜しそうに残った刃の部分に触れた。
「魔力喰い」とは、外部から魔力を取り込む体質の魔獣のことだ。これは変異種にしか出ない特性で、熊系に限らず魚系でも虫系でも見られることがある。その能力を有していると、特定の属性魔法を吸い取ってしまうので殆ど効かなくなる。更に吸い取った魔力で自身の魔力を強化するので、それらに遭遇した場合はいかにその特性を早く見極めるかが討伐難易度を左右する。
「私のこちらの剣は強度を上げるのに土属性の付与を強めに掛けているが、その付与が剥がされてしまっている。もう一本の方は切れ味を優先して風属性の付与だ。こちらはほぼ影響はなかった」
ただでさえ難しい双剣を自在に扱い、魔力が少ない弱点を補うような的確な太刀筋で一目置かれているオスカーだが、まさか剣に別々の属性付与を掛けているとは知らなかったレンドルフとショーキが何とも言えない表情になった。オルトはレンドルフ達よりも付き合いが長いせいか特段変化はなかったが、驚いている後輩二人の様子を楽しんでいるのか口の端を微かに上げてほくそ笑むような顔になっていた。
「土魔法を喰う、ってことは、レンドルフ先輩には不利ですね」
「火魔法に切り替えればいいだけだから大丈夫だよ。だが細かい制御は得意ではないので、少し距離を取ってもらわないと。火は上に抜けるから、ショーキの位置取りは特に気を付けてくれ」
「了解です!」
全員で話し合って、ひとまず一旦集落に戻って立て直すことに決まった。ただでさえ厄介な魔獣を相手にするので、万全を期した方がいいという意見で全員が一致した。幸いオスカーも宿に戻れば予備の剣も用意してある。それに集落の代表に知らせて、住民達の避難をどうするか決めてもらわなければならない。
「でも、ハーピーはどこに行ったんでしょうね」
ふとショーキがそんなことを呟いて、忘れてはいなかったが混血魔獣に気を取られていたのでハーピーの存在をすっかり頭から追い出していた先輩三人は、一番新人のショーキに悟られないようにこっそりと視線を交わして一瞬気まずげな表情になった。
「…まあ、あの魔獣を警戒してここではない場所に逃げたのかもしれんな」
「そうですね〜。同時に出て来られたらと思うとゾッとします」
「おい、ショーキ、予言みたいなこと言うなよ。ホントになったらどうすんだ」
やはり年の功なのか、オスカーがサラリと受け答えた。更にショーキの言葉にオルトが軽口で返す。ただ一人レンドルフが無言を貫いていたのは、性格なのか人生の経験値の差なのかは当人にも分からなかったのだった。
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早めに引き上げて来たレンドルフ達に、すれ違った住民達は怪訝な顔や、不安気な目を向けた。先日ムーンベアを仕留めた時は持ち帰って来たので、何も持っていないところを見てまだ魔獣を討伐していないのは分かるのだろう。
オスカーは集落の代表の家に行って今後のことを話し合って来るので、他は宿に戻って体を休めるようにと告げた。オスカーも同じだけ動いているので疲れている筈だが、そんなことは微塵も感じさせない。余程申し訳なさそうな顔をしていたのか、オスカーはレンドルフの分厚い肩を軽く叩いて「夜警が必要な時はお前達に任せるさ」と言い残して宿とは反対方向に向かって行った。
オスカーは中肉中背であまり騎士らしい体格ではないが、その背中は何倍にも大きく頼もしくレンドルフの目には映った。ショーキも同じように見えたのか憧憬の眼差して見送っていた。
宿の部屋に戻って装備を解いてから、各自で持って行った荷物などの不備や不足はないか確認をする。レンドルフもあちこちに入れてある回復薬や傷薬などの点検と、魔石などを備え付けの机の上に並べた。任務中に使った覚えはなくても、何かの弾みで壊れていないとも限らない。
「メッセージ?」
ポーチの中に入れていたギルドカードを取り出すと、メッセージが届いている知らせとして、カードの一部が光って点滅していた。このカードは登録した相手とのみ短いメッセージをやり取り出来る。レンドルフはごく限られた相手としか登録し合っていないので、こうしたメッセージが来るのは大抵ギルドからの定期連絡くらいだ。ギルドからは定期討伐の案内や、注意喚起などの報告が送られて来る。街道の魔獣や盗賊の出没や、新たに報告された毒キノコや毒草の特徴などの重要な情報が記載されているので、送られて来る度にレンドルフもきちんと目を通していた。王城にもそういった情報は入って来るが、地方の場合ギルドの方が早いこともあるのだ。
定期連絡にしては妙な時間に届いたとレンドルフがカードを確認すると、メッセージの相手はユリからだった。いつも手紙でやり取りしているか直接会っていたので、ギルドカードでのやり取りは冒険者登録をした直後の定期討伐の時期に少し交わしただけだった。思いもよらなかった相手からのメッセージに、レンドルフは反射的に背筋を伸ばしてしまった。
『レンさん。お元気ですか?任務で怪我などしていませんか?任務中に連絡を取るのは良くないとは分かっているけど、どうしても心配になってメッセージを送ってしまいました。レンさん、どうかご無事で。王都でお帰りをお待ちしてます』
ギルドカードのメッセージは、声を文字に変換して届けてくれるものだ。けれどレンドルフの耳には、その文字の向こうからユリの不安を押し隠しながら明るく振る舞っているような声が再現して確かに聞こえた。
「ああ…」
レンドルフは小さなカードを両手で包み込んで、ギュッと額に押し当てるようにして目を閉じた。
レンドルフとてユリへの手紙の返信を気にしていない訳ではなかった。が、少しだけ持って来ていたユリ宛ての伝書鳥はレンザに託した手紙束の中に入れてしまっていたのだ。レンドルフはユリの住んでいるところを知らない。だからユリに手紙を送る手段は伝書鳥だけと思い込んでいたので、このカードの存在をすっかり失念していたのだ。
「…何てことだ…」
病み上がりのユリにこんな風に心配をかけてしまったことへの罪悪感と、反面心配をしてもらえたという喜びも沸き上がって来て、レンドルフはその場でしゃがみ込んでしまった。そのままの姿勢でしばらく固まっていたが、やがて地を這うような呻き声とともにカードを持ったままワシャワシャと髪を掻き回した。
「…ちょっと落ち付こう」
レンドルフはそっとギルドカードを机の上に置くと再び剣を持って部屋を出て、髪もそのままに一直線に薪置き場へと向かったのだった。
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ユリがソファに座って本を読んでいると、目の前のテーブルに置いていたギルドカードがチカリと光った。すぐに本を閉じてカードに飛びつくように持ち上げて確認すると、レンドルフからのメッセージが入っていた。
『ユリさん。連絡をしなくて、心配をかけてゴメン。ユリさんも体調はどうですか。少しでも元気になったのなら嬉しいです。ええと、今手元に伝書鳥がなくて、アレクサンダーさんにこれまでの手紙を渡したので、うっかりしていました。本当にゴメン』
『あの、ユリさんの負担じゃなければ、夜にでも伝書鳥だけでいいので送ってくれたら嬉しい。王都で会うのを楽しみにしています。体に気を付けて。必ず、無事に帰ります。会うのを、本当に楽しみにしています』
メッセージは二件に分かれていて、レンドルフはあまり声でメッセージを纏めるのが得意ではないようで、そんなところもそのまま文章に変換されているのが何とも微笑ましかった。以前は何度かのやり取りで慣れたのか、必要事項のみの報告書のようなやや素っ気ないものになっていたが、しばらく使っていなかったので最初の頃に戻ってしまったようだ。
ユリとしてはこちらの方がレンドルフの顔と声を鮮明に思い浮かべられるので、ずっとこのまま上達しないで欲しいと思ってしまった。このメッセージからも、耳まで赤くしながら焦って纏まらないままにユリに返事を送ろうとして眉を下げているレンドルフの様子が見えるようだった。
ユリはうっかり消してしまわないように、すぐにメッセージを保存の設定にした。当人には言えないが、レンドルフからのメッセージは全て保存してある。
「ふふ…無事で良かった。ねえ、便箋の用意をしてくれる?」
「畏まりました」
部屋の隅で控えているメイドに声を掛けると、すぐに文具の入っている棚から箱を持って来てユリの前に置いてくれる。その蓋を取ると、数種類の便箋と封筒が並んでいる。
大分回復したので部屋の中くらいは歩き回れると主張しているのだが、まだユリには歩数制限が課されている。あまり歩き過ぎるとまだ固まっている足の筋肉に負担が掛かり過ぎてしまうので、一定の歩数以上になると警告音が出る魔道具を身に着けられている。そうなるとトイレに行く時も人の手を借りなければならないので、就寝までに上限いっぱいにならないように調整しているのだ。さすがに深夜に誰かを呼び出すのは気が咎める。
「今日はこれにするわ」
ユリはペールグリーンの便箋に、揃いの封筒を手にする。封筒には端の方に木の葉のエンボス加工がしてあって、シンプルだが上品な雰囲気のある品なので男性に送るのにも甘過ぎないところが気に入っている。このシリーズは幾つも購入していて、レンドルフへの手紙に登場する率も高い。
あまり長い手紙にすると長考に入って送るのが遅くなってしまうので、なるべく簡潔に用件を伝えることを心掛ける。しかしあまり用件のみだと腹を立てていると思われないだろうか、と考えてしまって、いつもよりは短いがやはりそこそこに時間が掛かってしまった。
顔を合わせることが出来ればフォローも出来るが、今はすぐに会う機会はない。変に誤解を招いて任務中のレンドルフを煩わせたくはない。ユリは内容はごくシンプルなところに落ち着かせたものの、その裏側では頭から湯気が出るのではないかと思うほどに考えに考えて言葉を選んでいた。
「伝書鳥…何枚くらい同封出来るんだろ」
今度は伝書鳥の輸送力の限界に挑み出したユリに、近くで控えていたメイドは「そこは返事が来てからまた同封すればいいから一枚だけでいいのでは…?」と内心思っていたが、残念ながらまだ別邸で働き出して日の浅い彼女にはそれを指摘する勇気がなかった。
それから数時間後、レンドルフの手元にパンパンに伝書鳥が詰まった封筒が到着して、目を丸くしてしまったことをユリは幸いにも知らなかったのだった。