425.【過去編】海へ
レンドルフがエウリュ領に来て三ヶ月程が過ぎた。
相変わらず会う人には悪気なく「女の子のように可愛らしい」というようなことを言われるが、クロヴァス領にいた時ほど気が重くならなかった。それはエウリュ辺境伯の縁戚であっても直系ではなく、既に息女のカリュがいたことが大きかった為だろう。今のクロヴァス家の直系は全員が男であったので、末っ子につい女の子の期待を掛けていた空気感があった。レンドルフの顔を見て単純に感想を述べていたのかもしれないが、母親に似てしまったことで余計に微かに含まれる残念な空気をレンドルフは察してしまったのだ。
男子に生まれたのも母親に似たのも自分ではどうにもならないことだが、それでも自分が原因で大切な家族をガッカリさせてしまったのではないかと考え出すと、レンドルフは身の置き所がなくなるような気持ちになってしまっていた。
だからこそ、髪を伸ばしてドレスを着れば皆が喜んでくれるのではないかという思いに囚われていた。レンドルフは可愛いものを見るのは好きだが、ドレスを着たいかと言われるとそういう訳ではなかった。まだ幼いレンドルフは周囲のことを大切に思えば思う程、どうしていいか分からなくなっていた。
そんな不安定な時に令嬢達の心無い噂話を耳にしてしまった。ただのデマだと撥ね除けるには、レンドルフの心はまだ柔らかく純粋だった。家族に愛されているのは疑いはないが、そのとき負った内面の傷が無意識に距離を取ろうとしていた。それは特に父ディルダートに対して顕著だった。
子供のレンドルフにはどうしようもなく途方に暮れていたが、そこは周囲の大人達がしばらく違う場所で過ごして心の静養が出来るように取り計らってくれた。
そうやって国を出てやって来たエウリュ領で、レンドルフは少しずつではあるがかつて伸びやかさを取り戻しつつあった。
------------------------------------------------------------------------------------
「皆!明日は海に行くぞ!」
夕食の時に、満面の笑顔のバルザックが勢いよく言った。
「父上、俺は明日新しい剣が仕上がって来るので行けません」
「私も明日はちょっと…」
「そ、そうか…ではレンドルフは」
「大丈夫です。特に予定もありません」
「分かった!では明日はレンドルフと海だな!美味いものを沢山食べさせてやるからな」
「ザック、それならアオいアレをお土産にお願いします。出来たら近くのノロッとしたのと一緒に」
「アオカジメを根株ごとだな。分かった!」
いきなり言われても、貴族はそれなりに予定が詰まっている。カリュはそこまでの用事はないのだが、暑さに弱いので日差しの強い海辺に行くのは好まなかったのでやんわりと拒否をする。このエウリュ領では海は珍しくはないので、これは海を見たことがないレンドルフの為の提案なのだろう。レンドルフも一度海を見てみたかったのもあって、断る理由もなかった。
ミューズも当主なので簡単に動く訳には行かないので、海に行くのはバルザックとレンドルフの二人になった。勿論護衛も着くので二人きりという訳ではないが、可愛い弟との外出にバルザックはウキウキと手ずから翌日の準備をしていたのだった。
「レンドルフは泳げるか?」
「川で訓練を受けたので、少しなら」
「そうか。海は川とは全く違うから、油断しないようにな。明日は俺が海での泳ぎ方を教えてやろう」
「ありがとうございます」
そう言いながらバルザックは並んで荷物を詰めているレンドルフに、仕上がって来たばかりの水着を見せる。
「お、ちょうどいいな。レンドルフは水着も初めてだろう?」
レンドルフの体に当てるようにしてサイズを確認したバルザックは、柔らかな薄緑色をした生地の水着とレンドルフを眺めた。髪も瞳も優しい色合いをしたレンドルフには、派手な色よりも柔らかな色合いがよく似合っていた。
クロヴァス領で習うのは、川に落ちた時の為に対処できるようにと着衣泳法が大半だ。その為わざわざ水着などは作ることはないのだ。
「変わった生地ですね」
「水を吸っても重くならず、すぐに乾く付与がある生地だ。今の時期は毒クラゲもいないから、丈もこのくらいの方がいいかと思ってな」
初めて実物を目にしたレンドルフが興味深げに生地を摘んだり伸ばしたりしている。それなりに厚みのある生地だが、伸縮性があってツルリとした感触の不思議な手触りだった。形は水の抵抗を考慮してかシンプルなもので、上は丸首で半袖のシャツ、下は膝丈くらいのハーフパンツだった。体に合わせて作られているので、袖や裾は普通の服と違って細めになっている。
「明日が楽しみです。海の水は塩辛いのでしょう?」
「ああ。それに波もある。いくら気を付けて口を閉じていても、必ず飲む羽目になるぞ」
「…クロヴァス領の塩湖とどちらが塩辛いのでしょう」
「濃さで行けば塩湖だが、どちらも人の舌では塩辛い一択だな」
クロヴァス領にはかなりの塩分濃度の塩湖があり、人々の生活には欠かせない大切な資源の一つだ。レンドルフは一度父に連れて行ってもらったことがあり、その際に水を舐めて顔を盛大に顰めたことがある。その塩湖に初めて来た者は必ずやるお約束のようなものだ。それを思い出したのか、レンドルフは思わず眉根を寄せてしまい、それを見逃さなかったバルザックはカラカラと大笑いしていた。
------------------------------------------------------------------------------------
翌朝、雨が降りそうではないが空全体を雲が覆っていて、バルザックが最もガッカリしていた。夏のエウリュ領はほぼ晴れの日が続き、雨どころか曇りの日ですら数日だ。だからバルザックも天気のことは気にしていなかったので、まさか当日が曇りに当たるとは思いもよらなかったのだ。
「兄上、無理に行かなくても」
「いや…レンドルフに美味いものを食わせたくてもう色々頼んであるんだ…」
「それなら行きましょう。今の季節なら雨が降っても寒くないです」
「そ、そうか?そうだな!それにまた行けばいいんだしな!」
馬車に荷物を積み込んで乗り込む直前に、カリュがレンドルフに傘を手渡して来た。
「雨なら大丈夫だと思うよ」
「そうじゃなくて、日傘!父上のことだから積んでないと思って」
「ああ、そうだけど…この天気なら」
「駄目よ!レンドルフは海は初めてなんだから、曇りでも絶対ヒリヒリになるわ!経験者の言うことは聞きなさい!」
「分かった。ありがとう」
カリュのものなのか可愛らしいクリーム色でフリルの付いている日傘だったが、気遣いが嬉しくてレンドルフは素直に受け取った。
「何かお土産買って来るよ」
「楽しみにしてる」
見送りに出て来てくれたミューズとオルフェ達にも手を振ると、同じように手を振り返してくれた。レンドルフがいつもよりも大きめな声で「行ってきます!」と言うと当時に、馬車は軽快に海を目指して出発したのだった。
「兄上!すごいですね!これが海!!」
馬車で三時間程で領都から一番近い海岸に到着した。走る馬車の窓から海が見えるとバルザックに教えられて外を見たレンドルフは、珍しくはしゃいだ様子で声を上げた。窓を開けると、少し湿った風と磯の独特の香りが馬車の中に入り込んで来て、レンドルフの前髪を巻き上げた。
「晴れていたら一面真っ青で、海面がキラキラしてるんだがな」
残念ながら曇天の下の海は青灰色で、反射する光も鈍色だ。レンドルフに見せる初めての海は、バルザック自身が初めて遭遇した時のような真っ青な消失点と目が痛くなる程の輝きの衝撃を味合わせたかったのだが、どうにも不運な日を引き当ててしまった。
しかし、向かいで興奮気味にはしゃいでいるレンドルフの姿を見て、自分の態度で水を差してしまうのはよくないとすぐに気を取り直した。
「レンドルフ、海に着いたら泳ぐか?食うか?」
「泳ぎたいです!」
「おう!」
密かに両親からレンドルフの抱える鬱屈と傷を知らされていたバルザックは、目の前にいる無邪気に即答する可愛い弟にはその陰が見当たらなかったことにそっと安堵して、少々手荒くレンドルフの頭を撫で回したのだった。
レンドルフ達が向かったのは、貴族が入ることの出来る手入れされた浜辺だった。危険なものが落ちていたり漂着しないように、清掃人や護衛などが控えているエリアだ。他にも岩で隠れて他からの目を遮断するように王族が利用するエリアもある。そういった場所以外は誰でも出入りは自由だが、貴族と平民の間でトラブルを避ける為に貴族は決められたエリア以外は足を踏み入れないことが暗黙の了解となっている。
今日は天気が悪いので他に来ている者はいないかと思っていたが、離れたところにもう一組が先に来ていた。大掛かりなテントを設置してパラソルも幾つも立てられている。その他にも天幕を張って、護衛も含めて男性ばかりのレンドルフ達から完全に視界を遮っている。その物々しさから、お忍びの貴族、それも令嬢が含まれているのだろうとバルザックは認識する。
顔見知りならば声を掛けて来るかもしれないが、そんな気配はなさそうだった。かなり距離が開いているので、バルザックはこちらに何か言って来ることはないと思って気にしないことにした。相手にその気がなければ、下手に突つかない方がお互いの為だと分かっている。
それにバルザックもクロヴァス家の血を濃く引いた父親そっくりの熊男だ。レンドルフと違ってハーフパンツ型のみの水着姿なので、鍛え上げた分厚い胸筋に割れた腹筋、引き締まった脇腹と張り切れんばかりの太腿を惜しげもなく晒している。レンドルフはそんな兄を目をキラキラさせながら尊敬の眼差しで見つめているが、令嬢からすれば避けて視界に入れないようにしたい対象だろう。バルザックとしては、愛する妻と可愛い弟に褒められればそれでいいのだ。
クロヴァス領での水泳はどちらかと言うと訓練に近いので、ともすればかなり厳しい指導になる。万一命がかかった時に少しでも生存率を上げるための内容なので仕方がないだろう。けれどバルザックはそういった指導ではなく、ただ海で楽しく遊ぶ為のコツのようなものを教えるだけに留めていた。レンドルフはもともと川で泳ぐ為の訓練は受けていたし、今は留学と言う名のバカンスだ。滅多に会うことの出来ない弟に、楽しい思い出を沢山作りたかった。
バルザックが背中にレンドルフ乗せて泳いでいたのだが、掴まっているレンドルフの手が少々冷たくなって来たのに気付いた。まだ肉の薄い華奢なレンドルフには、今日の天候は少し冷えるのかもしれないとすぐに抱きかかえて砂浜に上がる。
「何か温かいものを持って来よう。少しここで休んでいるといい」
「ありがとうございます、兄上」
冷えているレンドルフの肩に白いケープを掛けて、荷物が置いてある岩の上に抱き上げた。そこには飲み物や軽食などが入っているバスケットもあるが、晴天を想定していたので冷たいものしか入っていない。少し離れた場所にカフェがあるので、そこで何かを調達して来るとバルザックが走って行った。護衛も数名いるのだが、バルザックは自分でレンドルフの世話を焼きたいらしく、どこに連れて行ってもらっても護衛よりも先に自分が動いてしまう。もうそのことに慣れているので、護衛達はレンドルフの傍から動かなかった。
レンドルフは出発時にカリュに言われた「ヒリヒリになる」を思い出して、荷物の中から日傘を取り出した。令嬢ではないレンドルフは日に焼けるのは気にならないがヒリヒリするのは避けたいので、素直に日傘を広げた。曇りとは言えやはり陽射しはあるので岩の上に薄い影が落ちる。しかし座っている岩がほんのりと温かいので肌寒さを感じることはなかった。
ぼんやりと海を眺めて波の音を聞いていると、レンドルフは少しだけ眠くなって来た。朝早くから出掛けたのもあるが、昨日は楽しみでなかなか眠れなかったのだ。
少し気分転換をしようと髪を括っていた紐を解いて、肩の下まで伸びた毛先を軽く絞る。まだ水分を含んでいた髪から雫が落ちて、岩の上に点々と染みを作った。
「あの…こんにちは!」
下を向いていたレンドルフの後ろから、不意に可愛らしい声が掛けられた。
お読みいただきありがとうございます!
バルザックと妻ミューズのなれそめは、先代辺境伯が奇天烈な一人娘を心配するあまり頭が寂しくなってしまったのをミューズが心配して毛生え薬の開発に燃えていた(むしろ逆効果)時に、全身フサフサのバルザックに出会ってその発毛力に惚れ込んで追いかけ回したのが切っ掛け。
彼女の希望で育毛記録を付けるうちにすっかり手入れが日常になって、今ではバルザックは髭やらその他毛全般キッチリお手入れ派に。ディルダートとダイスは人に見える程度を保つゆるお手入れ派。実はレンドルフが一番自然派です(笑)