443.それぞれの帰還
「ねえ、ミリー。このペンってこんなに重かったかしら」
「ですから羽ペンをお勧め致しましたのに」
「…これで書きたかったのよ」
ユリは溜息を吐きながら、凭れ掛かっていたクッションの中に身を沈めた。体の小さなユリは、大きなクッションに周りを囲まれるようになっていて、実質ベッドの上にもう一つベッドがあるような状態だった。
毒の影響で意識が戻っても日に僅かしか起きていられない状況が続いていたが、二週間程でようやく半日くらいはきちんと覚醒した状態が保てるようになった。そこでユリの精神的な安定と警護の関係から、エイスの街に隣接している貴族の別荘地にある大公家別邸に戻って来ていた。医療設備はエイスの治癒院の方が揃っているのだが、人の出入りを考えると安全性は別邸の方が高いのだ。まだ時折揺り戻しのように高熱が出ることもあったが、それ以外は安定していたので主治医のセイナがユリの身の安全を優先して退院の許可を出したのだった。勿論、ユリに何かあった時に対処出来るように、常時交代で大公家の治癒士が別邸に詰めている。
ユリが書くことを放棄して横になったので、周囲にインクが付かないように手に握られていたガラスペンを専属メイドのミリーがそっと抜き取る。一瞬だがユリの手からペンが離れる時に指がそれを追いそうになったが、それ以上は反応はしなかった。
「今日も二行くらいしか書けなかったわ…」
「昨日よりも五文字増えております」
「でも酷い字じゃない」
「読めるので無問題です」
「…そういう問題じゃないの…」
ユリは少々恨めしそうにミリーに文句を言っていたが、彼女は全く堪えた様子はなくガラスペンに残ったインクを綺麗に拭き取り、柔らかい布できちんと手入れをしてケースの中にしまい込んだ。これはユリの視界に入る場所で分かりやすいように作業している。
女性用に少し小振りに作られた境の一切ない滑らかなガラスのペン軸に、繊細な細工のレンカの花が中に浮かぶように作られた芸術品のようなペンは、以前レンドルフがユリと揃いで作って贈ってくれた品だ。通常ならばユリの手によく馴染んで使いやすい筈のペンだが、全身を毒に冒された後のユリは筋肉の動きが悪くなっているためにそれすら重く感じるようだった。
「お嬢様、薬湯をお飲みください」
「…ええ」
ガラスペンを所定の場所に戻したミリーは、部屋の隅に置いてあったワゴンから木のカップをユリの元に持って来る。そこにはドロリとした緑色の液体が半分ほど入っている。これは体の代謝を上げて毒素の排出を促す為の薬湯だ。少しでも回復する為に必要な物なので、一日にかなりの量を飲まなければならないが、見た目通り味もあまりよろしくない。子供ならば毎回飲ませるのに苦労する代物だが、ユリは必要性も熟知しているので大人しく飲んではいるが、年に関係なくそれでも不味い物は不味い。
軽い木のカップに半分ほどなのにそれでもユリの手で支えるにはまだ重いので、ミリーがカップを支えて補助が必要となる。
ユリは顔を顰めながらもどうにか薬湯を飲み干して、ミリーがカップを離したタイミングでサッとユリの口を柔らかな布で拭いた。その後口直しに、少し薄めに作った果実水を入れたカップをユリの口元に運ぶ。こちらは薬湯の影響を阻害しないように二口程度だが、それでも口の中にへばりつく苦味がかなり洗い流される。
ユリが大公家に来た時からずっと専属で仕えているミリーなので、身の回りの細々したことは全て彼女が行っていた。ユリからすると使用人と言うよりも姉のような存在なので、素直に身を任せている。
「…ねえ、やっぱり書き終わった手紙を先に送っちゃダメ…?」
「同時です」
「優劣を付けてる訳じゃないんだけど…」
「同時に送ってください。それが最良です」
「…分かったって」
クッションを外されて丁寧にベッドに横にされると、ユリは懇願するようにミリーに訴える。しかしミリーはニコリと笑顔は作るものの目の奥は笑っていない。彼女がそういう表情をする時は、絶対にユリの意見には頷いてもらえない時だ。大抵はユリに甘いので少し強く願えば融通してもらえるのだが、絶対駄目な時は何をしても駄目なのは経験で知っている。ユリは仕方なく小さく溜息を吐いてミリーの言うことに従った。
ユリが願ったのは、既に書き終えたレンドルフへの手紙を送ることだった。体が上手く動かせないのでかなりよれた文字になっているし、便箋に一枚がやっとだった。却ってこれでは心配させてしまうのでは、と悩んだが、全く連絡をしないというのも不義理が過ぎると思い直して封筒に入れるところまで準備したのだ。後は伝書鳥に持たせるだけだったのだが、まだレンザへの手紙を書き終えていないことにミリーからのストップが掛かった。正確にはミリーだけでなく別邸の使用人全員の総意なのだが、物理的に止めている代表が彼女なのだ。
ユリからすれば、優しく甘い祖父ならば順番など気にしないと思うのだが、それはユリにしか見せない態度であることを使用人達は知っている。もし伝書鳥が届いた時にレンザとレンドルフが同じ場にいたならば、恐ろしいことが起こるであろうと想像するだけで震えが来る。しかしだからと言ってそれをそのままユリに伝えることも出来ない。ユリの前では特別に孫に甘く、そして尊敬される祖父でいたいのだ。
だからこそ今後の平和とレンドルフの安全の為に、ユリにはせめて同時に送って欲しいと使用人達は全力で願っているのだ。
ユリがレンザへの手紙を後に回したのは、単に書くことが多い為でそこまでの他意はなかった。レンドルフにはリハビリに時間は掛かるが後遺症はないので安心して欲しいという旨を書いたが、レンザにはもっと詳しい体の状態や現在の症状、投薬などの専門的な内容を記している。どちらかというとレンドルフには手紙、レンザには報告書のような内容なのだ。これはそれぞれのいつものやり取りなので、ユリにしてみれば差を付けているつもりは一切ないのだ。
「…早く会いたいな」
体力を消耗しない程度に筋肉をほぐすマッサージを手足に施してくれるメイド達に身を任せて、眠気が来たのかウトウトしながらユリが小さく呟いた。その相手は誰のことを指しているのかは分からないまま、ユリは静かな寝息を立て始めた。
そしてその囁きを耳にしたミリーを始めとするメイド達は、何も言わなかったが複雑そうな面持ちで互いに視線をソッと交わしたのだった。
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「……太りましたか」
「ウォルターはレディに対する態度がなっていないのじゃ」
「…重くなりましたな」
「もっと駄目なのじゃ!」
ユリが意識を取り戻して大公家別邸に戻ってから数日後、入れ替るように隠されていた第一王女アナカナが密かに王城の敷地内の研究施設に戻った。
未知の毒に触れてしまった為に完全解毒が確定するまで研究施設で長らく療養していた、と表向きは伝えられていたアナカナは、その解毒を終えて約二ヶ月ぶりの帰城となったのだ。しかし実のところ大公家別邸で、なかなか普段は手に入らないミズホ国のメニューなどを存分に堪能していた。そのせいですっかり太ってしまったのだった。もともと年齢の割に華奢な体型だったので、太ったと言ってもあくまでも標準的幼児体型になっただけで健康面での問題はない。
あまり大仰にしないようにと厳命を受けながらも、やはり王族の迎えなので近衛騎士団長ウォルターが直々に研究施設の前まで訪れていた。そしてウォルターはアナカナを一目見るなりそう呟いて、更に抱き上げて追撃をしてしまいアナカナに頭をペシペシと叩かれていた。
「ご家族が殿下をお待ちですよ」
「……そうか。心配を掛けたな」
「殿下が一番お元気そうですが」
「うっ…そ、それは、食べ物が、のう?」
「解毒の為に体重を増やす必要があったと伺っておりますが」
「そ、そうじゃ!だからいつもより多めの食事をな!」
「…くくっ」
抱き上げた状態なので、アナカナの顔が長身のウォルターよりも少し上の方にある。以前よりふっくらとしたアナカナの艶やかな頬が視界の端でプルプルしているのがあまりにも愛らしいので、ウォルターはつい揶揄って百面相をさせたくなってしまった。しかしうっかり堪え切れずに笑い声を漏らしてしまったので、アナカナは顔を真っ赤にして更に激しくウォルターの頭を叩き出した。本気で力を入れている訳ではないので仔猫がじゃれているよりも痛くない。周囲の近衛騎士達は団長にハラハラしながら付き従っているが、生まれた時からずっと側でアナカナを見ていたウォルターからすれば、単なる甘え行動に過ぎないのは理解していた。アナカナも、ウォルターが本気で嫌がるところまでは絶対越えて来ないのを分かっていてこの態度なのだ。
アナカナはウォルターに抱きかかえられたまま自室に向かうと思っていたのだが、王族の私的な集まりなどに使用される部屋の前に連れて来られて目を丸くしていた。
「謁見は後日ではないのか?」
「皆様、すぐにでもお顔を拝見したいと仰せで」
「…そうかの」
ウォルターは膝を付いて丁重にアナカナを床に下ろす。フカフカの絨毯が敷かれた床に思わず足を取られそうになったが、アナカナはどうにかその場に留まる。それを確認してから重厚な扉の前で哨戒中の近衛騎士が声を掛けると、中から中年の侍従が出て来てゆっくりと扉を開けた。
アナカナは姿勢を正して、ゆっくりと入室した。その後ろにウォルターと近衛騎士達が続く。
部屋の中に入って、アナカナは思わず目を見張って半ば口が開いてしまった。が、慌てて我に返り口元を引き結んで、所定の場所まで歩いて行く。
アナカナが驚いたのは、部屋の奥に祖父の国王と祖母の側妃、そしてまさかいるとは思っていなかった両親の王太子夫妻が待っていたからだった。
祖父母はごく一般的な王侯貴族の距離感で孫であるアナカナを可愛がっていたので、こうした私的な空間で出迎えてくれるのはこの二人だと思っていたのだ。もしこれが公式な謁見の間であれば両親も来るだろうくらいは予想しただろうが、ここにいるとは思ってもいなかった程にアナカナと両親の関係は稀薄だったのだ。
「王国の輝ける太陽…」
「ここでは堅苦しい挨拶はよいとしておるだろう」
「…はい」
アナカナが祖父とはいえ国王に向かって口上を述べかけたのを遮られた。謁見の間などの公的な場では身内とは言え国王には最上の礼を尽くさねばならないが、こうした私的の場では身内として省略しても構わないという不文律がある。しかしアナカナは自分が迷惑を掛けたことは重々承知していたので、正式な口上から詫びの言葉を続けるつもりだったのだが、遮られてしまったことでたちまち居心地が悪そうに俯いてしまった。どうしていいか分からずに、アナカナはドレスを思わず握り締める。
不意に衣擦れの音がしたので顔を上げると、臙脂色の布が視界一杯に広がった。
「アナ!無事で…良く無事に戻りました…!」
「は、はうえ…?」
気が付くと、アナカナは母の王太子妃に抱きしめられていた。香水とは違うほのかな甘い香りと柔らかな胸に包まれて、アナカナは面食らったように目を丸くした。こんなふうに母親から触れられたのはそれこそ一年以上ぶりだったので、アナカナはどうしたらいいか分からずに小さな手が戸惑ったように空を彷徨った。
「も、申し訳、ございません…ご心配を、お掛け、しまっ…」
抱きしめられた状態なので母の顔は見えなかったが、その細い肩が小刻みに震えていた。そして背中の方ですすり上げる音がして、アナカナは母が泣きながら自分を抱きしめていることに遅ればせながら気付いた。前世の記憶があると言っても今世はまだ五歳の子供だ。それに釣られて込み上げて来る感情を抑えられず、アナカナの紫の瞳からポロポロと涙が零れ落ちた。
母の肩越しに見ると、祖母も涙ぐんでいて目元をハンカチで拭っている。祖父も心なしかいつもよりも目尻を下げているように思えた。王族は幼い頃から感情を表に出さないように教育されているが、家族の前だけではそのタカが多少は緩む。平民などから見れば神にも等しいような遙か上の身分だが、王族とて人間であるのは変わりがない。
しかし分からないように目を動かさないようにして視界の中に入れた父の王太子ラザフォードだけは、公的な場と全く同じであろう薄い笑みを湛えていただけだった。