420.【過去編】悪気のない問題
アトリーシャは密かにレンドルフの周囲にいる者達、それこそ兄のダイスまで調べさせたが、特に問題があるようには思えなかった。皆レンドルフを可愛がっていて、強いて言うなら少々過保護すぎるくらいだろう。一時期は同い年のダイスの三男がむくれてレンドルフにキツく当たっていたこともあったが、しばらくすると守るべき弟分と考えを切り替えたのか今では誰よりも構うようになっていた。
しかし思わぬところから知らされた情報に、アトリーシャは頭を抱えたのだった。それは隣国に婿入りした次男バルザックからの手紙だった。
彼はレンドルフが三歳になった時に国境を越えて歳の離れた末弟に会いに来た。生まれてすぐに甥と弟に祝いの品を贈ってはいたが、やはり高位貴族が国交のない国を越えるというのはなかなか難しく、それくらいの年月がかかってしまったのだ。
そこでもうバルザックはレンドルフに落ちた。陥落というか墜落と言った方が合っているのではないかと思われる程に、愛くるしい弟に我を忘れた。勿論初対面の甥も可愛がっていたが、レンドルフに対しては周囲が引く程にメロメロになっていたのだ。側に付いていた乳母などは、レンドルフに万一のことがないように常に痺れ薬を塗った吹き矢を常備していたくらいだった。
そして隣国に帰る時はレンドルフを連れて帰りたいと冗談めかして呟いただけで、騎士団が出て来てレンドルフを囲んだという伝説まで残した。当時の団長曰く「目が本気だった」そうだが、真相は定かではない。
そんなバルザックは、レンドルフと手紙のやり取りを定期的にしていた。その中で、レンドルフの手紙に「僕も女の子に生まれればよかった」と書かれていたことが気になって、アトリーシャに密かに連絡をして来たのだった。
レンドルフがそう書いた経緯としては。バルザックのところに長女が生まれて、自分の係累の中では初めての女の子だと書いたところ、そんな返事が書かれていたということだった。そこで「生まれたかった」ではなく「生まれればよかった」と書いたところに違和感があったらしく、バルザックからの問いかけの手紙は「父上がレンドルフに『女の子が欲しかった』などと言っていないでしょうね?」と強めの語気が伝わるような内容だった。
アトリーシャは慌てて調べさせた内容を再度精査したところ、レンドルフの周辺では実に悪気なく「女の子を期待していた」という旨に繋がるような言葉を口にする者が多く、更に「令嬢なら王家にも望まれるような美貌」と惜しむような声もあった。そしてアトリーシャの想定よりも周囲の機微に敏かったレンドルフは、言外に「男の自分は望まれていない」と誤解してしまっていたことを知ったのだった。
調査した中で、殆どの者は悪気があって言ったのではないのは分かった。それこそ母親似の愛らしいレンドルフを褒める過程で、何の気無しに口にしたようなものばかりだった。それに繰り返す訳ではなく、その場限りで一度だけ、という者も多い。しかし彼らは一度だけでも言われたレンドルフは幾度となく浴びて来て、そして従来の察しの良さで相手にも悪気がないのを分かっていたからこそ拒否することも出来ず、当人も気付かないうちに少しずつ心が削られてすっかり自己評価が低くなっていたのだった。
更にそれを加速させたのが、同じ年頃のダイスの息子達に比べて小さな体格のレンドルフは何をやっても敵わないということが常になってしまっていたこともあっただろう。
レンドルフの評価は、聞き分けのよい優しい性格の子だという者が殆どだが、裏を返せば自分の主張を遠慮して言わない子だということが浮かび上がった。それは当人の性格もあるのだろうが、それでも周囲との齟齬が招いたことでもあった。
それが「女の子に生まれればよかった」であり、令嬢の乗馬スタイルの横乗り用の鞍であり、一人称が「わたくし」に変化していたことに繋がっていたのだった。
アトリーシャとしては、当人が望むのであればドレスを着用しようが、横乗りの乗馬スタイルだろうが構わないと考えている。むしろそれで揶揄する者がいれば全力で対抗する。しかし今のレンドルフは望みの中心が自分ではなく他者を据えてしまっている。誰かの為に行動することは美徳ではあるが、その望みは正しいこととは思えなかった。
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「すまん、俺の影響もあっただろう」
アトリーシャはその日のうちにディルダートに纏め直した報告書とバルザックからの手紙を見せて、レンドルフへの今後の接し方を相談した。それを聞いていたディルダートは見る見る顔色を悪くして、ガバリと深く頭を下げた。それはソファに座っていた自分の膝に額をぶつける程の勢いだった。
アトリーシャも一部は彼の言う通りであるとは思っていたので否定はせず、深く下げられた白髪が目立って来た赤い後頭部を溜息を吐きながら眺めてしまった。
今までディルダートは、さすがにドレスはないが可愛らしいものがよく似合うのでレンドルフには色の淡いフリルやレースなどが使われている服や小物などをどんどん注文していた。とは言ってもいつ魔獣の襲撃があるか分からない辺境なので、外に出る際にはシンプルで動きやすいものを選択する。その反動で、レンドルフの夜着や持ち歩く小物などはとにかく可愛らしいデザインばかりだったのだ。
乳母が添い寝していた頃であれば、アトリーシャが自ら刺繍を入れたおくるみなどをある程度管理していたが、その年齢を超えた息子なので使用人に任せていたのだ。しかしアトリーシャが改めてレンドルフの部屋を確認しに行ったところ、部屋全体がどこのご令嬢の私室かと思う程に可愛らしいもので埋め尽くされていた。別にアトリーシャの目が離れたので使用人が好き勝手にしていた訳ではなく、父親のディルダートが次々と可愛らしい品を買い与えていた為に、使用人達もそれに倣っただけなので責めるわけにはいかない。
髪色に合わせたのか淡いピンク色の更紗のカーテンにクリーム色の小花柄の壁紙や、白い猫足の家具などが取り揃えられた部屋を見て、自分の少女時代でもここまでではなかったとアトリーシャは目眩がしそうだった。
「いや…その、嫌だとは一度も言われなかったし…リーシャの幼い頃はこうだったのかというような愛くるしい笑顔で礼を言われたので、てっきり喜んでいるものかと」
「……あの子は、わたくし達が思っている以上に気を遣う子なのですね」
「すまん」
「いいえ。わたくしも上の二人と同じように思っていたからこの結果なのですから、旦那様と同罪です」
上の兄二人は、ある程度自我が出て来ると、アトリーシャをはじめとして女性の使用人が部屋に入るのを嫌がった。ディルダートは自分の幼い頃も似たようなことを主張していたので、男性使用人に「凶暴なものと毒を持つものだけは持ち込ませないように」と厳命して、自分で部屋の掃除や身支度などをするなら、という条件で許可した。
そんな経緯があった為、レンドルフも同じくらいの年頃になったのでアトリーシャは部屋には入らないで使用人に全面的に任せていたのだった。
因みにダイスの部屋はあっという間に謎の生物の棲む魔境状態になり、メイド長に雷を落とされていた。バルザックは要領よくそれなりに部屋を整えていたが、足の踏み場もなくなった自室に戻らずダイスがずっと入り浸っていたので、しょっちゅう取っ組み合いの喧嘩をしてはディルダートに二人とも拳骨を喰らっていた。
「その、一度バルザックのところにレンドルフを預けるのはどうだろうか」
「エウリュ辺境領に、ですか?」
「あいつからは何度もしつこくレンドルフを遊びに来させろと要求があっただろう。そうだな…来年の夏辺りに短期留学という名目で手配できないかな」
「来年ですか…そうですわね。今年の秋の当主交替後ならまだ成人前の子供ですし、レンドルフだけならば時間も掛からずに許可が出るかもしれませんわ」
貴族が国から要請された外交以外で他国に出ることは難しく、特に私的なものであれば何年も待たされた上に結局許可が下りないことも珍しくない。特に高位貴族はそれが顕著だ。かつてオベリス王国が著しく人口を減らした際に、国を捨てる民が激増した。特に国の中央で手腕を揮っていた貴族があらゆる知識や人脈などを丸ごと抱えて他国に引き抜かれたので、国自体が機能停止する寸前にまで陥ったことがあったのだ。その影響は未だに小さくないせいで、今も貴族の国外行きは外交官でもない限り難しい。
ただどうしても急ぎ国外と繋ぎを取らなくてはならない場合の抜け道として、代理としてレベルの高い冒険者に使者を任せることがよくある。
冒険者は、魔獣退治やダンジョン踏破などを目的として国境に関係なく世界各地へ赴いて行く者もいる。そして依頼の中にも国を越えたものもそれなりに多いのだ。その為、このオベリス王国も含んでいる大陸間では、冒険者の越境は依頼の請負書やギルドカードの本人確認だけで済まされるようになっている。国の垣根を越えて出される依頼など、厄介で大規模だから他国に応援を求めているようなものだ。迅速な対応をしなければ、国境で時間が掛かった為に失敗に終わったなどとなれば重大な賠償が発生するからだ。
レンドルフは貴族令息ではあるが、特に爵位などを持っている訳ではない未成年なので、後見人の爵位に合わせて判断される。今はディルダートが辺境伯当主であるので、後継の可能性がある身分と書類上は判断される為に、準貴族扱いとして許可を取るのは難しい。しかし長男ダイスに当主を譲渡すれば、ディルダートは爵位無しのほぼ平民と変わらない身分となる。実際は前当主として領民から敬われる存在ではあるのだが、あくまでも書類上の話だ。その為、レンドルフも平民と変わらない身分として、他国の親戚の家に行くのは難しくない筈だ。
「レンドルフがあちらに行っている間に、城内の者達にはレンドルフの扱いを注意するように周知しよう。いや、俺が率先すればいいのか」
「それよりも、戻って来た時にわたくしたちの暮らす予定の別荘へ移るようにするのはどうでしょう。周囲の環境が変われば、大分違うのではないかしら」
「それはいいな!今度はあいつが選んだもので部屋を整えてやろう。それから…」
「まずはレンドルフに短期留学の話をしましょう。バルザックは断らないと思いますが、レンドルフにはきちんと確認しないと」
「おお、そうだったな」
クロヴァス家の直系達は、殆どが豪放磊落な性格をしていて、何かあっても大抵力で押し切れるくらいの豪腕の一族だ。勿論頭脳派の者もいるが、それでも恵まれた体格と才能を生かして最終的には力で押し切る。そんな中でレンドルフだけが、顔だけでなく性格も母方の性質を濃く受け付いている。水魔法の使い手を多く輩出する家門に多く見られる、優しく柔らかく包み込むような性格の持ち主だ。決して粗略に扱っていることはないのだが、やはり周囲に気を遣って一歩下がってしまうような穏やかな性質のレンドルフには、違う環境を用意した方がいいだろうと二人は話し合った。
「いや、幾つになっても子育ては難しいな」
「そうですわね。学ぶことも、反省することも多いですわ」
一般的な平民の家族も、両親だけで子育てをすることは珍しい。この辺境では人々が協力をして行かなければ生きるのに厳しい土地柄の為、親類などの血縁だけでなく、近所の住人や孤児院、神殿などでも子供達を預かって面倒を見たりする。野生の群れで生きる動物にも見られるような、弱く幼い個体を群れの中央で固めて、大人達が外側でそれを守る子育てが自然に受け継がれて来た。
当主夫妻である以上、この領地を守ることに最大の労力を割くのは当然のことだ。だからこそ、息子達の教育に直接携われる時間は短い。貴族ではよくあることだが、それでもレンドルフが追い込まれていたことに気付けなかったことを二人は猛省していた。
「引退したら、もっとレンドルフと過ごす時間を増やそう」
「ええ。もっとあの子が我が儘を言えるようになって欲しいですわね」
「そうだな」
ディルダートは分厚く節くれ立った自分の手を、白くほっそりとしたアトリーシャの手の上にそっと乗せたのだった。