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417.夢の続き


レンドルフは、澄んだ水の流れる小川の傍らを歩いていた。


足元には小さな草花が生えていて、周囲は背の高い木はない開けた野原のようだ。遠くに目をやると、何故か薄く霞が掛かっていてそこから先は分からなかった。


しかしレンドルフは何故ここにいるのか、どこからどうやって来たのかは分からないのに特に疑問にも思わずにただ歩いていた。目的があった訳ではないのだが、何となく小川の側を歩いて行く。どのくらいそうしていたかは分からないが、体を動かしていたせいかやたらと暑く感じて来た。汗が流れる程ではないが、体全体がしっとりと湿り気を帯びて来たような気がする。


(この川で水浴びでもするかな…いや、何があるか分からないしな…)


周囲に危険はなさそうだが、それでも無防備な姿で水浴びをするには隠れられる場所もない。それに水は澄んでいるが上流に何があるのか分からないし、今のレンドルフは完全な手ぶら状態だ。いつも魔石や傷薬を入れているポーチも持っていないのだ。


どこかで休憩しようかとも思ったが、見渡す限り似たような景色が続いているために休む切っ掛けが掴めないでいた。どうしたものかと考えながらも、レンドルフは足を止めないで前に進んでいた。


「レンさん!」

「わっ!」


不意にすぐ真後ろで微かな足音がしたと思った瞬間、レンドルフの腰の辺りに小さな衝撃がぶつかって来た。大した影響はなかったが、それだけ側に来るまでに全く気が付けなかったことに驚いて思わずレンドルフは声を上げてしまった。


「あ…えと…」

「レンさん?」


反射的に振り払いそうになったが、聞こえた声が可愛らしい少女のものだと分かったのでレンドルフはギシリと動きを止めた。体を捻って背後を覗き込むように顔を向けると、真っ白な頭頂部だけが肩越しに見えた。


「…どうしたの?具合悪いの?」

「あ…ユリ、さん」


レンドルフの腰の辺りに抱きつくようにしていた相手がヒョイ、と顔を上げた。相手の表情は不安気に眉を下げていて、どこか泣きそうな様子にも見えた。


レンドルフは反射的に「ユリ」と呼んだが、印象が全く異なっていた。透き通るような真っ白な髪に、深い湖のような青い色の瞳、そして何よりも明らかにレンドルフが知っているユリよりも幼い。猫を思わせるアーモンド型の大きな目と、特徴的な金色の虹彩でユリの名前が出たが、声も掛けられずすれ違っていたら見知らぬ少女だと思っただろう。


「ちょっと、ビックリして」

「何か考え事でもしてたの?声を掛けたのに気付かないでドンドン先に行っちゃうんだもの。走ってもなかなか追いつけなくて…レンさんってやっぱり足が長いのね」

「ごめん…気付いてなかった」


特に危険はなさそうでも知らない場所で声を掛けられるまで気付けない程思考に沈んでいるつもりはなかった。しかしレンドルフは、現にユリのような少女に抱きつかれる直前まで全く気付かなかった。もしかして目の前にいる人物は、何かが幻覚でも見せているのだろうかと少し警戒心を抱く。


「そんなに悩むことでもあったの?」


彼女は抱きついている腕を離してレンドルフの正面に回り込んだ。ユリならばレンドルフの胸の下辺りに頭が来るのだが、目の前の少女は腰の辺りまでしかない。顔立ちも体格も10歳程度の子供にしか見えなかった。一瞬、レンドルフは頭の隅で何かが引っかかった気がしたが、その感覚はすぐに霧散してしまう。ただ、そんなに体格差があるのに一切怯えた様子もなく真っ直ぐに見上げて来る彼女に、レンドルフの中でストンと腑に落ちるようにユリだと確信した。色々とレンドルフの知っているユリとは違うが、間違いなくユリだと頭よりも心が先に納得していた。


「ええと…暑いから水浴びでも出来ないかなー、と考えてて」

「え…そんなに真剣になるほど暑い…?」

「俺は、その、暑がりだし」


急に恥ずかしくなって頭を掻いて誤摩化すレンドルフを、ユリは何故か楽しそうにクスクスと笑っていた。髪も目の色も違うし、年齢も違っているがその仕草や表情は確かにユリだと物語っている。レンドルフは何故かいつも以上にユリと会えたことに心が弾むようだった。


「あの、少し、休憩しようか。ユリさん、走らせたみたいだし」


何となくレンドルフは照れ隠しのように提案してみたものの、周囲には何も腰掛けるものがない。それなら土魔法で座れるところを作ればいいと地面に魔力を流してみたが、僅かに土が動くだけで反応が殆ど返って来なかった。


「ここの土地は、極端に魔力抵抗が高いみたいだ…」

「そんなに?」

「全力出せば座るところくらいは出来そうだけど」

「いい、いい!草の上だし、そのままで!」

「そういう訳には…」


レンドルフは胸や腰のポケットを探ってみたが、ハンカチなどは入っていなかった。普段はポーチに入れてしまうので、迂闊だったと後悔していた。上着でも着ていれば迷わず敷くのだが、今はシャツにトラウザーズという軽装だ。これ以上脱ぐのはさすがに出来ない。


「あ、そうだ」


幼く見えようが何だろうが、レンドルフの中では女性を地面の上に直接座らせるという選択肢はない。そこでレンドルフはその場に座り込んで胡座をかくと、自分の太腿の上をポンポンと叩いて示した。座り心地は良いとは言えないかもしれないが、地面よりはマシだろうと思ったのだ。


「い、いや、レンさんが疲れちゃうし」

「ユリさんくらいなら全然問題ないよ」

「だけど…」

「そうか、暑苦しいよね。じゃあやっぱり魔法で…」

「だ、大丈夫!私はちょっと寒いくらいだから!」


立ち上がりかけたレンドルフを慌てて制して、ユリは小さく「失礼します」と呟きながらソロリとレンドルフの太腿の上に座った。鍛え上げて筋肉が特に発達しているレンドルフの太腿は、小柄な上に更に小さくなっているユリが乗ったところでビクともしない。まるで少し固めのクッションのソファのような座り心地だった。


「重くない?」

「目を瞑ったらそこにいるのか不安になるくらい軽いよ」

「大袈裟だなあ、レンさんてば」

「本当のことなんだけどな…」


そのまま足の上にユリを乗せたまま、何と言うことはない会話が続く。この不可思議な状況と空間については二人とも何故か疑問に思わず、いつものように先日見付けた薬草の話や食堂で食べたものの話などが積み重なって行く。


「レンさん、顔が赤いけど大丈夫?」

「ちょっと暑くて…ユリさんは平気?」

「うーん…私はむしろ冷えるくらいかな。もしかしてレンさん熱があるんじゃ」


ユリはレンドルフの額に触れようと手を伸ばした。が、いつもより小さくなった体ではそこまで届かず、レンドルフの胸に飛び込むようになって首筋辺りに小さな手がペタリと貼り付いた。


「冷たっ!」

「あ、ごめん!」

「ユリさんこそこんなに手が冷えて、大丈夫?」


まるで手袋なしで雪の中にいたかのようにひんやりとした指先に、レンドルフは思わずユリの手を握り締めてしまった。レンドルフの手の中にすっぽり収まってしまう小さな手は、両手でもレンドルフの片手で包めてしまいそうだった。


「こうすれば、お互い丁度良いんじゃないかな」


レンドルフがそう言ってユリの両手を自分の両手で挟み込んだ。冷えきっていたユリの指先に自身の体温を馴染ませるようにしばらく挟んでいると、少しだけ彼女の手が温かくなった気がした。


「うん、あったかい。ありがと」

「やっぱり属性魔法の影響なのかな」

「多分ね。こればっかりはどうしようもないけど」


魔力を有している人間は、自身の属性魔法が体質に多少の影響を与えると言われている。実際はほぼ自覚がない者が大半だが、その中の何割かははっきりと影響が分かる者もいる。

レンドルフは主属性は土だが、それなりに大きな火属性の魔力も持っている。反して水魔法は発現は出来ているがそこまで魔力は多くない。そのせいか体温が高めな体質なのだ。ユリは主属性は風で、それとほぼ同じくらいの魔力量で氷属性も有している。その為体温が低めで末端が冷えやすい。それは男女差もあるだろうが、高位貴族にありがちで魔力量がかなり大きいせいもあった。


「いくらレンさんの体温が高めでも、ちょっと高すぎる気がする…やっぱり熱があるんじゃない?」

「体調は悪くないけど…のぼせたのかな」

「あ、じゃあ氷食べる?」

「ユリさんの魔法?」

「うん、そう。ちゃんと食べられる氷だよ。おじい様とか時々その氷で蒸留酒を飲んでるくらいだし」

「贅沢だね」


一旦握られたままの手を外して、ユリは小さく「アイスバレット」と呟いて手の上に魔法を発動させる。ユリの氷魔法は小さく出力するのは得意ではないので、なるべく小振りになるように魔力を絞ったが、それでもレンドルフの両手にも余るくらいの大きさの固まりが出現してしまう。これでもユリにしては小さい方なのだ。

そして立て続けに風魔法で氷を削って、一口大くらいの大きさに調整する。風魔法の方は細かい制御が出来るので、手の平の上で小さな氷の粒がフワフワと浮いている。


「はい、あーんして」

「あっ…」

「あーん」


何だか先程よりも顔が赤くなったレンドルフだったが、ユリが口の前まで氷を浮かせたので遠慮がちに口を開いた。ユリはそこに狙い違わず一粒を放り込んだ。

すぐに噛み砕いたのかレンドルフの口の中からボリボリと音がして、ゴクリと喉仏が動くのが下から見上げているユリにはハッキリと見えた。


「もっと食べる?」

「うん」


冷たさが良かったのか、レンドルフの口角が上がったのを確認してユリはまだ手の上に浮かべている氷を薦めると、今度はレンドルフは素直に口を開いた。レンドルフは口の中に放り込まれるような状態で五粒程食べると、随分と体が冷えたらしくて顔から赤みが引いていた。


「ありがとう。暑さがかなり引いたよ」

「そう?またいつでも言ってね」


口を開いたレンドルフに氷の粒を食べさせるのは、鳥の雛を餌付けしているような楽しい感覚にユリは陥りそうになったが、さすがにそれは黙っておくことにした。もう少し続けたかった気持ちも漏れないように押さえ付ける。


「またユリさんの手が冷えちゃったね」


直接氷には触れてはいないものの、やはり氷魔法を使用した影響か再びユリの指先が冷えていた。


「…俺の水魔法で温めた水を出そうか?」

「飲みたい!」

「あ…う、うん。そんなに熱く出来ないからぬるま湯だけど」


レンドルフの水魔法は一度に大量の水を出すことは出来ないが、飲み水や怪我の手当てに使える純水をコップに二、三杯は出せる。そして魔法で出した水だけでなく、コップなどに入った水分の温度を少しだけ変えることも可能だ。主属性が水のレンドルフの母ならばギリギリ火傷しないくらいから氷結寸前までの範囲の温度を自在に操ることが出来るが、レンドルフは上下とも触れれば心地好い程度が限度だ。

レンドルフはそれを利用して温めた水にユリの指先を浸してもらおうかと思ったのだが、ユリはそれよりも早く飲む方だと誤解して即答していた。レンドルフに氷の粒を食べさせたのだから、そう思うのも仕方がないだろう。


レンドルフは指先に集中して、ちいさな水の球を浮かび上がらせた。いつもなら容れ物に注ぐのだが、今は手元には何もない。直接指先が水に触れないように慎重にユリの顔の前に誘導すると、緊張のせいか水の球がフルフルと揺れていた。


何の躊躇いもなくパカリと口を開けたユリに、レンドルフはひたすら集中しながら指先を近付ける。自分としてはかなり小さめにしたつもりだったが、幼くなった彼女の口は予想よりも更に小さかった。どうにか狙いを定めて口の中に水の球を誘導する。が、最後の最後で一瞬気が抜けてしまったのか、球体が崩れて唇の端に触れて、大半は口の中に収まったが一部が口の端から顎に向かって零れ落ちた。


「あ」


レンドルフは考えるよりも早く咄嗟に服に落ちないように、ユリの口元から溢れた水を自分の指で拭うように触れていた。ハンカチなどの布がないのは先程確認していたので、反射的に手が出てしまったのだ。少し皮膚が硬くなっているレンドルフの親指の先が、ユリの無防備な柔らかい唇の端に触れる。


しかし次の瞬間、許可もなく女性の顔に触れてしまったことを自覚したレンドルフは慌てて手を引いた。さっき少し引いた熱が再び上がって来たかのように、一瞬でレンドルフの顔に熱が集中した。鏡を見なくても顔が赤くなっていることは自分でも分かってしまった。


「ご、ごめん、許可なく触れて」

「んっ…だ、いじょうぶ。ありがとう」

「いや!その、俺が不器用だったから」


口の中の水をコクリと飲み込んでから、ユリはあまり気にしてないようでニッコリと笑った。


「あったかくて柔らかくて、美味しいお水だったよ!すごいね、何かポカポカして来た」

「そう…?それなら、良かった」

「レンさんの魔力なのかな…すごく、あったかくて…」


急にユリの目がトロリとしたようになって、小さく欠伸をした。魔法で出した水とは言え、そこに魔力は含まれていない筈なのだが、ユリは体が温まったせいか急に眠気が襲って来たようだった。どうにか起きていようと頭を軽く振るのだが、むしろそのせいで体が傾いでしまう。レンドルフは慌てて直接触れないように腕だけでユリの背中を軽く支えた。


「疲れたんじゃないかな。支えてるから少し眠ったら?」

「ええ…やだな…」

「う…それはそうか…」


フルフルと気怠げに首を振るユリの言葉に、レンドルフも周囲には誰もいない状況で寝姿を晒すのはさすがに嫌がられるかと納得してしまった。しかしそれでもユリは眠気に抗えなくなったのか、レンドルフの胸に寄りかかるように頭を凭れ掛からせた。


「だって…起きたらレンさんがいなくなってる…気が、する…」


ユリは眉を下げて哀し気な顔をしながら必死に目を開けようとして、小さな手でレンドルフのシャツの胸の辺りを握り締めた。


「大丈夫だよ。俺はユリさんの側にいるから。起きるまでずっといるから」

「ほんとに…?」

「うん、約束する。だから、眠っていいよ」

「…うん」


その言葉に安心したのかユリはシャツ越しにレンドルフの胸筋の感触を確かめるように何度か頬擦りをすると、全身を預けるようにスウスウと寝息を立て始めた。レンドルフはユリの体が落ちてしまわないように背中に腕を回して包み込む。


(男として意識されてないのは…多分良いこと…なんだよな)


安心し切った顔で胸に顔を埋めて眠っているユリの顔をチラリとだけ眺めて、レンドルフはほんの少しだけ複雑な気持ちで空を仰いだのだった。



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「レンドルフ!大丈夫か?どこか痛いとか、辛いとかはないか!?」


医師の見立て通り、熱が上がったレンドルフが苦しげな息を吐いていたのを放っておけず、バルザックは強引に部屋に毛布を持ち込んでベッドの傍らにソファを引きずって来てそこで寝ていた。

明け方近くにレンドルフが身じろぎをしたのでバルザックは飛び起きて、その顔を覗き込んだ。するとレンドルフは僅かではあるが目を開けて、戸惑ったような表情をしていた。包帯をしていない部分の額や頬に触れて、少し汗ばんではいるが熱が引いているのを確認する。


まだ体が辛いのか、レンドルフの潤んだ切なげな瞳がゆるりと何かを探しているかのように動く。バルザックが声を掛けたが、まだ意識がハッキリしていないのかぼんやりとした様子だ。


「レンドルフ、まだ無理をするな」


自分の状況が分かっていないのか、レンドルフは手を動かそうとしている。回復薬と治癒魔法でかなり良くなってはいるが、右指は何カ所も骨折、左腕に至っては千切れかけたのだ。無理に動かすとその後の治療に影響が出てしまう為、バルザックはやんわりと毛布の上から動きを押さえる。あまり力が入らないのかあっさりと動くのを諦めたレンドルフは、何かを探しているのかぐるりと左右に目をやった。そして眉を下げて泣きそうな顔になった。その弾みでもともと潤んでいた目尻から、ハラリと涙が零れ落ちる。


バルザックにはその涙は痛みのせいなのか生理的なものなのかは分からなかった。が、半分は痛々しい包帯に覆われていながらも美しい顔立ちの弟の、何とも艶かしい色香に一瞬たじろいでしまった。


「…約束、したのに」

「レンドルフ?」


辛うじて聞き取れるギリギリの呟きが漏れて、レンドルフは再び眠りについたのか目を閉じてしまった。そのせいか、目に溜まっていた涙が数粒零れ落ちてこめかみを伝った。バルザックはしばらくレンドルフの様子を見ていたが、深く眠ったらしいと判断すると、枕元に置かれていたタオルでそっと目元を拭ってやった。


もう一度額と首筋に触れて熱が下がっているのを確認してから、バルザックもベッドの脇のソファに戻って毛布を肩から掛ける。そして眠っているレンドルフを眺めながら、ゆったりと背もたれに深く体を沈めた。もうレンドルフの呼吸も穏やかになっている。


「お前を泣かせる相手は、誰なんだろうな」


数日前にレンドルフと語らった時に、会話の中に見え隠れしていた大切な「友人」なのだろうとバルザックは何となく予想をする。その相手を想ってか何とも切なく色気もある表情を見せた弟に、バルザックは感慨深い表情でその寝顔を見守っていたのだった。



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「体温上がって来た」

「ユリちゃん、もうちょっとやで。頑張りや」


エイスの治癒院では、夕刻に待ち望んだ解毒薬が到着して一気に慌ただしくなった。いつでも動けるように準備を整えていたユリの治療班が動きだし、それを守る警備や裏から支える大公家の影達、全てが一丸となって静かに、そして迅速に行動を開始した。


レンザの残して行った時魔法の魔石の力を僅かずつ弱めて、ユリの時間を動かして行く。それと同時に体内の毒素が体に攻撃を再開するのを薄める為に、幾人もの担当が慎重に解毒剤も投与を進める。そして傷付いた細胞を入れ替えるように繊細な治癒魔法も展開される。

幾度となく方針を話し合って来た彼らの動きには淀みがなく、誰一人として言葉を発しない静かな作業が続いた。


治療を開始してしばらくは順調であったが、不意にユリの体温が極端に下がった。そのことも想定はしていたが、それでも良い状況ではない。熱が上がると体力は消耗するが、体が異物に対しての抵抗を試みている証になる。しかし逆に下がってしまうのは体内の生命力が落ちているということだ。


主治医で責任者になっていた副院長のセイナは、縋るような目で次の指示を無言で求めて来る部下に迷わず進めるように指示を出し、繊細な鑑定魔法を数種類展開しながらギリギリまで治療を止めないでいた。ここで一旦時魔法の魔石で体の状態を停止しても、好転することはない。


その判断が功を奏したのか、しばらくした後にユリの体温が徐々に上がり始め、ギリギリ持ち直したのだった。その中でほんの僅かだったがユリの意識が浮上した。まだ全身を蝕む毒素は体内に充満しているのはあるが、それでも悪い傾向ではない。


周囲が治癒魔法を交代で掛けている中、さすがの元聖女候補で魔力量も膨大なアキハは最初からユリの側を離れずに魔法を行使していた。しかしそれでも疲れがみえて来たのか、顔色は悪くなり目の下にクマが浮かび上がっている。


「ユリちゃん、分かる?アキハおねえさんやで」


アキハが呼びかけると、ユリの目がほんの少しだが開いていた。まだ意識はハッキリしないだろうが、それでもこの状況で少しでも答えが返ってくれば、脳への後遺症の可能性が薄いと期待が持てる。


「う…」

「ユリちゃん!」

「うそつき…」


乾いた唇から掠れた声が微かに漏れると、そのままユリの目は閉じられた。


「…『うそつき』?」

「おねえさんに見えなかったからじゃないのか」

「ぐっ…!」

「一応視力は大丈夫そうだね。あと一回、解毒剤投与してから五分置きに魔石の出力を上げて、三回で元に戻すよ」

「「「はい!」」」


ユリの症状は一気に治療することは出来ない。セイナはピリピリとした魔力を纏わせながらより精密な鑑定魔法を掛けて、周囲の治癒士に声を掛けた。


それからしばらくしてユリの最初に治療を終えて、張り詰めたままだった空気がようやく緩んだ。まだしばらくは油断できないが、ひとまず最初の治療は成功したと言っていいだろう。途中でユリの体温が下がった時はセイナもヒヤリとしたが、責任者である以上動揺は見せられない。


やっと初回を乗り切って、セイナは崩れるように部屋の隅にある椅子に座り込んだ。


ただ一人の大公家の直系を診るという重圧もあったが、それよりも可愛がっている姪のような存在のユリをまずは一歩救う為に踏み出せたという安堵の方が大きかった。そしてそうやって感慨に浸っているセイナの隣で同じように椅子に座り込んだアキハが、「おねえさん」を「うそつき」と言われたと思い込んで深く椅子に沈み込んで「解せぬ」とブツブツ繰り返していた。


セイナはある意味ブレないアキハに思わず笑って、すっかりボサボサになった彼女の頭を小突いてしまったのだった。



お読みいただきありがとうございます!


全然メイン二人が会わない展開が続いていたので、夢の中で会ったかもしれない?エピソードを入れました。どちらが見た夢か、どちらも見た夢なのかは神のみぞ知る、ということで。

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