41.【過去編】地下牢内の男
話のキリの都合で短めです。
地下の牢の一番奥で、微かに壁に点されたランプの明かりからも避けるように一人の男が蹲っていた。暗く澱んだ影の中に、彼の白い肌が微かに判別出来る。
「こちらでございます」
場違いなまでの男の猫撫で声が響いて来て、彼は僅かに身じろぎをした。その拍子に、彼の手足を拘束している鎖がジャラリと重い音を立てた。幾つかの靴音が牢の中に反響して、その中の固いヒールの音がやけに耳障りに響いた。
牢の前に数人の人影が立ったが、彼は顔を上げずにただ背を丸めたままの姿勢でいた。
「…暗いわね」
「申し訳ございません。おい!さっさと明かりを足せ!」
更に場違いな妙齢の女性の声が聞こえて来て、彼は思わずその身を固くした。敏感な彼の嗅覚はこの牢内に足を踏み入れた瞬間から女の香水を捉えていたが、その刺すような強い香りに皮膚が粟立つのを感じていた。そして更に強く自分の膝を抱え込んで防御の姿勢を取る。しかし、彼の身を守るものは声の主との間を隔てている金属の格子と、自分自身だけだった。
ランプの明かりが足されて牢の中は明るくなったが、彼は頑なに一番離れた壁に体を貼り付けるようにして蹲ったままだった。
「よく見えなくてよ」
「はっ、ただいま。おい!」
女の声が不機嫌そうになると、急に強く手を引かれた。いつもならこの程度の力には対抗出来るのだが、手足を繋いでいる鎖にはそれを弱体化する力があるらしく、その鎖を引かれてあっさりと倒れ込んで引きずられた。手足をばたつかせて抵抗を試みたが、容赦なく床を引きずられて格子の前まで体を寄せられてしまった。その前に立つ女の香水の匂いはより一層強くなり、彼は吐き気を堪えて強く唇を噛んだ。
「あら、意外とまともな見た目なのね」
不意に何か固い物でグイ、と顎を持ち上げられた。どうやら彼女の手にした扇で上を向かされたようだ。そうして強引に上を向かされると、暗がりに慣れた目には掲げられているランプの明かりですら射るような鋭さだった。逆光でよく見えないが、女は仮面を付けていて、身に着けているドレスや宝飾品からして貴族なのは間違いなさそうだった。ただ、仮面の下から覗く女の鮮やかな紅を引かれた唇がやけに印象に残った。喋る度に三日月のように尖って裂けた形が蠢くのが化物じみていて、酷く恐ろしく感じた。その隣には背の高い禿頭の男が立っていて、彼を拘束している鎖の端を握っていた。
更にその後ろには卑屈な笑みを浮かべた中年の男が立っている。その中年には見覚えはなかったが、微かに残り香のように服に懐かしいような匂いが付いていた。しかしその匂いが何かを確認しようとしても、その手前の女の香水の匂いに全てかき消されてしまって僅かな記憶もプツリと途絶えてしまった。
「でも、抱きごこちは悪そうね」
突然頬を撫でられて、牢内で冷えきった体には手袋越しとは言え女の生暖かい手が気色悪く、考えるよりも早く本能が拒絶をした。そして次の瞬間にはパリパリと音を立てて自分の肌の上にひび割れたような感覚が走る。
「こいつ!」
額の辺りにガツリと衝撃を受けて、彼は後ろに倒れ込んだ。しかし、自分の体を覆う半透明な何かが体への直接的な攻撃から守ってくれた為、殆ど痛みは感じなかった。ゆるゆると緩慢な動きで起き上がると、鎖を握っていた背の高い男の方が、手にしていた剣を鞘から抜かずに格子の隙間から殴りつけていたのだと理解する。
この体を覆う殻のような物は、確かに自分の体から発生した物ではあり、打撃などの痛みから自分を守ってくれるが、ひどく動き難くなる。そしてこの殻が覆っている間は全ての感覚が遠くなるようで、全身が怠くて堪らない。一度発生してしまうと、いつこれが外れるのか、彼自身の意志で制御は出来なかった。
「聞いていた通りの化物ね」
「奥様…あまり危険な真似は…」
「気に入ったわ」
女は持っていた扇でパシリと手を鳴らした。
「元の顔はなかなか綺麗だし、それにこれだけ頑丈なら、当分長持ちしそうだわ」
「それでは…」
「ええ、これで手を打ってあげる」
「ありがとうございます」
女と主に会話をしているのは中年の男の方で、その男は女に向かって恭しく頭を下げた。その所作は間違いなく礼儀に則ってはいるのだが、その男のにじみ出る卑しさのせいか酷く下卑たものに見えた。
「お前がようやく竜の子を捕らえたと言うから来てやったのに、死なせてしまうなどどう責任を取らせようかと思っていたところよ」
「それは大変申し訳ありませんでした」
「ま、いいわ。思わぬ掘り出し物もあったしね。せっかくだし、もう何人か良さそうなのを見繕って頂戴」
「は…しかし先日…」
「アレらはもう飽きてしまったの」
「畏まりました」
そんな会話が遠ざかりながらも、静かな牢内ではハッキリと聞き取れた。
倒れ込んだ彼は、鎖と体を引きずるようにして再び元いた壁際に戻ると、そのまま床に転がる。固い石が敷き詰められた床に、彼を覆う殻がぶつかって、まるで金属のような音を立てた。