414.とっておきのお守り
「閣下!剣の近くにこれが…もしやこれは」
レンドルフが投げた大剣を肩に担いで走って来たディルダートの片手には、薄紫色をした薬瓶が握られていた。その顔は困惑しながらも、もしかしたら息子が助かるかもしれないという可能性に興奮している様子だった。
「ええ、特級の回復薬です。それをこちらに」
「はっ!」
特級は回復薬の中でも最も効能が高く、聖女や聖人の再生魔法に匹敵するような欠損も治すことの出来るものだ。その素材は非常に高価で、使いどころの難しい薬でもあるのだ。
人が行使する術は、患者の体力や様子を見ながら調整できるが、薬自体にそんな配慮はない。飲ませる量やタイミングなどを専門家が見極めなければ、却って体力や生命力を無駄に削って逆効果になってしまう。それに回復薬は最大の特徴として、患者自身が飲んでくれないと効果が薄い。しかし上級以上のものが必要な状況は、患者の意識がほぼないことが大半だ。大抵の場合は、治癒士などが魔法で回復させて意識が戻ったところで併用することが多い。だが、今この場に治癒魔法を使える者はいない。強引に喉に管を通して注ぎ込む技法もあるが、ここにはそんな器具もない為、何としてもレンドルフに自力で飲んでもらわねばならない。
「自力で飲んでもらう為に、気付け薬で強引に意識を戻します。痛みを抑える為に麻痺粉を使いますので、防毒の装身具を外してください」
「分かりました」
応急処置は手慣れているのか、ディルダートはナイフでレンドルフの服を裂いて直接肌に触れるように腰の辺りに巻き付けていた装身具を取り外しに掛かった。服の前面を開いてレンドルフの上半身があらわになったので、レンザも首に巻かれていた見覚えのある防毒の付与の付いたチョーカーを外す。これは以前にユリが持っていたもので、レンドルフに譲ったことは知っていた。
服の間から覗くレンドルフの体は、服の上からでも予想が付いていたが見事に鍛え上げられている。無駄なく絞ったというよりは十分に栄養の行き渡った柔軟さを有しているので、その肉体だけで有用な防具に匹敵する。しかし色が白い分、体には随分古傷が目立っていた。今回受けた傷も、完治したとしてもかなり残るだろう。
「あとはイヤーカフ…ああ、どこかに飛ばされたのか」
ディルダートは傷を負っているレンドルフの顔の左側に手を伸ばしかけて、伸びた髪に隠れて見えなくなっていた形の変わってしまった耳に気付いて手を止めた。口調は冷静に努めようとして平坦なものであったが、その指先は明らかに震えていた。
レンザはそれを見ないフリをして、レンドルフの怪我の部分に麻痺粉を少しだけ振り掛けた。多く掛ければそれだけ麻痺が強くなって痛みを抑えることは出来るが、治療中の違和感に気付けない場合もある。レンドルフは騎士なので痛みに強い筈だと判断して、反射的に痛みで体が動かせない程度の最低限に留める。
それを手早く終えると、今度は気付け薬をレンドルフの鼻の前に持って行く。何度か往復させると、微かに意識を取り戻したのか薄く目を開く。長い薄紅色の睫毛が細かく震えて、殆ど光のないヘーゼル色の瞳がゆるりとレンザを見た。
「聞こえますか、レン殿。回復薬です。まずは少しでいいです。飲んでください」
ほぼ血の気を喪って肌の色と変わらないくらい真っ白になったレンドルフの唇に、回復薬の瓶を当てて隙間に垂らすように数滴流し込んだ。しかし飲み込むことが出来るだけの力がないのか、喉仏が動く様子はない。そのまま口の端から流れ落ちてしまう。
回復薬は外傷の場合振り掛けてもある程度効果はあるが、内服と両用した方がより高い効果が得られる。それに上級や特級になると成分に増血効果が含まれている。先に掛けてしまうと傷が塞がる前に大出血を誘発させる恐れもあるため、とにかく僅かずつでも飲んでもらわなくてはならない。
「これはユリが貴方の為に作ったものです。一滴たりとも無駄にさせませんよ」
再び意識が遠のいたのか、瞼が落ちそうになっているレンドルフの耳元でレンザが低く呟いた。ユリの名を出した瞬間、ほんの僅かだがレンドルフの目にうっすらと光が宿る。これを逃せばいよいよ生命が危ぶまれる。レンザは多少飲みにくいだろうことも承知で、思い切って薬瓶を大きく傾けた。この際誤嚥のことは気にしていられない。誤嚥を起こして肺炎に繋がってしまったとしても、生きていれば治せばいい。
レンドルフは嚥下するのも辛そうで必死な様子ではあったが、僅かに喉仏が動いた。それと同時に、レンドルフの全身から白い水蒸気のような煙が立ち上った。これは体内に入った回復薬が急速に肉体を再生している証だ。
「ゴフッ…」
「大丈夫です。貴方は助かります。…ユリを見舞ってくれるのでしょう?」
レンドルフが大きく噎せて、飲んだばかりの回復薬を吐き戻してしまった。しかしそれでも体が再生している煙は出ているので、多少でも体に吸収されているのだ。レンザは慣れた手付きでレンドルフの顎を伝う血混じりの回復薬を布で拭うと、少し顔を斜めに傾けて口の隙間にそっと回復薬を垂らす。今度は先程よりもしっかりとレンドルフの喉が動くのが見えて、怪我を負った周辺から更に白い煙が立ち上る。
それから少しずつ間を空けて、レンザはレンドルフの口の中に回復薬を垂らし続けた。どのくらい時間を掛けていたのかは分からないが、最終的に瓶の中身が半分以下になる頃には、レンドルフもしっかりと飲み下すことが出来るようになっていた。そしてそれとは反対に体から立ち上る煙が薄くなって来る。これは再生が完了した部分が増えている証拠でもある。
「お…おお…レンドルフ…閣下、感謝を、感謝、いたします…」
まだ皮膚には生々しい傷跡が残されているが、抉られていた胸元や千切れかけていた左腕はほぼ新しい肉が再生している。ここまで再生すれば出血も止まっているので、失血死は免れるだろう。今が気温が低い季節なので、多少出血が抑えられたのも幸運であった。
側で反射的に動いてしまうレンドルフの足を抑えていたディルダートは、レンドルフが完全に危機を脱したことを理解してしゃくり上げながらレンザに頭を下げた。気配からするとどうやら号泣しているようなのだが、顔の大半がふさふさの髭に覆われているのでレンザにはよく分からなかった。
「…ユリさ、ん…解毒…」
「大丈夫です、無事に王都に解毒薬は飛ばせましたよ。貴方のおかげです」
「そう、ですか…」
「さあ、ゆっくりお眠りなさい。貴方に何かあれば、ユリが悲しむ」
「はい…」
息が漏れるような囁き声だったが、喋れるところまで回復したのであればもう大丈夫だろうとレンザはレンドルフの傷を負っていない方の顔を軽く撫でる。レンザの指先はすっかり冷えきっていたが、まだ感覚がはっきりしていないレンドルフはさほど反応は見せなかったものの、レンザの口からユリの名を聞いただけでレンドルフの目の奥に弱いがしっかりとした光が宿っているのが分かった。これならばあとは戻って領内の医師に診せて適切な処置を任せればいいだろう。後遺症などによっては再処置が必要となるだろうが、レンザは大公家として可能な限り支援すると決めていた。
ストン、と落ちるように眠ったレンドルフだったが、呼吸はしっかりしている。レンザは回復薬の瓶にしっかり蓋をして、懐にしまい込んだ。この場で回復薬を振り掛けてもいいのだが、この寒さでは手がかじかんで目測を誤りかねない。一応危機は脱したので、一旦温かな室内戻ってからと判断したのだった。
「さあ、早く戻りま…」
レンザが自分の判断が正しかったと認識したのは、そこで自分の意識もプツリと途切れてしまい、次に目を覚ましたらディルダートに毛布でグルグル巻きにされて横抱きされて運ばれていた時であった。
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ザクザクと雪を踏みしめる音とハアハアと荒い息遣いがすぐ側で聞こえて、レンザは一瞬自分の置かれている状況が分からなかった。
「閣下、お目覚めですか」
「……ええ。あの、これは」
ぬう、と覗き込むように赤い毛の固まりが視界に入って、すぐにディルダートだと頭は理解したがレンザは少しだけ言葉に詰まってしまった。
「あのあと倒れられたのですよ。ですので荷物のようで申し訳ありませんが、抱えて下山しております」
「そうでしたか。申し訳ありません。すぐに下りますので」
「いえ、このままで。閣下の足では日が暮れてしまうでしょう。危機は脱したとは言え、一刻も早くレンドルフを医師に診せたい」
「…分かりました。お言葉に甘えます」
大人を二人、しかもレンドルフは担いでいるディルダートよりも巨体だ。そして先程の戦闘で疲れているだろうに、ディルダートはかなりの急ぎ足で歩を進めていた。抱えられたまま見上げると、ディルダートのこめかみや額の辺りの毛がしっとりと湿っているのが分かった。この寒さの中、汗だくで息を切らせて必死に山を下りているのだ。しかしレンザが自力で歩いたとしても却って足を引っ張ってしまうのが分かったので、ただ大人しく抱えられていることを選択した。
「閣下も無茶をなさる…いや、人のことは言えませんが」
「さすがに年と共に無茶は利かなくなりましたな。まさか魔力切れとは」
レンザは自分でも魔力制御には若い頃から長けていて魔力量の残りを見誤ったことはなかったのだが、今回は慣れない環境とユリへの解毒薬を無事に送ることばかりに気を取られていた。もうとうに限界に近かったのに、レンドルフを何としても救わねばならないと必死になっていた為に魔力回復薬で自身の魔力を補充するのを怠っていた。そのせいで、レンドルフが一命を取り留めたと分かった瞬間に一気に魔力切れの症状が襲って来て、その場で昏倒してしまったのだった。
残されたディルダートは、ひとまず背負子にレンドルフを括り付けて、防寒の為に用意してあった毛布でレンザを巻いて山を下りることにしたのだ。二人を運ぶのが手一杯だったので襲撃して来た者はひとまず木に括り付けて来たが、誰か人をやって回収する頃までに命があるかは分からない。生きてはいるが重傷者もいたし、血の匂いに釣られて魔獣に襲われるかもしれないし、そうでなくても凍死の可能性もある。それに彼らの仲間がまだどこかにいて合流したならば、連れて帰るよりも安全を考えてその場で始末するのは明白だろう。本当ならば一人でも連れ帰って自白させたいところだが、レンドルフとレンザを優先させた。
「閣下。改めて息子の命をお救いくださり、感謝いたします。使っていただいた薬代は必ず」
「いや、あれはユリ…私の孫がご子息の為に用意したものです」
「しかし」
「素材も調薬も、全て自分の手で用意していました。そしてご子息に贈ったタッセルの中に、万一の時に備えてお守り替わりに隠しておいたのです」
「何と…そこまでレンドルフのことを…」
「回復薬を隠したのはご子息には内密にしていたようですがね」
ユリがすぐに自らの身を顧みずに怪我をするレンドルフのことを気遣って用意したとっておきの仕掛けなのだが、レンドルフの性格ならばそれを知っていたら自分以外にその回復薬を使ってしまいそうだと予想して秘密にしていたのだ。それをディルダートに告げると、「あいつのことをよく分かっておいでですな」と苦笑しているような声色で呟かれた。
ユリはタッセルに仕掛けを作る際に、昔からレンザと付き合いのある付与師に色々と細かい注文を付けて、回復薬が出て来るタイミングを条件付けたとレンザは聞いていた。今回のレンドルフはそれこそ瀕死の重傷だったので確かに発動はしたが、ただタッセルの付いた剣ごと手元にはなかったので、仕掛けを知っているレンザがいなかったら無駄になっていただろう。レンザは心の中で「落ち着いたら再考の余地ありとアドバイスしておこう」と固く誓ったのだった。
「閣下にも、大公女様にも、いくら感謝してもしきれません。このご恩はいつかお返しさせてください」
「それならば、もういただいていますよ。薬草を見付けたのも、解毒薬を守ったのも、ご子息の力あってのことです」
「それでも、私が怪我をした時のことも含めて、親子で恩を返します」
「ははは。もうとっくに時効になっていたと思っていました」
かつてヒュドラ討伐の終わりに、若かりしディルダートは重傷を負った。一時は心の臓が止まりかける程の大怪我だったが、レンザが時魔法を使ってディルダートの状態を一時的に停止させて、呼び出した聖女が来るまで持ち堪えさせたのだ。その時に彼が回復するまで看病をしたのがアトリーシャで、より強い縁を結んだ二人はその後婚約したのだ。もしそこでディルダートが助からなければ、彼の背に背負われているレンドルフも存在しなかったのは間違いない。
「…今はすぐに望むものは思い付きそうにありません。いつかお願いすることがありましたら可能な範囲でお返しいただきましょう」
「必ずや」
おそらく笑ったであろうディルダートの顔を見上げながら、レンザはこうして安全に運んでもらっているだけで十分だと思ったが、それを告げてもまだ足りないと言われてしまうのは予測が付いた。それならばこうして口約束だけで実現しない「いつか」の約定で済ませるのが一番いいだろうと思っていたのだった。