446.涙の理由と討伐予定
ユリからの手紙を受け取ったレンドルフは、外套も着ずに慌ただしく部屋に戻った。
宿の主人が依頼していた雪雷魚以外の魔獣も討伐してくれることに殊の外感謝して、わざわざ全員に個室を用意してくれていた。そうでなければ大抵同室になるショーキが、息を切らせて戻って来たレンドルフにさぞ驚かされたことだろう。
「う…」
まだ遅くはないが夜の為に急ぎつつも静かに部屋の扉を閉めたレンドルフは、込み上げて来る感情を抑えようとしたが堪えられずに僅かに声が漏れてしまった。部屋には誰の目もないと分かっているが、ここ最近は随分と涙腺が緩くなっているのを自覚していたので、レンドルフはグッと熱くなる目の奥から水分がせり上がって来るのをどうにか押し止めた。
しばし扉の前でレンドルフは固まったようにじっとしていたが、ようやく感情の波を呑み込んで落ち着きを取り戻した。そしてまず中身を読む前に汗ばんだ体を温めなくては、と封筒を丁寧にサイドボードの上に置く。分かっていても手から離し難くなっていたが、このままでは着替えられない。汗ばんだままでは風邪を引いて、明日の討伐にも王都に戻る予定にも響いてしまう。封筒から手を離した後にベッドの上に外套と剣を放り出すと、慌てて浴室に飛び込んだのだった。
「痛っ!」
余りにも慌てて飛び込んだのでレンドルフには低い浴室の入口に額を強かにぶつけて、思わず声を上げてしまった。
結局最初は堪えたものの、ぶつけたせいでポロリと落ちた涙が先程抑えた分だけ反動になって一気に決壊した。
そして翌朝、食堂に現れたレンドルフの目は真っ赤になっていたのだった。
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「…浴室のドアにぶつけたって言ってましたけど、大丈夫ですかね?」
「一応額も赤くなってたしな。信用したことにしといてやろうぜ」
「それ、信用って言わないですよ」
朝食後に、レンドルフは討伐用の荷を確認すると言って席を外していた。ショーキが一緒に行くと申し出たのだが、赤くなった目を隠すように視線を合わさずに「一人で十分だから」と言い置いて足早に去ってしまった。オスカーは集落の代表にムーンベアの目撃情報を聞き取りに行っていて、食堂に残されたのはショーキとオルトだった。本来ならばこれからの討伐についての策を大まかに立てておくべきなのだが、どうにも目を赤くして現れたレンドルフの姿に気を取られていた。当人は浴室に出入りする際に目測を誤ってぶつけたと言っていたし、彼の額がうっすらと赤くなっていたのでその通りなのかもしれないが、それにしては明らかに泣いた跡のように目が赤く腫れぼったくなっていた。
「フラれたかな」
「それは…いくらなんでも」
「いや、だってレンドルフは王都から離れて二ヶ月以上だろ?遠征の多い第四でも長くてひと月だしな」
「レンドルフ先輩のことだから、マメに手紙とか書いてるんじゃないですか?」
「まあ…そうだろうが。しかし相手が複数だから、手が回らないこともあったんじゃないか?」
「ええと…どう、なんでしょう」
外見だけでなくこれまでの経歴なども目立つレンドルフに加えて、かなり目立つ美女と連れ立って中心街の店で見かけたという目撃情報はいくらでも向こうから飛び込んで来る。しかしあまりにも連れている相手の印象が違い過ぎるので、どうやらレンドルフは複数の女性と同時進行で付き合っているらしいと真しやかに囁かれている。無謀にも当人に確認しに行った強者もいたが、レンドルフはハッキリと肯定することは避けたが一切否定をしなかったらしい。
しかし実のところ、その複数の女性は全てユリが変装したものだ。キュプレウス王国との共同研究が始まった頃、どうにか足がかりを得ようと薬局にいるユリに目を付け、彼女と親しそうだったレンドルフに狙いを付けた者が思ったよりも多かった。それから目を逸らす為に、レンドルフは複数の女性とお付き合いをしていて薬局の女性にすっかり嫌われてしまった、という状況を作り出したのだ。
ショーキは獣人の能力なのか、特殊魔力を感知する力が備わっていた。その為薬局で一度顔を合わせたことがあるので、随分印象が違うが変装しているユリと同一人物だとすぐに見抜いた。特殊魔力を持つ者は色々と忌避されることが多く、交友関係や縁談に響くこともあるので、伴侶や家族にすら伏せている場合も多い。その為ショーキはユリには特殊魔力の感知能力でユリの変装を看破したことを彼女に話してはいるが、レンドルフには香水の香りで気付いたと言ってある。そしてそのことは完全にプライベートな内容であるので、ショーキは当人達が公表しない限り変装の件は絶対に誰にも言わないと約束していた。
「もともとあいつの性格じゃ、複数の女性と同時進行なんてらしくないし、本命だけに絞った方がお互いの為だろうしな」
「ま、まあそれも勝手な推測ですし…」
(でも実際、一人にフラれたら全員にフラれるんだよなあ…)
複数と付き合っているように見せかけて中身は一人だと知っているショーキは、あの二人の雰囲気では余程のことがない限り別れることは想像も付かなかったが、それは当事者でしか知り得ないことだ。ショーキはレンドルフのことを心配しつつ、そのことには向こうから言われない限りそっとしておこうと心に誓ったのだった。
レンドルフが近衛騎士だった頃は、守秘義務もあってあまり他の団員達と交流がなかった。その為に第四騎士団に来たばかりの頃のレンドルフは、偽装で複数の女性と付き合いがあるように見せかけていたことで随分と気の多い軽薄な男と思われていた。見た目故にやや遠巻きにされてもいたので、裏でヒソヒソとされていることも多かったが、当人は知ってか知らずか全く気にしていないようだった。
しかしレンドルフと団員の交流が増えて来るに連れて真面目で誠実な性格であることが知れ渡ると、むしろ何故複数の女性と?と疑問に思う者も増えて来た。さすがに当人に直接聞くことはないが、ひょっとして女性側から強く希望されて優しいレンドルフは断れなかったのではないかという風評に最近は変わりつつあった。
どちらにせよレンドルフからすれば、薬局のユリとの繋がりが切れたように見せかけて自分に降り掛かる火の粉がユリにさえ及ばなければ自身の評判は二の次なので、どんな内容でも何ら問題はないのだ。
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荷物の確認を終えてレンドルフが戻って来ると、ほぼ同時に難しい顔をしたオスカーも食堂に戻って来た。
王都から馬車で一週間ほどのこの周辺は観光産業が盛んであるが、比較的雪の多い地域でもある為に冬場はほぼ客はおらず、今宿泊している宿も客はレンドルフ達しかいない。おかげで各自の個室も用意してくれて、集まって話をする時は食堂を自由に使っていいと言ってくれている。
「どうも目撃証言が多すぎる。ムーンベアならばこの時期には冬眠している筈なのだが」
オスカーは代表者から渡されたこの周辺の地図をテーブルの上に広げた。そこにはペンで上から幾つかの印が付いていて、そこがここひと月の間にムーンベアと思しき魔獣を見たという場所だった。
ムーンベアは、この大陸では少し北寄りの地域の山に広く棲息している熊系の魔獣だ。真っ黒な毛並みに額の辺りだけ白い毛があって、それが夜空に浮かぶ三日月のように見えることからそう呼ばれている。しかしそんな風雅な名付けとは裏腹に、それなりに大きな体にそれに見合った攻撃力、そして魔獣の中では賢い部類に入る厄介な相手だ。体躯で言えばボア系より小さく、知力で言えば狼系よりは劣るが、全てにおいて平均以上で目立った弱点もない為に出来れば相手にしたくない魔獣、と語る猟師も割と多い。ただ、確かに危険な魔獣ではあるが性質は用心深く、山での食糧が不作の年に人里に降りて来ることはあっても基本的には人との棲み分けが出来ているのだ。
ムーンベアは子育て時以外は単独で生活し、冬は冬眠をするので今の季節の多数の目撃証言はあまりにも奇妙だった。時折冬眠から目覚めてしまう個体もいるので絶対無いとは言えないが、それにしてもここまで目撃が多いと、一頭ではない可能性もある。
「ひとまず雪雷魚避けの設置も終わったことだし、まずは集落の北側、最も目撃例が多いところを見回りに行こう」
「了解です」
「足跡でも見つかれば、本当にムーンベアかどうかの確認も出来るな」
「レンドルフは何か気付いたことでも?」
レンドルフは地図ではなく、集落の人間の証言を書き留めたものに見入っていた。オスカーもオルトもレンドルフより第四騎士団に属して長いが、王城所属の騎士の遠征は王都周辺が大半だ。それに遠征も必ず魔獣討伐とは限らない。そういった意味ではこの中で最も経験値が高いのはレンドルフなのだ。そのレンドルフが何か異変に気付いたのならば、有用な意見として耳を傾ける必要があると全員理解していた。
昔はわざわざ王都から騎士団を派遣して数ヶ月掛けて遠征をしていたが、地元の騎士を国で雇い入れて王城騎士団所属の駐屯部隊として各領地に配置するようになってから遠方への遠征が殆どなくなったのだ。その方が現場に早く駆け付けられる上に土地勘のある者ばかりで構成されている為、討伐の成功率も上がった。それでも手に負えない時は近隣の駐屯部隊が合同で討伐に参加することもある。これは国が紐づいた騎士団であるので、領地を跨いで応援に出向くことも容易いという利点なのだ。領や家門の専属騎士団になると、他領への応援一つに置いても色々な柵があって、初動が遅れて大惨事になったことは過去の歴史を紐解けばいくらでも出て来る。それを解消する為の駐屯部隊の設立は、王国史上最も価値のある政策の一つとして名を遺すだろう。
「この…日に当たって茶色い塊が、との目撃が二例ありますよね。ムーンベアの毛は年老いたものでも真っ黒のままで、いくら雪に反射したといっても茶色く見えることはないです」
「では別の魔獣の可能性もあると?」
「それもありますし、もしかしたら変異種ならば必ず黒とも限りません。一度それらしきものの姿を見てみないことには分かりませんが…」
レンドルフは一旦言葉を切って、自分の知るムーンベアの特徴と変異種の可能性を示した。そしてもう一つの可能性を思い浮かべて、出来ればそれでないことを祈るような気持ちで口に出した。
「赤熊か、或いはレッドベアとの混血と言う可能性もあります」
人里近くに下りて来たり、子育て中で気が立っていて誰彼問わず襲いかかるような状態の場合は討伐対象にはなるが、そうでなければ放っておかれるような魔獣だ。むしろ立木や農作物を荒らす鹿系魔獣の数の増え過ぎを防ぐ為には必要な存在でもある。討伐命令が出ない限り無縁なムーンベアの生態をそこまで詳しく知る必要はない。だからこそレンドルフが指摘したような僅かな違和感も気付かないものも多いのだ。
レンドルフが出来れば的中して欲しくない可能性は、更に北方に棲む魔獣の中で最強とも名高い赤熊との混血だ。
この国でレッドベアが棲息しているのは最北辺境のクロヴァス領と周辺だけで、合わせても片手の領地で足りる。むしろそれよりも南下させない為にその領地が守っている要素が大きい。レッドベアは熊系魔獣で最大の体躯と恐ろしいほどの怪力、そして有り得ないくらいの機動力を誇る。木の上でも水の中でも軽々と巨躯を踊らせて獲物を仕留める。更に魔力耐性も冗談のように強く、彼らに出来ないのは空を飛ぶことくらいだとすら言われている。不幸中の幸いなのか、繁殖し辛い生態なのでそこまで数が多くないのが救いであった。
それだけ強い魔獣であるので、ディルダートが「辺境の赤熊」という二つ名を冠しているのはどちらかと言うとクロヴァス領では強さを誇る名誉な二つ名なのだ。
ムーンベアは比較的寒い地で、レッドベアは極寒の地がそれぞれの生息域だ。あまり重ならないのではあるが、時折縄張り争いに負けて生息域を外れた個体などが出会うこともある。そして稀なケースではあるが、数年に一頭程度、ムーンベアとレッドベアの混血の個体が観測されることがあるのだ。ただ彼らは種としては強くはなく、ほぼ次代に繋ぐ繁殖能力を有していない一代限りの存在だ。ただし能力的には大変厄介な変異種として扱われる。
どういった神の采配か混血の個体はほぼ十割で魔力を有し、それぞれの親の個性を引き継いだまま強力な属性魔法を使用する。そうなると確実に討伐対象になるのだ。
「混血か…たしか属性魔法を使うのだったか?」
「はい、その通りです。そして毛皮の特徴として、一見ムーンベアの黒の毛並みに見えますが、レッドベアの色も受け継いでいる為明るいところで見ると赤い色に見えることが多いです」
「それを茶色と見たとしてもあり得る話だな」
オスカーが難しい顔で頷いた。その隣にいるオルトも、正面にいたレンドルフから証言を書き留めた紙を受け取って目を走らせた。
「でも、魔法での被害は出てないな。割と近くで目撃されているが、魔法で襲って来た話は今のところはなさそうだ」
「風魔法なら爪を受けたと思って魔法と気付いていないかもしれませんが…とにかく実物を見てみないことには始まらないですね」
「そうだな。しかし最悪のことを想定して、気を引き締めて臨むように」
「「「はい」」」
オスカーの言葉に、全員が気を入れて返事をしたのだった。