409.白百合の刺
翌日も天気に恵まれ、バルザックの恨めしそうな視線を背中に受けながらディルダートはレンドルフと共に山に入って行った。
それを見送るレンザは、白ムジナの外套を纏って遠ざかって行く親子の後ろ姿が大変良く似ているのを微笑ましく眺めていた。細かいことを言えば違う部分はあるのだが、纏う雰囲気や動きの癖などがそっくりだった。実際会ってはいないが、やはり良く似ているという現辺境伯も同じなのだろうなと思うと、つい並んだところを見てみたいと思ってしまった。
「どうぞ、お茶が入りましたわ」
「夫人の手ずからとは、光栄の極みです」
「ふふ…お上手ですこと。大公閣下にお淹れするのですから、少し力が入ってしまいましたわ。お口に合いますかしら」
離れの一室では、今日は外出せずに残ったレンザとアトリーシャが向かい合っていた。年は重ねていても二人きりになるのは避けて、部屋の隅には気配を消した侍女とサミーが控えている。侍女はアトリーシャ側の使用人だが、身のこなしからすると騎士並みに戦闘に長けた女性であるとすぐに分かった。アトリーシャがレンザに対して取り繕うことをしていないので、事情も知っているのだろう。
美しい透明感のある水色の紅茶に口を付けると、程良いジンジャーの香りが喉の奥から鼻に抜けて行くようだった。ほんの少しだけ垂らされた蜂蜜の甘い香りもあって、体全体があっという間に温まる気がした。
「これは我が家の者にもご教示いただきたい腕前ですね」
「まあ、大公家には優秀な方が多くいらっしゃいますでしょう」
「ここまでの味を引き出せる者はそうそうおりませんよ。いや、ご夫君が羨ましい」
「もしかしたら閣下の為にお茶を淹れる人生だったかもしれなかったですものね」
「やはりご存知でしたか」
互いに思わせぶりな会話は貴族の間ではよくあることだ。アトリーシャは社交界からはすっかり退いていたが、久しぶりに少しばかり緊張感のある空気感を楽しむように見事に完璧な形で口角を上げた。
「あの夜会では滅多に出席されない大公家のご当主様と次期ご当主様が揃っておられましたもの。それに、陛下から『後程話がある』と言われましたのに、結局何もありませんでしたから」
アトリーシャは当時の国王、現在は亡き先々代国王に随分可愛がられていた。それは息子の第二王子の婚約者であったからというのもあったが、年齢を重ねるごとに放蕩に傾いて行った彼の代わりに償いをしている意味もあったのだろう。
その日の夜会で、第二王子は他国の姫との婚約を発表し、アトリーシャとの長年の婚約は白紙になった。それは勿論突然のことではなく、前もって密かに根回しがされていたものだったので、アトリーシャも既に受け入れていた。そして夜会の後で国王から呼び出されるということは、今後の自分の縁談についての王命が下されるのだと理解していた。
アトリーシャは王子妃としての教育は全て修了していた。それが白紙になったので、王家の機密事項を他言しないように誓約を結んでいたが、彼女を廃人にする可能性が高くてももしかしたら王家の機密を入手することが出来るかもしれないという欲に目が眩んで暴挙に出る者がいないとは限らない。それにそれを除いても彼女の優秀さと美しさは国内だけでなく近隣諸国でも有名だった。稀少な人材をむざむざと奪われることも、壊されるわけにもいかない。
だからこそ慰謝料の一部として、アトリーシャには力のある高位貴族令息との縁談が王命でもたらされると承知していた。
しかしその前に彼女に一目惚れをした辺境伯だったディルダートが、衆人観衆の中で求婚紛いのことをしたため、その話は流れたのだ。そのディルダートを珍しく夜会に来ていた大公家父子が面白がって、纏めて保護するような形で囲い込んだ。それからアトリーシャがディルダートと婚約を交わして潔く辺境に嫁ぐまで、余計な横槍が入らないように大公家が手を貸してくれたのだ。
その中で、アトリーシャはうっすらと国王に薦められる筈だった縁談の相手が、当時大公令息だったレンザだったのだろうと予測していた。王子妃教育の中で大公家の特殊な立場は知っていたし、国内でも有数の大貴族だ。アトリーシャの身柄を守る為と、詫びとして紹介する縁談としてはこれ以上の相手はない。
しかし当の大公家が自身の縁談よりもディルダートの奇行を面白がって背中を押してしまったので、王家としてもまだ話をする前だったのでそのまま立ち消えとなったのだろう。その代わりとして、結婚式は王族しか使えない大聖堂で挙げる許可を出したり、異例の国王と王妃からの祝いの言葉を貰ったりしたことも納得が行く。ただ結果的には、アトリーシャは婚約直後にディルダートを追って辺境領に行ってしまったので大聖堂は使わなかった。
「ですが閣下のおかげでわたくしはこの上もなく良いご縁をいただきましたわ。感謝してもしきれません」
「そのようなありがたいお言葉をいただけるとは。墓参の折りに、父にも報告しておきます」
レンザは当時、父ムクロジから極秘裏に自分の縁談の相手がアトリーシャであることは聞いていた。第二王子の隣にいた数度挨拶を交わしただけの可憐な令嬢という印象しかなかったが、嫌悪感も抱かなかった。優秀な王子妃になるだろうと目されていたので、それが大公妃になったとしても問題なくやって行けるだろうと思っていた。
そんな縁がまだ始まる前だったので、レンザはその相手が他の者の元に嫁いでもそういうものだったかと淡々と思ったくらいだった。しかし長い時を経て再会して、レンザは改めて自分との縁談は成立しなくてよかったのだと実感した。
きっと、大公家ではこんな風に笑って話すこともなかったかもしれないと感覚的に理解したのだ。
「しかしまさか、ここに来て再びご縁が繋がるとは思いもよりませんでした」
「そうですわね。…その、レンドルフとは」
「ああ、彼は知らないことでしたね。私の孫娘と親しくしているようです」
「そう、でしたか。大公女様と…」
「友人としてですよ。あくまでも」
あまり表情には出ない方だが、ユリの話になるとレンザは自分の思っている以上に感情が出る。ほんの少しではあるが表面に浮かび上がって来た「面白くない」というレンザの感情をアトリーシャはしっかりと把握して、一瞬だけ目を丸くしてからフワリと微笑んだ。
「そうですわね。レンドルフも手紙に良い友人と出会ったと書いていましたわ」
少しだけ軽い意趣返しのようにアトリーシャがわざと「友人」と強調して言うと、レンザはとうとう眉間に皺が寄るほどに感情を露にしていた。どうやら自分は友人と主張したいが、レンドルフから孫娘を友人と扱われるのは複雑らしい。アトリーシャは、完璧な高位貴族らしいレンザにもこんな人並みの家族に対する情があるのだと思うと、急に気持ちの距離が近付いたような気になったのだった。
あまり筆まめではないレンドルフではあるが、両親や兄には定期的に近況報告を送って来ていた。幾ら守秘義務があってももう少し書きようがあるだろうと言いたくなるくらい毎回簡素な内容のものだったが、息子ならこんなものだろうとアトリーシャは思っていた。
長男のダイスは、婚姻前の妻ジャンヌへ毎日どころか日に何度も熱烈な恋文を送っては怒られて、その怒りを解く為の助言をアトリーシャに貰おうと長い手紙を送って来たり、次男のバルザックは日常の文言に隣国の様子を知らせる符牒を紛れ込ませた報告書を送って来るので必然的に長くなる。そんな特殊な上が二人もいたので、レンドルフが普通なのだと言い聞かせながら三行程度の手紙を夫と何度も繰り返し目を通していた。
けれどその簡素な手紙が変わったのは、近衛騎士団を解任されてしばらく経ってからだった。量としては三行から便箋一枚となり、一般的にはそこまで多くないがこれまでを考えれば飛躍的に増えた。内容はただ単に、「先日薬草採取に行った」「先週は果樹園に出向いた」と報告書に近いものだったが、その手紙と一緒に出先の土産などが送られて来るようになったのだ。
それを読んでアトリーシャは、レンドルフが騎士団に入団してほぼ任務と鍛錬で他に書くことがなかった為に三行で収まっていたのだと理解した。もう成人した息子なのだから、自分で望んでそう過ごしているならとやかく言うことはないと思いつつ、今更ながらやっとレンドルフが人間らしい生活を手にしたのだと思うと感慨深いものがあった。その切っ掛けが近衛騎士団からの理不尽な解任劇だったのは未だに納得はしていないのではあるが。
手紙には、薬師見習いの「友人」がよく登場していた。その相手のことは名前すら書かれていなかったので年齢も性別も分からなかったが、何となく年の近い女性だとはアトリーシャは察していた。そしてその文章の隙間から、レンドルフがその友人のことを大切に思っていることが滲み出ていた。アトリーシャは末の息子の遅い春の気配に心を躍らせながら、決して急かすような真似はしないようにとディルダートやダイスにそれはもう丁寧に釘を刺しておいた。
一応相手のことはアトリーシャとしても気にはなったが、もう少し進展するかを見極めてから実家のデュライ伯爵家の子飼いの諜報員に調べさせればいいと思っていたのだ。王族や高位貴族は「影」と呼ばれる諜報員をそれなりに抱えているが、距離的にも政治的にも遠いクロヴァス家にはそういった子飼いの者は存在しない。一応兼業で諜報を担当する配下はいるが、どちらかと言うと隣国に目を向けている。王都から遠い辺境領では、注意すべきは国境の森と隣国の方が重要なのだ。
しかしまさかそのレンドルフの言う大切な友人が、大公家唯一の直系で、掌中の珠と呼ばれる姫だとはさすがにアトリーシャでも夢にも思わなかった。
(なかなか茨の道を選んだものね…)
噂では大公女は病弱で後継教育を施すには無理があり、後継は分家から養子を迎えるか、優秀な婿を取るかと目されている。レンドルフは家柄や血筋からすればどんな相手でも望むことは出来るだろうし、いざとなればアトリーシャが密かに手助けすることも出来る。けれど大公家となると話は別だ。
当人達の気持ちを優先してやりたくても、政治的な柵からは切り離せない程にアスクレティ家は大きいのだ。アトリーシャがどんなに贔屓目に見ても、レンドルフの政治的な能力は頼りない。いまのところ、レンドルフに出自を知らせていないのはその辺りもあるのかもしれない、と彼女は内心そっと溜息を吐いた。
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「…少し曇って参りましたね」
「ええ。ですが、これでしたら雪にはなりませんわ。却って反射が少なくなって探索が楽になります」
「そうでしたか。いや、やはり付け焼き刃の知識では分からないことが多いものです」
「わたくしの自慢の旦那様と息子です。必ずご希望に添えてみせますので、落ち着いてお待ちくださいな」
朝は青空が見えていたが、今は少し薄い雲が空全体を覆っていた。このまま天候が崩れるのではないかと心配げに空を見上げていたレンザに、アトリーシャは余裕たっぷりに答えてみせる。これはもう人生の半分以上ここで暮らして来た彼女の方が一日の長があるという余裕だ。
この土地に嫁いで来たばかりの時は雲の流れ一つに不安にさせられていたが、土地に根差す領民達がどの教本にも載っていない生きる術をひとつひとつ丁寧に教えてくれて、アトリーシャの不安を取り除いてくれた。勿論、今も討伐に出る夫や息子、孫達を見送る時は心が揺れる。しかしそれを覆い隠してどっしりと構えて彼らの帰りを待つだけの力は、十分にアトリーシャの中で根差している。
「その…大公閣下。お手紙にありました『高貴な方』と言うのは…大公女様、でよろしいのですね?」
「はい、その通りです。表向きは第一王女殿下とされていますが、その身代わりになったのが私の孫です」
「そうでしたか…閣下が直接こちらにいらしたのはそれで納得が行きましたわ」
大公家も王家とは近しい間柄ではなくても一応家臣として仕える立場を維持している。けれど当主が直々に薬草を探しに行くことは、たとえどんな忠臣でも通常はありえない。大公家程の大貴族当主が秘密裏に動くなど、余程溺愛している身内が関わっているくらいだろう。
「では、あの子がお役に立てた際には、きちんと正しい報賞を下さいますわね?」
「ええ、勿論。…とは言え、それを渡すのは少し先のことになるでしょうが」
「お約束さえいただければ構いませんわ」
ほんの一瞬ではあったが、アトリーシャの顔は子を守る母の獰猛さを見せた。儚くたおやかな白百合に喩えられる美貌はかつてのままであったが、内面は辺境で生きる者の強さを見事に身に付けている。
レンザは改めて、未だに辺境最強の名を冠している男の妻もまた最強なのだ、と思ったのだった。
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「フォーリハウンド…でしょうか」
「いや、これは魔狼だな。この足跡の少し下…ここにも爪があるのは魔狼だけだ」
「単独の魔狼ですか。はぐれものの若い個体ですね」
「そうだな。歩幅からするとそこまでは大きくない。これなら変異種ではなさそうだ」
雪の上についた足跡を検分して、ディルダートは僅かな差異で見分けるコツを教えていた。雪深い土地ならではの見分け方なのでいつ役に立つかは分からないが、知識があるのとないのでは大きく違う。
フォーリハウンドも魔狼も、どちらの魔獣も群れで行動することが多い種族だ。しかも賢く徒党を組んで襲って来るので、群れの規模によっては二人だけでは対処は難しい。しかし足跡は一体分だけだったので、そこまで問題はなさそうだった。どうやら群れから独立したばかりの若い個体と見られるので、それならば経験値が浅くそこまでの脅威ではない。むしろ賢いだけに不利なのを悟ってあちらが避けて通るだろう。
「見付けても深追いはするなよ」
「もう子供じゃありませんよ」
「そうだな」
ディルダートに言われて、レンドルフは苦笑して返すしかなかった。
レンドルフは子供の頃にディルダートに連れられて行った討伐で、経験の浅さから魔獣におびき出されて深追いして重傷を負ったことがある。その時の魔獣が魔狼だった。10人程の騎士達に守られるようにしていたレンドルフだったが、その中で一番弱い個体と認識されたのか、賢い魔狼にターゲットにされたのだ。幸運にも紙一重で辛うじて一命を拾ったレンドルフだったが、当人も周辺もその事件はトラウマになった。
「なあ、レンドルフ」
「はい」
「お前…その、これが終わったら王都に戻るのか?」
「そのつもりです。…バルザック兄上と同じことをおっしゃいますね」
「そ、そうか。はは…レンドルフがいいのなら…その、止めないが」
「ありがとうございます。父上や母上には心配をお掛けしました」
立ち止まったついでに持参して来た焼き菓子を口に入れ、魔石で雪を溶かした湯を啜っている時に、ディルダートもバルザックと同じようなことを言い出した。その言葉に、レンドルフは自分が家族に愛されているのだと実感して少しくすぐったいような気持ちになった。手紙でもいつも気遣ってくれ、件の解任劇の直後は随分と王城に苦情申し立ての書簡を出してくれていた。そしてタウンハウスで過ごしていたときは、クロヴァス産の品を随分と送ってもらっていたことを思い出す。
「俺は、良い家族に恵まれた幸せ者です」
「な、何だ、そんな当たり前のことを改まって」
「なかなか言う機会もありませんでしたので」
「そういうのは、手紙に書いて形に残してリーシャに送ってやれ」
「それは…ちょっと照れくさいです」
「むう…気持ちは分からんでもないが、リーシャが喜ぶ」
「考えておきます」
いつまで経っても妻を思う父親に、レンドルフはいつか自分にもそういう相手が現れるのだろうか、と考えていた。それと同時に、頭の片隅に濃い緑色と金色が横切ったような気がしたが、それをディルダートに悟られないようにレンドルフは慌ててカップに残った湯を飲み干したのだった。
お読みいただきありがとうございます!
レンドルフ達にトラウマを植え付けた事件は「158.レンドルフの黒歴史」でちょっとだけ触れられています。