412.調薬開始と妨害者
戦闘と怪我の表現があります。ご注意ください。
竜モドキを埋めたところから休憩を挟みながら二時間程進んで行くと、一番最初の目的地に到着した。しかし残念ながら、昨夜のうちに魔狼の群れが通過したらしく周囲が荒らされて使い物にならなくなっていた。すぐに次の場所に移動して確認したが、そちらは浄化能力規定に達していなかった。
レンドルフ達は祈るような気持ちで最後の場所に進んで行った。
「周囲に魔獣はいないようです」
「ありがとうございます。ここから先は私だけで」
「お気を付けてください」
魔力の影響が出ないように索敵魔法は使用せず、ディルダートとレンドルフで身体強化で視覚と聴覚を最大限に上げて周囲を確認した。少なくとも感知できる範囲にあった心音と呼吸は、自分達とネズミかリスのような小動物くらいだった。極端に心音が遅いのは冬眠しているからだろう。それならばたとえ魔獣であってもそこまでの危険性はない。
レンドルフが示した最後の場所は、周囲を木立に囲まれているがその場所だけぽっかりと広場のように何もない雪原が広がっていた。かつてはここにも木が生えていたのだが、地滑りの影響でそこだけ何故か木が生えなくなっているらしい。そしてその広場の中央付近に目的の薬草が生えていた。レンザはそれを確認してから、魔力の影響が届かないギリギリのところで背負子から下ろしてもらった。通常ならば数名で採取してもそう影響はないが、今回は少しでも効果の高いものを使用したいので念には念を入れておくことにしたのだ。今この場にいる三人は非常に魔力量が多い。しかも全員違う属性魔法の使い手だ。レンドルフとディルダートは親子なので多少近いのだろうが、調薬するのはレンザだ。魔力の影響を最小限にするならレンザ以外に選択肢はない。
レンザは背嚢の中から特殊なマントと手袋を引き出して、白ムジナの外套と交換するように装着した。これは内側の魔力を遮断する特殊な素材で出来ているので、完全ではないがこれで大幅にレンザの魔力も影響も抑えられる。防寒用ではないものなので、下にも十分着込んでいたが一瞬でレンザの体温を外の寒さが奪って行く。
「行って参ります」
すぐに歯の根が合わなくなる程の寒さに包まれたがそれも刹那のことで、あっという間のその段階を通り過ぎて寒さというよりは痛みを感じていた。しかしレンザは迷うことなく一歩を踏み出した。
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レンザの進む背中を、ディルダートは苦い気持ちで見つめていた。
本来この辺境では、必ず複数で行動するように叩き込まれている。凶暴で賢い野生の生物達は、爪も牙もないひ弱な人間を補食する機会を虎視眈々と狙っている。だからほんの僅かな気の弛みで、泣いても叫んでも取り返しのつかない場面に幾度となく遭遇して来た。
落とし物に気付いてすぐそこだからと引き返したきり戻って来なかった者。すぐ下の岩の向こうにある川の水を汲みに行って、足を失った者。さっきまで最後尾で靴紐を結び直そうとしていたのに、気が付くと靴と結び直そうとした指先だけが背後に残っていた者。
そんな凄惨な場面を幾つも見て来たディルダートは、昨夜どんなに説得しても一人で薬草採取に向かうレンザの心を変えることは出来なかった。最終的に、彼の孫娘を救おうとする必死の熱意に折れてしまった。ディルダートとて子も孫もいるし、ましてやレンザにとっては亡き一人息子の忘れ形見だ。その気持ちは痛い程分かってしまったのだ。
勿論、単独で行動した者全てが悲劇を引き起こすわけではない。しかし、まさか、と思う瞬間に災厄は残酷に襲って来る。これ以上ない程ディルダートは気を張り詰めて、不測の事態にはいつでも動けるように息を詰めていた。
レンザは慎重に歩を進めて、薬草まであと少しという距離まで近付いた。背中からはレンドルフとディルダートの突き刺さるような圧力を感じている。昨夜ディルダートには、たとえ数メートルでも騎士でもないレンザが単独で動くことに最後まで反対されていた。
以前レンドルフが、薬草を見付けたユリが一人で動こうとしたのを彼にしては厳しく声を荒げて止めていた、と彼らを見張っていた影から報告を受けていた。その内容は、レンザがディルダートから懇々と説得されたことと同じような内容だった。
(私とユリ、大公家の人間が揃ってクロヴァスの者から叱られるとはね)
こんな状況だったが、レンザはついそんなことを考えてしまって微かに笑った。寒さで強張った顔は全く笑えている気はしなかったが。
レンザは懐からかじかむ手で小さな針の付いた時計のような魔道具を取り出すと、薬草の根元近くの雪の中にサクリと半分程差し込んだ。そしてしばらく待ってから取り出して針の位置を確かめると、針は先程の位置とは正反対の方向に振り切れているようだった。ユリ用の解毒薬を精製するには十分な浄化の効果が残っている。
「これからこの場で調薬を行います!もうしばらくは魔法の使用を控えるようお願いします」
「分かりました!」
「承知した」
レンザはその場に膝を付いて、背嚢の中から黒い石板のようなものを取り出して雪の上に置いた。これも魔力の影響を受けない特殊な鉱石で作られている。外で調薬などを行う時に作業台として必要な物だ。平らになるように雪の上に押し付けて調整をしてから、慎重に器具と保存容器に入れた薬草を並べる。指先は寒さで切れる程チリチリと痛みを伝えているが、寒さを通り越しているおかげか震えるようなことはないのは幸いだった。これを更に通り越して暑く感じるようになって来ると命に関わる。レンザはそうなる前に済ませてしまおうと、目の前にある真っ白なレースのような裾を引く薬草を掴んだ。
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「…チッ、何か来やがったか」
レンザを左右に挟むような形で周囲を警戒していたが、ディルダートが軽く舌打ちをして顔を歪めた。それはレンドルフにも分かった。複数の足音と荒い息遣いがこちらに迫って来ている音を捉えたのだ。この足音だと、魔獣ではなく人間なのは間違いなかった。しかしそれは決して味方ではないことは明白だった。
この山は領主命令でディルダートの葬儀が終わるまでは立入り禁止の命が出ている。通達漏れで違反者が出ないように、山に入る為の定められた入口には領専属の騎士が配備されているのだ。にも関わらずこちらに集団で向かって来るということは、何らかの後ろ暗い企みがあってのことだ。
「やけに統制が取れていますね」
「この匂い…ウチの領民ではないな」
「…さすが父上です」
長年同じ場所に住み続ければ、その土地特有の匂いが体に染み付く。その地でよく使われている食材や、洗濯に使う洗剤、水でさえ土地を構成する一つだ。それらを長く取り入れれば、特有の香りを身に纏う。特に際立ったものではないが、身体強化で嗅覚の感知を上げればディルダートは体の芯から微かに香る、香水で言うところの「ベース」のようなこの土地特有の匂いを嗅ぎ分けることが出来るのだ。ディルダートの感覚だと、少なくとも一年はクロヴァス領で生活しなくてはその匂いが染み付くことはないそうだ。
「八人か…気を抜くな」
「はい!」
レンドルフは調薬をしているレンザを背にして、大剣を構えた。柄に取り付けているタッセルがサラリと手の甲に触れる感触が手袋越しにも分かって、レンドルフはグッと腹に力を入れる。今ここにはいないがこの場を守り抜くことが間接的にユリを守ることだと思うと、体の末端にまで熱を帯びた血が駆け巡るような気がした。
ディルダートも刃の幅が分厚く広いナイフを抜いて、顔の前に真横に構えた。ディルダートも普段はレンドルフに負けず劣らずのサイズの大剣を使うが、二人とも似たような武器だと小回りが利きにくい。状況によって魔法が使えないこともあるので尚のことだ。そう考えてディルダートはナイフと尖った金具の手甲が付いた手袋を今回の武器に選んでいた。レンドルフよりも経験値がある分、多種多様な武器の扱いはディルダートの方が上の為、レンドルフには慣れた武器を任せたのだ。
相手も既に待ち構えられていると察知したのか、すぐに隠す気配はなくなり周囲を取り囲むように均等に散らばった。もう目視できてもいいくらいには接近しているのに姿が見えないのは、何か魔法か魔道具を使用しているのだろう。しかし呼吸や心音、雪の上の足跡は完全に隠し切れていないので、聴覚と視覚を強化しているレンドルフ達には隠れていることにはならない。
不意に、近くの木立が不自然に揺れた。
次の瞬間には、白っぽいマントに身を包んだ覆面の男が空を飛んでいた。木立を足場にして高く飛び上がった頭上からの奇襲だ。どうやら光の反射で雪の上では目眩ましになるような仕掛けのマントを纏っていたようだが、さすがに空中では姿を隠し切れない。その男が飛んだのは囮で、それとほぼ同時に全方位から雪をものともせずに一気に走り込んで来る。魔獣に襲われたように細工をしたいのか、目に付いた限りでは彼らは手甲鉤や鋸刃のような短剣を使用していた。弓矢や魔法などで遠距離で攻撃するつもりならもうとっくに仕掛けている距離だ。
レンドルフは自身の大剣を斜め下に向けて、一気に横薙ぎにした。剣の先が雪の表面を大きく抉りとって、まるで破裂するようにサラサラとした雪を空中に舞い上げた。その舞い上げられた雪が一瞬互いの姿が見えなくなるほどの目隠しになって、相手の動きが僅かに鈍った。それを逃さず、先にディルダートが、そしてすぐにレンドルフが続いて弾かれたように走り出した。雪で視界が悪くなっていても、二人とも聴覚だけで相手の位置が大体分かる。
空中にいる男は、舞い上がる雪煙の中から着地地点が塞がれて狙いを見失った。狙いを付けていた大柄の二人は既に元いた場所から移動している。彼は混戦状態の中、味方の上に下りてしまうことだけは避けようと明らかに何もなさそうな場所に着地しようと体を捻る。
「グアッ!?」
足が着地する寸前、背中から大岩でもぶつかって来たかのような衝撃を受けて男が思わず声を上げた。その固い何かはそのまま真横に飛んで、男の体も同じ方向に吹き飛ばされた。彼は最初の衝撃で意識の殆どを奪われていたので、頭から雪の中に突っ込んだ瞬間に微かに冷たさを感じただけで一体何がぶつかったのかは最後まで分からないまま気を失った。
彼は着地する寸前、雪煙の中からレンドルフの大剣の刃の部分だけが飛び出して来て、刃の部分ではなく側面で背後から叩かれたのだった。もし刃の部分がその勢いで刺さっていたら、その場で胴体が真っ二つになっていただろう。しかし切れ味のない側面だったので、男の体はまるでワイルドボアにでも突進されたかのような衝撃で遙か遠くまで吹っ飛んで、頭から雪の中に突っ込んだ。大分先の方で、彼の両足がニョッキリと二本突き出したように雪の上に出ていた。そのままぴくりとも動かないが、せいぜい骨の数本が折れたりしている程度で死んではないとレンドルフは手応えで確信していた。
容赦なく切っても問題はなかったのだが、一応生かしておけば多少は情報が得られるかもしれないし、何よりその場で大出血が起これば、調薬中のレンザに噴出した血が掛かってしまうかもしれない。それを避ける為のギリギリの慈悲と言ったところだ。
視界が開ける前に、レンドルフは再び雪を巻き上げるように剣を振るう。その軌道上に一人走り込んで来て一緒に薙ぎ払ったので、一部僅かに雪煙が赤く染まる。ハッキリと見えなかったが剣の位置からすると足をやられている筈だ。落としたかどうかは不明だが、少なくとも動きは封じたのは分かった。
「ぐおおぉぉぉっ!」
レンドルフの視界の端で、赤い影が吠えながら暴れているのが見えた。それと同時に小さな爆発音とくぐもった男の悲鳴も混じっている。あっという間に肩や腕に火傷を負った男が三人ディルダートの足元に転がった。更にその上からもがいているのを容赦なく踏みつけて行動不能にして行く。足や背中を中心に攻撃しているので、ディルダートも殺すまではしていない。
ディルダートは、対象を殴って直接その場所から体内に火魔法を叩き込むことが出来るのだ。外部に魔力を放出するのではなく直接流し込んで攻撃するので、周囲には殆ど影響が出ない。今回は行動不能にする為にごく小さな魔力で、命に関わらない部位を内部から焼いて倒したのだ。これは乱戦状態になっている時や、燃えやすい木や枯れ葉などに囲まれた状況などでは絶大な効果を発揮する。強力な火の攻撃魔法を操ることを得意とするディルダートだが、小さく繊細な魔力の制御も出来るからこそ可能な技だ。
もっとも、それを喰らった相手は死んだ方がマシと思うような激痛を伴うのであるが。
(あと三人…!)
襲撃者は八人いた筈だ。身体強化で確認するレンドルフよりも、索敵魔法で魔力や生命反応を認識するディルダートが出した人数なのでほぼ間違いはない。あっという間に五人を行動不能にしたので、残りは闇雲に突っ込んで来るのを変更したようだ。
「あっちか!」
レンドルフの鼻が火薬の匂いを感知すると同時に、ディルダートもその方向に向かって走り出した。その方向にはレンドルフ達を信頼して調薬を続けているレンザの姿がある。そのレンザに向かって、駆け寄ろうとする襲撃者の姿が見えた。
レンドルフよりもディルダートの方がより近いところまで迫っているが、ほんの僅かではあるが一人の襲撃者が先行している。
「父上っ!」
レンドルフは声を張り上げると同時に、全力で手にしていた大剣を投げた。それと同時にディルダートが体を沈めてほんの一瞬ではあるが両手を付いて四つ足で走行しているような恰好になった。そしてレンドルフが投げた大剣が空気を切り裂くようにそれまでディルダートの上半身があった場所を通過して、その先にいる襲撃者の鼻先を掠めた。相手もそのままの勢いで突っ込んで行けば大剣の飛ぶ軌道上に重なったのだが、さすがにあれが当たっては只では済まないと反射的に速度を緩めたのだ。
それが功を奏して、両手を付いた状態でも走るのとほぼ同じ速度でディルダートが男の真下に滑り込むように回り込む。そして立ち上がる勢いそのままに手甲の付いた拳を相手の顎下に叩き込んだ。今回は魔法は使わなかったが、さすがに急所にディルダート渾身の打撃を喰らって男は声を上げずに仰向けにひっくり返って動かなくなった。
「完成しました!」
そうレンザが宣言すると同時に、彼の手元からカラスに似た黒い大型の伝書鳥が飛び立ったのだった。