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445.君に捧げる祈り


「おじい様…」

「ああ、そのままでいい。経過も良さそうだね」


専属メイドのミリーに案内されて、旅装を解いたばかりのレンザがユリの部屋を訪ねて来た。ユリは顔を明るくさせて起き上がろうと頭を浮かせかけたが、大股にレンザが近寄ってやんわりと留めた。レンザはすぐにミリーが用意した椅子に腰を降ろすと、感激を抑え切れない面持ちで毛布の上に出されたユリの手を取った。ユリに会う為に急いで湯浴みを済ませて来たのか、いつもはややカサ付いているレンザの手がしっとりとしている。そして大公家で使用しているハーブ入りの石鹸の香りがフワリとユリの鼻をくすぐると、それがひどく懐かしく感じてユリは目の奥がジワリと温かくなった。


「ああ…どれほどこの日を心待ちにしていたか」

「私もです、おじい様。…眠っていた時に夢で会っていた気もしますが、覚えていないので」

「ふふ…私も何度ユリの夢を見たかしれないよ」


両手で柔らかくユリの小さな手を挟み込むように握り締めて、レンザはそっとその手を自分の額に当てた。普段は固めているレンザの前髪が額に落ち、ユリの手の甲にサラリと触れる。その光景は、まるで女神に祈りを捧げる敬虔な信者の姿のようでもあった。


「少しお痩せになりましたね。ごめんなさい…ご心配をお掛けして…」

「ユリのしたことは間違ってはいないよ」


レンザは額から手を離して、ユリの少し冷たい指先を温めるようにしっかりと握り締めた。握り返して来るユリの手の力がいつもよりも弱いが、まだ体が自由に動かせないせいだろう。


「最善ではない…と言うよりも悪手寄りではあったけれどね。それでも目の前の人を救おうと咄嗟に出た動きなのだろう?」

「…はい」

「自分の命と引き替えに誰かを助けることは悪いことではない。しかし、生きていればこの先もっと多くの人々を助けることが出来ることも忘れてはならないよ」

「はい」


眉を下げた顔になったユリの頭を、レンザの手が優しく撫でる。


「しかし、よく頑張ったね」

「…っ!はい…!」


優しい声で低く呟くレンザに、ユリの目はたちまち潤んだ。褒められたことは嬉しいが、それよりもこれほど心配を掛けてしまったことへの申し訳なさがはるかに勝った。そこまで詳しくは聞いていないが、レンザはユリの為の解毒薬の素材を自身の手で採取する為に雪深い辺境領まで出向いたというのだ。いくらレンザが健康であっても、年齢的なことを考えれば相当無茶な行程だった筈だ。


「ユリが戻って来てくれて、私は嬉しいよ。きっと皆もそう思っているだろう。しばらくは療養が必要だが、体調が回復したら皆に顔を見せに行こう」

「はい、頑張ります」


それからレンザはユリを労るように脈を取ったり、目を覗き込んだりして異変は見られないことに安堵していた。その間にも、ユリが眠っている間に起こったことを少しずつ話して行く。


「レンさんと、おじい様が…!?」


中でもレンドルフがレンザと共に辺境に向かうことになった下りには、ユリは大きな目を更に見開いて零れ落ちるのではないかと思うほどに驚愕していた。確かに解毒薬に必要な薬草を採取するのにレンドルフの手を借りたということは聞き及んでいたが、まさかレンザと同じ馬車で同行しているとは思っていなかったのだ。


「私の正体は彼は知らないよ。以前に顔を合わせた時に名乗った『子爵家執事のアレクサンダー』だと思っているからね」

「その…それで納得したのですか…?」

「彼の素直さはユリの方がよく知っているだろう?」

「う…た、確かにそうですが…」


ユリは言葉を詰まらせたが、レンザの所作はどんなに贔屓目に見ても高位貴族のものだ。以前に執事のフリをしてレンドルフと顔を合わせた時もよく気付かなかったものだと思ったが、何日間も掛けて共に旅をして来て分からなかったというのも俄には信じ難かった。


「彼のご両親にもご協力を仰いだからね」

「クロヴァス辺境伯様にですか!?あ、今は引退されたんでしたっけ」

「ユリ、少し落ち着きなさい。まだ体力が戻っていないのだから」

「おじい様のお話を聞いて落ち着く方が無理です…」


次々とレンザの口から語られる驚愕の情報に、ユリは横になったままなのに目眩がしそうだった。思わず片手を自分の額に当てて目を閉じた。


「これ以上は体調に影響が出るだろう。続きはまた次の機会にしよう」

「お、おじい様!そちらの方が気になって影響しそうです」

「仕方のない姫君だね」


こんなところで切り上げられては続きが気になって仕方がないユリは、少々恨めしげにレンザを見上げた。その目にレンザは苦笑しながらも、懐から紐で束ねた封筒を取り出した。その封筒の表に書かれた自分の宛名を見て、その見覚えのある文字にユリは目を丸くして息を呑んだ。


「レンドルフ君から預かったよ。ユリが眠っている間も手紙を書き続けていたらしくて、かなりの量になっていたね」

「ではもっとあると言うことですか!?」

「落ち着きなさい。ユリにいっぺんに渡したら徹夜で読み耽るだろう?だから渡すのは少しずつだ」

「う、うう…」


反論のしようもなく図星だったユリはキュッと口を引き結んだが、喉の奥で小さな呻き声が漏れてしまう。そんなユリの渋い顔もレンザにすればただただ愛らしい。フッと軽く笑うとユリの手に封筒を握らせた。それを受け取るとたちまちユリの顔色に赤みが差して、胸に抱えるように握り締めた。その顔にレンザの胸の奥に微かに焦げ付くような感覚が浮かび上がったが、真っ赤な顔をしながら読まれても構わないと躊躇なく言い切って手紙をレンザに託したレンドルフの顔を思い出すと、その胸の燻った熱が引いて行くような気がした。


「また明日、必ず来よう。話の続きはその時だよ」

「はい、おじい様、ありがとうございます」


レンザはそっと顔に少し掛かっているユリの白い髪をどかすように軽く指先で撫でると、そっと指先に絡めるようにして愛おしげな表情を浮かべた。しかしすぐにその指を離して、椅子から立ち上がった。


「おじい様…その、無理はなさらないでくださいね」

「おや、そうすると話の続きが聞けなくなってしまうよ?」

「話は聞きたいですけど…でも、おじい様の体の方が大切です」

「そうか…」


ユリのその言葉に、レンザは感極まったような顔でユリのベッドに少しだけかがみ込むとフワリと彼女の頭を撫でた。頭に触れるか触れないかの柔らかな手の動きは、ユリの額に優しい温もりを残した。


「大丈夫、また来るよ。ユリも疲れ過ぎないようにね」


しっかりと胸に抱きしめられている封筒の束にチラリと目をやって、レンザは穏やかな微笑みを残してユリの部屋を後にしたのだった。



ユリが受け取った封筒は五通あった。日付を見ると、ユリが毒に倒れてから数日後、レンザとクロヴァス領に向かう為に王都を出た日から始まっていた。旅の道中にしたためているので、封筒も便箋も白いシンプルなものだ。書き上げてすぐに封筒に入れてそのままになっていたせいか、封を切るとほのかにレンドルフがいつも使用している香水の匂いが漂った。顔の近くで開封しなければ分からない程度の残り香だが、その香りでレンドルフの優しい顔立ちや仕草が鮮明に蘇って来てユリは思わず目が潤んでしまうのを感じた。


一番古い日付の手紙を開くと、達筆ではないが読みやすい丁寧な見慣れた文字が並んでいる。いつもよりも短めなのは仕方がないだろう。そこには、届かなくてもユリに対して心からの心配と見舞いの言葉が並び、以前世話になった「アレクサンダー」がユリの祖父であったことの驚きが綴られていた。

次の日は旅先であった出来事がシンプルに書かれていて、一言二言、レンドルフの感想が付け加えられていた。続く他の手紙も似たようなもので、そこには不安に感じていることなどは一切書かれていない。


レンドルフの性格ならば間違いなく心配と不安を抱えていただろうが、いつかユリの目に触れた時の為に敢えてそういった話題は封じていることが透けて見えるようだった。短く簡潔な文字の向こうにレンドルフの優しさが滲み出ている気がして、ユリはすぐに読み終えてしまう短い手紙を何度も繰り返し目を通していた。

そんなことをしているうちに気が付くとあっという間に就寝時刻になっていて、部屋で待機していたミリーに危うく手紙を取り上げられるところだった。「もう封筒にしまって読まないから」と懇願してようやくそのままユリの手元に置くことは許された。どのくらいの量があるか分からないが、レンザが一気に全部渡さなかったところは慧眼だったのかもしれない。ユリにしてみれば悔しいようなありがたいような複雑な気持ちだった。


(また明日、続きが読めるのね)


文字が読めないようにいつもよりも明かりを落とされたベッドの上で、枕のすぐ脇に置いた封筒に手を伸ばす。指先に触れる紙のカサリとした感触が、何故かほのかに温かい気がした。


(おやすみなさい…)


眠ってしまえばすぐに明日になる。明日になればレンザがやって来て話を続きと手紙を渡してくれる筈だ。来訪は夜かもしれないが、昼の間であればいくらでも手紙を読み返すことも出来る。


ユリは早く明日が来るのを願いながら、静かに眠りに落ちて行ったのだった。



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夜半にレンドルフは宿をそっと出ると、薪を積み上げた物置がある裏手の空き地まで足を向けた。


息を吐くと白くモウモウと立ち上る様子が見えるくらい空気は冷えているが、皮膚を刺して痛いような感覚はない。ここは王都まで馬車で一週間程度の距離の集落だ。最北のクロヴァス領に比べたら寒さは大分和らいでいる。王都に慣れたレンドルフも久しぶりの帰郷で身が引き締まる思いをしたせいか、今はこの辺りの寒さもさほど堪えるような気がしない。北仕様の外套も暑く感じ始めたので、裏地を外して着ているくらいだ。それを見たショーキなどは「見てるだけで寒い」と柔らかな髪を逆立てていた。


レンドルフは周囲を見回して異常がないことを確認すると、外套を脱いで近くの柵の上に掛けた。愛用の大剣も倒れないように慎重にその隣に立てかける。


王城でも何となく寝付きが悪い時は訓練場で鍛錬をしているレンドルフは、宿の主人の許可を得て使わせてもらっていた。ここには数日滞在して、雪雷魚だけでなく目撃証言が複数あったムーンベアの討伐も請け負っている。その為毎朝の日課である鍛錬の場所として使用させてもらっているので、夜間はそのついでのようなものだ。


さすがに外套を脱ぐと寒さを感じるが、ゆっくりと体をほぐして行くと少しずつ体が温まって来る。レンドルフは程良く全身がほぐれたところで、片手で大剣を持ち上げた。剣だけ見るととても人が使う代物には見えないが、大柄なレンドルフが持つとバランスとしてはそこまでおかしいことにはならない。

レンドルフが周囲に気を付けながらスラリと鞘を払うと、細い月明かりの中によく研がれた刀身が薄く光る。昼間も多数の雪雷魚を斬り伏せたが、一振りすると表面の血や脂が振り落とされる付与が掛けられているおかげで曇りは一つも見られない。


まず両手で柄を握り締めて、レンドルフは静かに息を吐いて集中力を高める。そして大きく頭上に振り上げると、空気を切り裂く音と共に剣を振り下ろす。その切っ先は風を起こして、周囲に積もった雪の軽い表面に風紋を描いた。かなり勢い良く振り下ろしているように見えるが、それでも鍛え上げたレンドルフの筋力で見事に地面と平行な位置でピタリと止まる。振り下ろす勢いと剣の重さで腕や背中に掛かる負荷は相当なものだが、もともと力が強く魔力制御で息をするように身体強化を自在に操るレンドルフには慣れたことだ。勿論身体強化魔法だけに頼っていては鍛錬にならないので、きちんと自身の筋力にも負荷が掛かるように調整している。


何度か同じ動作を繰り返して、体が熱くなって来たのかレンドルフの白い肌に朱が差して来る。汗が浮かぶまでは行かないが、服を着込んでいる部分はしっとりと湿気を帯びているのが自分でも把握している。


それから大きく足を踏み込むように素振りを繰り返し、更に片手で太刀筋をひとつひとつ確かめるように振り下ろした。かつて剣技を教えてくれた人物から、左右バランスよく鍛えることが肝要だという教えを未だに実戦しているレンドルフは、同じ回数だけ利き手ではない左手でも剣を振るう。

その人物からは年を取ってから左右の偏りは響いて来ると言われてから実戦しているが、レンドルフにはまだ実感はない。それでも習慣になっているし、何よりも「アレクサンダー」にも褒められたことが何となく誇らしく感じていた。


「…あれは」


大きく息を吐いて濃紺の空を見上げると、何か白いものが頭上を旋回している。レンドルフはすぐにそれが何か分かったが、手を伸ばせば消えてしまうような気がしてしばらく呆然と見上げたまま立ち尽くしてしまった。思わず持ち直した剣の柄に取り付けたタッセルが手の甲に当たり、レンドルフは我に返った。


ゆっくりと頭上を巡っている青い鳥の形をしたそれは、夜の闇の中では白い色にも見えた。レンドルフはおずおずと空に向けて手を伸ばす。その指先が微かに震えていたのは寒さのせいだけではなかった。


夜の空を飛ぶ作り物の鳥は、レンドルフの手の中に真っ直ぐに降りて来た。そしてレンドルフの手に触れるとその姿は封筒の形になる。


「ああ…」


暗い中では淡い色は分かり辛く、白っぽい色にしか見えない封筒からフワリとハーブの香りが漂う。その表に書かれた宛名は少しばかりよれてはいたが、右上がりの癖のある文字は間違いなくユリのものだった。


レンドルフは手袋を外して捧げ持つように封筒を手にすると、まるで忠誠を捧げるかのようにそっと額に押し当てたのだった。



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