423.【過去編】エウリュ辺境領へ
ダイスが新当主になって初めての年越しと年明けの式典を無事に終え、雪解けが進む頃にはすっかり当主らしい風格も板に付いて来た。
そして街道から雪が全てなくなった時期を待って、先代当主夫妻が別荘へと移り住んだ。
レンドルフは両親について住居を別荘へと移す予定だったが、予てより一度訪問を望んでいた次兄バルザックの元へ短期留学に行くことが決まっていたので、実際に引っ越しをするのは留学から戻ってからになった。
「何かあったらすぐに手紙を…いいえ、馬車を出してこちらにいらっしゃいね」
「ありがとうございます、母上。ですがわたくしは大丈夫です。皆様良くしてくださるのは母上が一番ご存知でしょう」
「ええ、そうね…でも貴方とこうして離れるのは初めてだから…わたくしが寂しいのよ」
「必ずお手紙を書きます」
「待っているわ」
馬車に乗り込む際、アトリーシャが名残惜しげにレンドルフを抱きしめていたが、ディルダートは少し困ったような顔で馬車の側に立っていただけだった。
新当主就任の一件以来、レンドルフは表面上はあまり変わらないようだったが、ふとした折りにディルダートと距離を置くようなことが増えていた。当人も無意識なのかもしれないが、ディルダートが手を伸ばしてレンドルフに触れようとすると、ビクリと身を竦めて後ろに下がってしまうのだ。それはよく親などから手を上げられて理不尽な暴力に触れている子供が取る行動に似ていた。
ディルダートはただ甘やかすだけの人間ではないので、何度か息子にも鉄拳制裁を行ったこともある。しかしそれは命に関わるような行動をした時や、他者を危険に晒した時であって、感情のみで手を上げることは決してなかった。そしてその後は何故そうされたのかを理解するまで懇々と言い聞かせて来た。
ディルダート自身がそうやって教育されて来たこともあり、辺境で生きる為には必要なことだと思っていた。他の息子や孫に比べてレンドルフは聞き分けが良く大人しい性格だったので、他の誰よりもそうやって拳骨を喰らった回数は少ない。
それでも怯えられてしまうということは、やはり自分の息子だからといって同じように考えてはいけないのだと痛感させられた。
アトリーシャに抱きしめられた肩越しにレンドルフがディルダートにチラリと目線を送ったが、すぐに目を伏せられてしまってディルダートは近寄ろうとした足を止めてしまった。本当はしばらく会えなくなる幼い息子を同じように抱きしめたかったが、もし嫌がられて留学先から帰って来なかったらと思うと、足が動かなくなってしまったのだ。魔獣には百戦錬磨で辺境最強と呼ばれるディルダートだが、愛する妻と同じ顔をした息子に嫌われるのは想像でも恐ろしかった。
先代当主夫妻を乗せた馬車が走り去って行くのを、レンドルフはいつまでも見送っていた。雪は街中になくなったがまだ肌寒く、すっかり体が冷えきって小さくくしゃみをするまで佇んでいた。それをずっと側に付いていたザルクが頃合いだとそっとが肩を抱えるようにして、領主城へ連れ戻したのだった。
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「レンドルフ、貴方に向かって『申し訳ありません』って呟いてたわ」
「そんなに怯えさせてしまっていたのか…」
「そうではありませんわ。旦那様の血を引いていないと暗に言われたことが未だに堪えているのでしょう」
「まだそんなことを…!くそっ、あの小娘が!!」
「落ち着いてくださいませ」
馬車が出発してしばらくしてからアトリーシャが溜息混じりに呟いたことに、ディルダートは頭を熊に一撃されたくらいの衝撃を受けた。ディルダートは妻を溺愛しているし、彼女も他の男は歯牙にもかけない相思相愛だと胸を張って言える。いくらレンドルフが自分に似ていないと言われても、自分の子でないとは毛の一筋も思っていなかった。生まれてずっと息子として接して来たにもかかわらず、見ず知らずの令嬢に言われたことを信じているのかと思うと泣きたくなるような気持ちだった。
「レンドルフも分かっていますわ。ただ、心に受けた傷はどうしようもないのでしょう」
「また、俺を父と慕ってくれるだろうか…」
「旦那様は何も悪くありませんわ。今は、時が解決してくれるのを待ちましょう。それに、バルザックのところに行けば顔や髪色などの相似は些末なことだと分かってくれるかもしれません」
「…そうだな。レンドルフが戻って来るのを待とう…」
「あちらで楽しんで来てくれるといいですわね」
「ああ」
レンドルフが行く予定の隣国のエウリュ辺境領には、バルザックの子供が二人いる。長男はバルザックに良く似た赤熊の血が色濃く出ているらしいが、長女は亡き祖母の先代エウリュ辺境伯夫人に似て両親とも違う顔立ちだと聞いている。レンドルフには姪にあたる彼女と会わせることも目的の一つだったのだ。
クロヴァス領には縁のない海に面した保養地がある。バルザックはまだ海を見たことがないレンドルフを絶対に連れて行くと張り切っていた。留学と言うよりはバカンスではあるが、ディルダートもアトリーシャも、あまり柵のない場所でレンドルフがもっと幼かった頃のように伸び伸びとした感覚を取り戻して欲しいと切に願うのだった。
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「坊ちゃん、もうすぐ領都に到着しますよ」
馬車に同乗していた護衛に声を掛けられて、少し微睡んでいたレンドルフはハッと体を起こした。
「窓を開けても大丈夫ですか?」
「はい、問題ありません」
淡い茶髪の中年の男性は、レンドルフが手を伸ばすよりも早く馬車の窓を開けてくれた。その開けた窓からフワリと見知らぬ香りが馬車の中に広がって、レンドルフは軽く目を閉じてスンスンと匂いを嗅ぐ。クロヴァス領よりも少し気温が高く、カラリとした埃に似た香りが鼻をくすぐった。
オベリス王国とガリヤネ国の境に広がる広大な森を挟むように隣接しているそれぞれの辺境領ではあるが、風などの影響なのか気候は随分と違う。どちらの辺境も冬が長く寒さの厳しい土地ではあるが、どちらかと言うとクロヴァス領の方が湿度が高く積雪量も倍近くある。しかしその分水が豊かであるので、農作物の生産量はクロヴァス領の方が上だ。対するエウリュ領は広く海に面している土地柄なせいか塩業と海産業が盛んで、農産物は自領ではあまり収穫はない。近年では塩に強い牧草を育てて牧畜にも力を入れていて、ガリヤネ国の食肉の二割程度はエウリュ領が賄っているそうだ。
レンドルフがクロヴァス領都から国境まで一日掛けて馬車で移動して、そこから迎えに来ていたエウリュ辺境伯の馬車に乗り換えて五日経っていた。最短で森を突っ切れば二日程度でエイリュ領の中心部に到着するのだが、まだ幼いレンドルフを乗せていることを気遣って、遠回りにはなるが街道が整備された宿場町を回って余裕を持った日程で進んでいた。
エウリュ辺境伯から派遣された護衛は特に腕の立つ騎士と世話係も兼ねてベテランの従者が付き添ってくれたので、途中数回魔獣に遭遇したが、レンドルフにはかすり傷一つなく旅程は順調そのものだった。
「領都に入るのは昼時ですので、個室の店を予約しております。急な予定が入らなければ、バルザック様がそこで昼食をご一緒に、と伝言を預かっております」
「ありがとうございます、ルルーシオさん」
従者としてレンドルフの世話役に随行しているルルーシオは、代々エウリュ辺境伯に仕えている文官の下位貴族だ。専属の騎士には敵わないが文官にしては剣の腕も立つことと、同じ年頃の子供がいるということでバルザックから直々に指名されていた。
辺境伯当主の義弟で、遅く生まれた彼を家族が溺愛していると聞いていたので、ルルーシオは我が儘な令息が来るのではないかと警戒していた。しかし実際のレンドルフは、思わず二度見してしまう程可愛らしく、令嬢の間違いではないかとうっかり念を押しそうになってしまうところだった。そして数日行動を共にしていれば、レンドルフは少々引っ込み思案で人見知りなところがあるが、優しく素直な性分であることはすぐに理解した。同行していた護衛騎士達もあっという間に絆されて、まるで姫君でももてなしているかのようにレンドルフには丁重に接していた。
ルルーシオも例外なく絆された一人ではあるが、そう思いつつ心の隅では「これはこれで末恐ろしいな」と冷静に判断を下していた。当人が狙っている様子はないが、あの愛らしい顔でお願いをされると何でも叶えてやりたくなるような庇護欲が生じる。しかも強く願うのではなく、出来るのであれば、と遠慮がちに言われるとより一層叶えてやりたくなるのだ。
これはまだ性別が未分化である子供時代特有のものかもしれないが、このまま成長して自覚を持てばそれこそ「傾国の」と二つ名を冠するかもしれない。
「予約している店は、肉料理も魚料理も評判のところですよ。坊ちゃんは魚がお好きなようですから、魚料理中心のメニューをお願いしましょうか」
「ええと…はい…」
「肉料理の気分でしたらそちらもお勧めですよ。ああそうだ、半量にしてもらって両方出してもらいましょう」
「あ、あの、ええと…」
評判の店と聞いてレンドルフは目を輝かせたが、魚料理と聞いて少しだけ頬を染めてモジモジと組んだ指を動かしている。これまでの旅程で立ち寄ったり宿で出してもらった食事では、レンドルフは初めて食べるという魚にご機嫌に舌鼓を打っていたのだ。ほぼ好き嫌いはないが、辛いものはあまり好きではないと予め聞いていたのでそれを避けてもらうくらいで、どこの店でも量こそ多くないが出されたものは完食していた。
「お魚は、まだ上手く食べられないので…」
「それでは、食べやすいように調理していただきましょう」
「ありがとうございます…」
食事を共にしたルルーシオからすれば、レンドルフのマナーは年の割に綺麗な所作を身に付けていると思えた。旅先なのでテーブルの高さやカトラリーが合わないこともあって、時折失敗してしまうこともあったが、大人でもそれくらいはすることもある程度だ。王侯貴族の晩餐でもなければ、貴族令息としては問題がないように見えた。
ただ、クロヴァス領は海がないので新鮮な魚は川魚に限られるし、保存の為に干したり塩漬けにして調理されることが殆どだ。その為に新鮮な海の魚は慣れていないらしく、骨などを選り分けたりする作業に通常よりも時間が掛かっていたのだ。
「兄上の前では、ちゃんとしたいです」
恥ずかしそうに小声で呟いたレンドルフに、兄の前では良いところを見せたいというささやかな矜持をルルーシオは感じ取って、思わず口角が上がってしまったのだった。