436.【過去編】レンドルフの生還
まだ怪我の表現が続きます。ご注意ください。
ディルダートは、魔獣討伐の経験は幾百、それどころか幾千も重ねて来た。しかしそんなディルダートでも、目の前の有り得ない光景にはすぐには動くことは出来なかった。
それは僅かな不運が重なっただけだろう。そこまで危険度の高くない銀糸狐でも十分に注意していたつもりだった。だからこそ微かな違和感に気付いて声を上げられたのだ。だが、そこには初討伐のレンドルフがいた。同行しているベテラン達ならば、ディルダートの声に反射的に構えることが出来た。レンドルフとて反応は悪くなかったが、やはり圧倒的な経験値の不足が一瞬の明暗を分けた。
次の瞬間に何故か銀糸狐の体が揺らめいて二重に見えたかと思うと、気が付けば五頭に分裂していた。そしてその中の一頭がレンドルフに一撃を喰らわせたのだった。幸いにも防具に守られて体に傷は負わなかったようだったが、魔獣からすれば群れの中で最も小さく弱い個体だと認識された。
更に初めて見る現象だったが、ディルダート達が銀糸狐だと思っていた魔獣が、目の前で魔狼に変貌するのを確認した。
魔狼は魔獣の中でも討伐難易度が高く、討伐部隊の中に経験の浅い者が一人でもいたならば迷わず撤退を選択するような相手だ。大きさも一メートル程度から三メートルくらいになり、非常に高い知能を有している。若く小さな個体は単体ならばそこまでの脅威はないが、群れで行動して群れのリーダーの命令は絶対なのだ。だから優秀なリーダーを冠している群れの攻撃には恐ろしく隙がなく、魔狼の討伐は最初から精鋭部隊を編制して臨まなければ人間側の全滅もあり得るのだ。それにリーダーになるほどの個体は総じて能力が高く、変異種として属性魔法を使用することもある。そうなると犠牲を覚悟で消耗戦になることもある。
そんな魔狼であるが、こんな風に違う魔獣の姿に化けるのも、数を少なく見せる能力を見るのも初めてだった。おそらく幻覚魔法を使う上位の変異種だったのだろうが、惑わせるような声まで聞こえた。ディルダートは魔獣の使う魔法に対する耐性がある程度ついているが、レンドルフはその声と実際の声との区別が付かなかったのか、明らかに一人で誰もいない方向へと誘い出されるように踏み出していた。
ディルダートはそれを止めようとしたのだが、一瞬早く魔狼がレンドルフの肩口に噛み付いていた。強靭な魔狼の前には、肉の薄いレンドルフの体はひとたまりもなかった。一瞬にして吹き出す赤い血と、牙が骨まで達したのか有り得ない方向に腕が捻じ曲がる。
「レンドルフ!!」
ディルダートは喉も裂けんばかりに息子の名を呼んだ。最大まで身体強化を掛けて追いすがろうと手を伸ばしたが、その手が届く寸前で魔狼はレンドルフを銜えたまま身を翻して逃れる。刹那にディルダートの脳裏に焼き付いたレンドルフの目は、ポッカリと何の色もなく空虚に見開かれたままで、そこには何の感情も浮かんでなかった。それは痛みも衝撃も感じていないようで、既に思考が遮断されるほどの致命傷を受けていたことに他ならない。
それでも必死に後を追ってディルダートが地面を蹴ると、魔狼はレンドルフを振り回すように木々の間をジグザグに駆け抜ける。魔法で攻撃しようにも、レンドルフに当てずに仕留めることは出来そうになかった。
「レンドルフーーー!!」
容赦なく振り回されているレンドルフの体には力がなく、まるで人形が引きずられているかのように思えてしまう。魔狼は人一人を銜えていることを感じさせないほどに、血の跡を地面にまき散らしながらジリジリとディルダートから離れて行く。そして魔狼は必死な形相で追いかけるディルダートを嘲笑うかのように、急旋回をして小さな崖のようになっている場所に向かって飛び降りた。
その姿を見て、さすがにディルダートの喉がヒュッと引きつるような音を立てた。本当ならば最後まで諦めずにそのままレンドルフを追って飛び降りなければならないと思うのだが、心のどこかでもう助からないと囁いている冷静な自分もいた。その迷いが僅かに走る足を鈍らせて、そのディルダートの脇を追い抜くように四頭の魔狼が次々と崖下に飛び降りて行った。
ディルダートが再び叫ぼうとした瞬間、崖下から巨大な火柱が上がった。
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火柱が治まると同時にディルダートが飛び降りるような勢いで崖を下りると、周囲は熱せられた空気に包まれていて、息をするだけで肺が軋むような感覚だった。周囲は下草どころか木々も殆どが炭化していて、プスプスと音を立てて煙を上げている。土もすっかり燃えていて、他の場所に比べて焦げた色になっていた。
「レンドルフ!」
その燃えた中心に、半分以上煤が付いて真っ黒になっているレンドルフの小さな体が投げ出されるように倒れていた。そしてその周辺には真っ黒な炭になった塊が五つ転がっていた。
ディルダートが駆け寄って手を伸ばしかけたが、レンドルフの体は煤だけではなくて酷い火傷を負って、両腕は辛うじて形を保ってはいるがほぼ炭化していた為に触れることは出来なかった。ディルダートは全身から血の気が引いて体の底から震えが沸き上がって来たが、それを必死に抑えて手袋を外すとレンドルフの口元に手を翳す。同時に耳を澄ませると、今にも消え入りそうにか細い空気の流れる音がしていた。
「レンドルフ…!今、薬を!回復薬を!」
まだ生きていると分かると、ディルダートは震える手で腰のポーチから上級の回復薬の瓶を取り出す。今のレンドルフに必要なのは特級の回復薬だと分かっているが、領主城に保管してあるので手元にはない。それでも上級を飲むことが出来れば、領主城に戻るまでに命を繋ぎ止められる可能性は高い。
「レンドルフ!飲むんだ!飲んでくれ!」
「ち、ちうえ…」
側で叫んでいるおかげか、レンドルフの意識が微かに戻る。ほぼ声にならない息遣いだけのような状態だったが、僅かにゼロゼロとした雑音の中に言葉が混じる。母親似の美しい顔の半分も赤く焼け爛れて腫れ上がり、優しい色合いのヘーゼルの目も片方が白く濁ってしまっている。こんな重傷でも、生きてさえいれば治療出来るのだ。ディルダートは必死にレンドルフの口に回復薬を注いだが、意識はあっても飲み込む力は残っていないのか、流し込む端から溢れてしまう。火傷のせいで食道も腫れてしまっているのかもしれない。
「僕、も…」
「レンドルフ、喋るな!頼むから…飲んでくれ…!」
「クロヴァ…の、一員、なれました…か…」
「逝くな、レンドルフ!まだ…お前は逝ってはいけない!」
いよいよレンドルフの呼吸の気道も動かなくなって来たのか、更に漏れる息が細くなる。ディルダートはボロボロと目から大粒の涙を零しながら、熱で枯れてしまった声で絶叫する。しかしもうレンドルフの耳には届いていないのか、もう片方の目も力無く光が消えつつある。
せめて飲めないのなら、と希望を託してディルダートは瓶に残った回復薬をレンドルフの顔に注いだ。回復をしていれば復元の為に水蒸気にも似た煙が出るが、やはり内服をしていないので陽炎のように薄い揺らぎが立ち上るだけで回復の兆しはない。火傷も酷いものだが、おそらく内蔵の損傷も相当なのだろう。これでは消えつつある生命を繋ぎ止めることは出来ない。
ディルダートはもう一本ポーチから回復薬を取り出して封を切ると、一切の躊躇いなく自分の口に含んだ。
ようやく追いついた騎士達が崖を下りて来ていたが、ディルダートのしようとしていることを察して「先代様!?」と悲鳴のような声を上げた。しかし止められるよりも早く、ディルダートは禁忌とされている回復薬の口移しを実行していた。
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「先代様も随分と無茶をなさいましたが、それが坊ちゃんを救ったことも事実です」
「そう、ですか…。先生、ありがとうございます」
「それから、先代様がお話し出来るようになりましたら、坊ちゃんの話を聞き出す許可を」
「分かりました。どうぞ、よろしくお願いします」
長くクロヴァス家の専属医師を務めてくれていた老医師が部屋から出て来ると、廊下で立ったまま待っていたアトリーシャに静かに声を掛けた。普段はどんなことがあっても動じずに顔に出さないアトリーシャにしては珍しく顔色を無くし、目の下のクマも化粧で隠そうともしていなかった。ここ数時間で彼女はすっかり窶れたようにも見えた。
レンドルフの初討伐を心配げに待っていた家族は、意識のないままのレンドルフとディルダートが担がれて戻って来た為、一時期は騒然となった。
レンドルフは骨折や重度の火傷で油断のならない状態ではあったが、時間を掛ければ治癒魔法と回復薬で完全に治すことは出来るだろうと診断された。それよりも重体だったのはディルダートで、外傷はないのだが全身がかなり衰弱していて、こればかりは回復薬や魔法などではどうにもならない。その為、一時は命の危機もあった。しかし元の生命力が常人よりもはるかに強かったことが幸いして、どうにか彼も一命を取り留めた。
回復薬の口移しは、回復薬が過剰反応を起こして弱っている側に大量の生命力を流し込んでしまう為に禁忌とされている。たとえば軽傷の相手に通常の回復薬を健康な人間が口移しで飲ませた場合であっても必要以上に生命力を削られて、健康な側が数ヶ月床についたまま起き上がることも困難な状態になってしまうのだ。だから相手の傷が深ければ、そして回復薬の等級が高ければより危険になる。ディルダートが使用したのは上級だったので、最悪全ての生命力が流れ出てしまう可能性もあった。
ディルダートの行為は、それこそ命を落としてもおかしくなかった。しかし彼は息子の為に全てを知っていながら躊躇いなく行動したのだ。そして今回のケースは、通常よりも極めて高い生命力を持つディルダートだったのと体の小さなレンドルフだったことが幸いした。ディルダートも辛うじて生命力が体に残り、更に彼の生命力が大量にレンドルフの中に流れ込んだ為に、もう後は息を引き取るのを待つだけになっていたレンドルフを持ち直させたのだった。それはもはや奇跡に近いことだった。
レンドルフの身に何があったのかは、その場に居合わせた騎士達に話を聞き取ってはいるが、最も近くにいたディルダートでなければ分からないことも多い。それにどこまで覚えているか分からないが、レンドルフからも事情を聞く必要がある。
今の状況では、レンドルフに瀕死の重傷を負わせた最大の原因が父ディルダートなのではないかと思われていた。魔狼に連れ去られた息子を助けようとするあまり、制御を誤って上位の攻撃魔法を撃ち込んでしまったのではないかと疑われているのだ。あの場では、火魔法を扱う者は他にもいたが、天に達するような巨大な火柱を上げる特大の魔法が扱えるのはディルダートだけだ。他の者を引き離して全力疾走していたディルダートの周囲には着いて来られる騎士がいなかった。必死に後を追う彼らの目には、遙か前方で巨大な火柱が立つのが見えただけだったのだ。
ディルダートがレンドルフを傷付けようとしてやったことではないと誰もが思っている。しかし彼が息子を焼き殺しかけたというのは状況からそう判断された。その為、当事者二人から事情を聞かねばならない。
まだ二人とも意識が戻っていないので事情聴取は行われていないが、レンドルフについてはあまり感情を刺激しないように両親の許可を得て体に影響の殆どない自白剤と幻覚剤を併用して話を聞く予定になっている。これはレンドルフがまだ幼いということで、正しい状況説明が出来るか分からないということと、受け取り方によっては父に焼き殺されかけたと感じてもおかしくない状況だったことから、思い出させるのは慎重にならざるを得ないからだ。たとえそこに誤解はあったとしても、その時の感情はどうしようもないのだ。もしそのせいでレンドルフの今後に多大な影響が見られそうな場合は、専門医立ち会いのもとその記憶を曖昧にさせたり、軽い暗示を掛けて別の印象を強めて誤摩化したりする手筈になっている。
「奥様、今回は皆助かったのです。ですから、これからのことは些末に過ぎませんよ」
「そう…ですね、先生。クロヴァス領は、『生きていることが正しい』のでしたわね」
「その通りでございます。お二人とも、もう命に別状はございません。あとは静かに回復を待ちましょう」
「ええ…ありがとうございます、先生」
ようやく少し笑みを見せたアトリーシャに、老医師は軽く背を叩くようにしてきちんと部屋で休むように伝えたのだった。
お読みいただきありがとうございます!
回復薬の口移しのエピソードは「158.レンドルフの黒歴史」で語られています。