439.眠り姫と食い意地姫
病室は人数の割に静かだった。
ベッドの周囲を囲む女性ばかりの治癒士や医師に、背後で記録を取っている担当も女性だった。皆息を詰めるようにしてベッドに横たわるユリを見つめていた。その微かな呼吸音も聞き逃さぬように集中しているため、記録担当者もペンの音を立てないように筆圧を可能な限り軽くしていた。いつもよりもかなり文字がのたうち回っているが、ギリギリでも読めさえすれば後で清書すればいいだけだ。
「ユリちゃん」
彼女の耳元で副院長の医師セイナが低く囁く。しかしユリは全くの無反応だった。ただ呼吸は規則的に続いている。
数十回に渡る解毒薬の投与と数人がかりでの治癒魔法を同時に行うことで、ユリの全身を蝕んでいた毒素の排出はほぼ終わっていた。そして本日はようやく時魔法で極端に遅くしていたユリの体内時間を通常に戻す処置が行われた。
数値上は命に関わるレベルの毒素は完全に除去されているが、まだ体内に残っていたり、神経系統に後遺症が出ている可能性もある。これはユリ自身から自覚症状を聞いて対処するしかない。
「ユリちゃん、聞こえる?」
少し間を置いてセイナが再び声を掛けると、今度は僅かにユリの瞼が震えた。そしてゆっくりと薄くユリの目が開く。深い湖水のような青い瞳は濁りなく澄んでいるのを確認して、セイナは小声で記録担当に知らせる。
「ユリちゃん、分かる?分かるなら一度、瞬き出来る?」
ぼんやりと瞳が揺らめいて視点が定まらなかったが、すぐに覗き込んでいるセイナに目を向けたようだった。きちんとセイナを認識しているのか分からなかったが、ほんの少しだけすっかり乾いてしまっている唇が動いた。何か言おうとしているのかもしれないが、いくら体内時間を遅くしているといっても完全に停止させている訳ではない。実際はひと月半以上経っているが、ユリの体感時間は数日間の経過と言ったところだろう。それでも点滴のみで生きていたのだから、すぐに体も動かない。
セイナの言葉に、ユリはしばらく考えているような気配があって、それからゆっくりと一度しっかり瞬きをした。
「じゃあ『はい』なら一度、『いいえ』なら二度の瞬きで答えるのは出来そう?」
今度は比較的反応も早く、ユリは一度瞬きをする。
「体に痛みは?」
瞬き二度。
「喋るのは出来そう?」
ユリは小さく口をハクハクと動かしたが、息が漏れるだけで声にはなっていなかった。
「お水は摂れそう?」
瞬き一度。
それを受けて、周囲の治癒士がすぐに濡らした脱脂綿をユリの唇に当てて、湿らせるように少しだけ水を含ませる。唇の隙間から、白く乾いた舌の上に水分が染み渡るのが確認出来た。そのおかげか、先程よりも口の動きが滑らかになったようだった。
セイナを中心に鑑定魔法でユリの様子を見つつ、全身に異常はないか確認する。その間にこまめにユリにも何かないか聞きながら、当人の求めるままに僅かずつ水を口に含ませて行った。本当はもっと勢いよく飲みたいところだろうが、さすがに体に負担が掛かり過ぎるので出来ないことはユリも分かっているようだった。
「…おばさま」
「声が出るようになったね。でも無理をしちゃ駄目だからね」
ユリは一度瞬きをしてから、再び口を動かした。今度は殆ど掠れて声になっていなかったが、その唇は確実に「おじい様は」と動いた。
「御前はユリちゃんの解毒薬を入手する為に出掛けていたよ。でももうすぐ帰るからね」
一度瞬きをしたユリの顔は、ほんの少しだけ安堵したように緩んだ。本当ならばユリが目覚めるときはレンザも立ち合いたかっただろうが、薬草を採取に向かったクロヴァス領は遠い。しかも帰りは雪が更に積もって往きよりも時間が掛かる筈だ。すでにあちらを発ったという連絡は来ているが、まだ王都到着は先のことだろう。
ユリの体力を鑑みて短い検査も終わり、弱い睡眠粉を処方して眠るようにセイナが告げると、ユリは少し視線を彷徨わせて何が言いたげにしている。セイナがそれに気付いて、睡眠粉を出す手を一旦止めてユリに顔を覗き込んで口元に耳を近付ける。
「……レンさんは」
殆ど表情も動かせないユリだったが、小さくその名を呟いた瞬間まるで頬を染めたような顔になった。まだ血色も戻っていないので顔色は白いのだが、セイナの目には頬を紅潮させた可愛らしい乙女の顔をして映った。
「レンくんはね、ユリちゃんの解毒薬を手に入れる為に御前の手助けをして、随分頑張ってくれたそうだよ」
「そ、う…」
「もっと体力が回復したら、お見舞いに来てもらおうね」
ユリはよく見ないと分からない程度だったが僅かに口角を上げて、ゆっくりと一度瞬きをした。
セイナは軽くユリの額を撫でると、睡眠粉を投与した。ごく弱い効き目だがユリにはすぐに効いて、目を閉じると規則的な呼吸音が聞こえて来た。
「今のところ後遺症は観測されないが、まだ容態が安定した訳じゃない。油断せずに経過を見守るように」
「「「はい」」」
ユリが深い眠りについたことを確認してからセイナはベッドから離れて、いつも以上に厳しい表情で周囲の者達に小声でそう命じた。その声は小さいながらも、周囲にいた人間全員が思わず姿勢を正してしまうほどの力を感じさせた。
それからシフトで当たっている三名に後を託して、セイナは白衣の裾を靡かせるような速度でユリの病室を後にしたのだった。
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「そ、それと…い、いや、本日は一個にしておくのじゃ」
「えぇ〜?今日のマロングラッセは最高傑作だと料理長が言ってましたけど。本当によろしいのですか?」
「う…ぐぬぬ…や、やっぱり一個じゃ!」
「ではこちらのマロンは」
「ううう…お主、底意地が悪い」
「あとで恨まれたくはございませんから〜。食べ物の恨みは怖いですから〜」
アナカナはすっかり涼しくなって秋薔薇が満開になった庭園で、そこにはそぐわない険しい顔をして並べられたスイーツを眺めていた。彼女の前には、プチタルトが何種類も並んでいて、秋薔薇に負けずに華やかな輝きを放っている。シロップで煮込んだ艶のある栗やカリン、トロリとした甘い芳香の無花果や宝石にも負けない艶めきのザクロなどが飾られて、どれも見た目だけで美味しさを保証されているようだった。
アナカナの側には、ユリの侍女兼護衛を務めていたサティが仮の専属侍女として付いていた。いざという時はユリの影武者を務める役目も持っているサティは、それなりに年齢は行っているが小柄で子供っぽく見える。性格もあまり侍女らしくない明け透けで思ったことをすぐに口に出すタイプなので、王女という身分を隠しているアナカナに容赦ない対応が出来ることを期待して傍に置かれたのだ。そしてその期待通り、サティはほどほどに丁寧でかなりぞんざいな態度でアナカナに接していた。他の人間ではやはり頭の片隅にアナカナが王女であると認識してしまうので、必要以上に丁重になってしまうのだ。
アナカナは、自ら好奇心で未知の毒に触れてしまった為に研究所で完全に解毒が出来るまで軟禁されている、ということになっている。しかしその実、彼女は安全の為にエイスの近くにある大公家別邸に密かに移されて、縁戚の令嬢「リョバル」として過ごしている。別邸から外には出られないので実質軟禁なのは変わりないが、屋敷内と外に面していない中庭は自由に行動できるので、行動範囲としては十分すぎるほどではあるのだ。
むしろ生家であるのに王城内では暗殺の危機もあるアナカナは、大公家ではそんな危機を感じることもなく自由闊達に過ごしていた。
しかしあまりにも伸び伸び過ごし過ぎて、アナカナはすっかり太ってしまったのだ。もともと儚い美幼女で標準よりも華奢だった体型が健康的な幼女になっただけなのだが、そもそも毒を受けて隔離されているとなっている立場としてはあまりよろしくない。
アナカナは日々鏡の前でモッチリして来た頬を摘んで「ちょっと浮腫んでるだけじゃ…」と誤摩化して来たが、さすがにもうそれでは済まされないレベルになって来た為に、本日からおやつを控える作戦に出たのだった。
「じゃあ私が貰っちゃいますね〜」
「ああっ」
「もう〜素直になりましょうよ、リョバル様〜。料理長が泣いちゃいますよ」
「ぐぬ…し、仕方ない!料理長の顔で泣かれると暑苦しいのじゃ!料理長の為じゃ!」
栗とチョコレートのタルトを摘んで口に入れようとしたサティの魔の手からタルトを防御すると、アナカナは急いで一口で口の中に放り込んだ。最初は仕方ないと言わんばかりに眉間に皺を寄せていたが、モグモグと口を動かす度に目がキラキラして自然に口角が上がって行く。最終的には両手でモチモチの頬を抑えて、行儀悪く小さな足をパタパタさせていた。もうその頬がツヤツヤと紅潮している。
「次は何をお取りしますか?無花果にします?」
「うむ。それを頼むのじゃ」
「おや、これで三個目ですが」
「うぐぐぐぐ…良いのじゃ!もう作ってしまったものは元には戻せぬのじゃ!控えるのは明日からにする!」
「はぁ〜い、畏まりましたぁ」
「ぐっ…いちいちフケイなのじゃ」
色々と文句は言いつつ、そうやってからかって来るような友人や親戚も近くにいなかったアナカナはどこか楽しそうだった。
ここに来た当初は、自分が仕掛けられた毒を代わりにユリが受けてしまったことから、大公家の世話になってその使用人に囲まれていることに恐縮していたアナカナだったが、メイド長の厳しくも愛もありそして厳しい忠告と、主従の境がどこか緩いサティのおかげですっかり肩の力が抜けていた。
大公家別邸の使用人達は、主人であるユリのことをそれはもう大切に思っていた。それなのに王女を狙った毒のせいで生死の境を彷徨う羽目になった。まだ幼い王女がわざとした訳ではないのは誰もが分かっていたが、それでも彼らの胸中は複雑だった。だからアナカナに対しては態度に出すような愚かなことはしないが、やはり気持ちとして遠巻きにしていた。
けれど噂に聞いていた変わり者の天才王女は、想像以上に繊細で周囲に気を配るタイプだった。同じくらいの年頃の子供ならば、世界が自分の為に回っていると思ってもおかしくないくらいだ。しかし天才故に早熟な王女は、年頃の子供どころか老獪な大人のように周囲の空気を読んで振る舞った。自分が悪いと思えば躊躇わず頭を下げて謝罪を口にする王女に、別邸の使用人達はユリのことは不幸な事故として、アナカナとは切り離して考えることに着地していた。
「お茶のお代わりは如何ですか?」
「頂こう」
「完食しましたね〜」
「そ、それはサティが勧めるから!」
「私は言われるままにお皿に取り分けただけですぅ〜」
「やっぱりフケイじゃ!」
アナカナは顔を真っ赤にして眉を吊り上げているが、本気で言っている訳ではない。これは一種の甘えであり、言われるサティもそれは分かっている。そしてそれはアナカナ自身も分かっていた。
「明日はプリンを作るように料理長に伝えるのじゃ!」
「明日は控えるのではないのですか?」
「控えるぞ!控えた上でのプリンじゃ」
「はいは〜い」
アナカナの屁理屈にサティは半目になって、感情の籠らない声で適当さを一切隠すことなく答えた。それを受けてアナカナは再び「フケイ」を出して文句を言っていたが、その様子を少し離れたところで控えている使用人達は無表情を貫きながらも微笑ましい気持ちで見守っていたのだった。