403.大公家とクロヴァス家の忠誠心
ハリはレイ神官長に横抱きにされたまま、通常なら入れない通路を人目を避けて運ばれて、本来の目的であった特別室の前に来ていた。その後ろには治癒院の職員に扮した大公家の中でも特に精鋭と呼ばれる護衛が三名と、副院長セイナ・ハイダーが続いている。
「ホンマに大丈夫なんでしょうね?」
「今の彼は加護しか使えません。それに何か怪しい動きがあれば私もろとも強制的に排除していただいて構いませんよ」
「そんなん簡単に出来る訳ないやないの」
「ノーイ治癒士長。失礼ですよ」
「はぁい、わかりましたぁ。ハイダー副院長ぉ」
特別室の前には、白衣姿のアキハが待ち構えていた。普段はきちんと纏めている髪がこころなしかボサついているのは、休憩中に来訪したハリの対処にあちこち走り回っていたせいだろう。しかしその甲斐あって、ちょうどユリの治療方針について治癒院に来ていたレイとセイナが話し合いをしているところにアキハが押し掛けて対処が間に合ったのだった。
ハリがユリに何をするつもりかの目的は分からないが、少なくとも大公家の許された者以外はユリに近付くことは阻止しなければならない。しかしハリは幼いとは言え聖人認定を受けた天才児で、加護の他にも上位の魔法を使いこなす。レイがいなかったら後手に回ってユリの特別室に到達していたかもしれない。
レイはアキハの報告を聞いて、治癒院に保管されていたせん妄状態の患者を拘束する魔道具に自分の魔法を重ねがけして、通常ではありえない程に強力な拘束の魔道具を即席で作り上げた。そして隙を見てハリにその魔道具を装着し、レイの希望で今のユリの状態をハリに確認させるように連れて来たのだった。
「目的は聞き出しとらんの?」
「これは自分の魔力で自身の行動を制限させる魔道具ですからね。喋るのもままならないものですから」
「…ちっ」
レイの答えにアキハが小さく舌打ちをしたが、完全に隔離された特別室は外の音も遮断されているのでその場にいた全員がハッキリと音を拾っていた。しかしおそらくレイ以外の大公家側の人間は全員同じ気持ちだったので、それは敢えて指摘しないままだった。
「魔力は使えませんが、加護は使えます。聖人ハリ、貴方のその目で軽率に行ったことを見届けなさい」
部屋に入る前に、抱きかかえたままのハリに向かってレイは微笑みながらもどこか底冷えのする目で見下ろした。ハリはあまり自由に体が動かせない様子だが、表情で明らかに怯えているのが見てとれた。
「お嬢様に何か異変がありましたら即座にブチ殺します。聖人だろうが神官長だろうが関係ありません。そのお覚悟はよろしいですね?」
「ええ、構いません。何でしたらこの場で誓約でもいたしましょうか」
「要りません。小細工は無用です」
その横から、セイナがいつもと変わらない口調でサラリと物騒なことを口にした。彼女は仕事熱心で患者に対しては非常に愛情深く接する医師だ。その分厳しいことも口にするので一部の人間からは遠巻きにされることもあるが、基本的に頼りになる医師として患者には慕われている。そのセイナが物騒なことを口にするということは、相当お怒りだということは付き合いの長いアキハはすぐに理解した。こんなに彼女が怒っているのは、自分がユリの父から衆目の中で婚約破棄を宣言されたのを耳にした時以来だろうか、とアキハは妙に懐かしく思い出していた。
セイナは横に控えている護衛達にも「言質は取った」と言わんばかりに目線を送ると、彼らも軽く頷いてみせる。セイナを始め、ここにいる選りすぐりの精鋭達は腕だけでなく大公家への忠誠心もとびきりの忠臣達だ。ユリに何かあれば、警告や捕縛を一足飛びに省略して首を落としにいく者ばかりと言ってもいい。ハリにしてみれば途中で見つかったことは不運だったかもしれないが、もしこの特別室に単独で到達していたところを見つかったなら、問答無用で命はなかったかもしれない。
彼らの本気を視界の端で捉えたハリの顔色がいよいよ悪くなっていて、アキハは心の中でこっそりと「お気の毒様」とほんの爪の先程度の同情心を覚えたのだった。
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クロヴァス領に入り先代領主夫妻の暮らしている別荘のある街に馬車を進めると、普段は落ち着いた保養地らしい静かな街が騒然となった。
クロヴァス領は国境の森から捕獲して来た幼魔獣を育てて、人に慣れた騎獣として他領に斡旋することを主産業としている。だから王都などよりも街中で魔獣を見かける機会は比較にならないほど多い為、領民達はスレイプニルなどは見慣れている。しかし国内に二頭しかいない白い変異種のスレイプニルを筆頭に、六頭ものスレイプニルばかりが引いている馬車が街中を走っている光景など見たことがなかった。
その話を聞いた街中の人間が集まって来たのではないかと思う程、街道の両脇に人が詰めかけて来ていた。
『どうも、前領主様が本当に亡くなったのか相当気にしているようです。街でも黒の旗を掲げている家と、そうでない家半々くらいで』
街道には既に徒歩程度の速度でしか馬車が進めない程に人が集まっているらしく、馭者を務めているサミーから魔道具で周囲の様子を伝えて来た。それだけゆっくりと進めていると、サミーにも声を掛けて来るそうで、大分困惑したような声をしていた。
辺境領には中央からの貴族が来ることがまずなく、領主であるクロヴァス家の面々も領民達に混じって討伐に赴いたりするので距離が近く気安い関係だ。領政の一部を任せている代官も騎士上がりの者が多く、貴族然とした者を知らない領民も多い。一応彼らもそれなりに身分の差は認識しているのではあるが、魔獣の前に構っていられないということが日常的に起こるため、王都や他領よりも境目が緩いのだ。領主の一門のクロヴァス家もそのことが分かっているので不敬を咎めるようなこともしないし、分家の爵位持ちもそれに倣っている。
レンドルフが乗っている一番大きな馬車には大公家の紋が付けられているのだが、それを引く白いスレイプニルの方に注目が集まっていて気が付いていない者も多そうだった。互いに接触しないように気を付けてはいるが、不測の事態に供えて馬車はかなり速度を落としている。しかしこれ以上人を集めてしまうと避けられないで事故が起こりかねない。
「アレクサンダーさん。少々お見苦しいところをお見せしますが、しばしお許しください。目に入らぬよう、顔を逸らしてくださっても構いません」
「何をなさるつもりですか」
「この中で着替えてから領民と話をします」
レンドルフは自分が座っていた座席の下から、積んでおいてもらった弔事用の正装が入っているトランクを引っ張り出した。本来の予定としては、一旦近くの宿に入って旅の埃などを落としてから別荘に向かうつもりだった。しかしこのままでは随分と予定がずれ込んでしまいそうなので、レンドルフは馬車の中で正装に着替えて外にいる領民に顔を見せることにしたのだ。
母アトリーシャからの書簡によれば、父の訃報の訂正はレンドルフが到着してから六日後に大々的に行うとなっていた。領内でも、遺体の損壊が激しくて前領主だと思われるが確定ではない、程度の噂を流しているということだった。だから領内全体が喪に服しているという訳ではなく、半信半疑のまま通常通りの生活を送っているそうだ。そんな宙ぶらりんな状況であるので、見たこともない馬車に乗ってやって来た者に事情を聞きたくて集まってしまったのだろう。
「お手伝いしましょう」
「…申し訳ありません」
大型の馬車といっても、規格外に大きな体のレンドルフからすればやはり手狭になる。その中でどうにか着替えようと奮闘していたのだが、シャツの袖が絡まってしまってもがいていたのでレンザが軽く手を貸した。レンドルフは恐縮していたが、大公家当主に着替えを手伝わせたという事実を知ればそれどころではないだろう。
「さすがに鍛えていらっしゃいますね」
「恐れ入ります…職務ですので」
「あまり筋肉に左右差がないのは意識してでしょうか?」
「あ、ええと、はい。万一利き手が負傷した事態に備えて、というのもありますが、その方が長い目で見ると体の負担が少ないと、師匠のような方から教えをいただきました」
「確かに、私から見ても同じことを申し上げたと思います」
体にぴったりとしたインナー越しに、レンドルフの鍛え上げられた背筋がくっきりと浮き上がっている。薬師として医師程ではないが人の体を見る機会のあるレンザは、つい観察者の目でその広い背中を眺めて声を掛けてしまった。
レンドルフは右利きで、通常の人間では両手でも持ち上がらないような大剣を片手で振り回している。どうしても利き手の腕や肩が太くなってしまうのは避けられないが、それでも意識的に左手でも素振りを同じだけするようにしているので、その努力に気付いてもらえたことをレンドルフは嬉しく感じていた。
レンドルフは正騎士の正装に身を包むと、服と一緒に入れておいたワックスで前髪を上げて髪を軽く固めた。形の良い額と眉があらわになることで、より整った面立ちが強調される。特に今は自身の薄紅色の髪色なので、首から下を目に入れなければ男性にも女性にも取れる中性的な色香まで漂うようだった。もっともすぐに広い肩幅と分厚い胸板が嫌でも目に入るので、間違っても中性的には見られないのではあるが。
正騎士の正装は黒ではあるが慶事にも使われる。その際は肩などにつけるモールの色が違う。慶事や式典などの場合は、目的に合わせて様々な色が使用されるが、弔事や凶事などには白か鈍色が使用されることが一般的だ。時折領地の伝統で特殊な色を使用することもあるが、クロヴァス領は特に決まりはない。一応モールや装飾などは付ける位置や数が決まっているが、今は簡易的にそれなりに見えればいい、と肩と胸の辺りにだけ白のモールを付けておく。そして仕上げに黒地に白く家紋が染め抜かれた意匠のマントを肩から羽織る。このマントは、レンドルフが成人を迎えた際に家族からもらった幾つもの贈り物のうちの一つだ。幸運なことに、この黒いマントは今まで使ったことはなかった。頭の隅でいつか使う日が来るのは分かっていたが、まさか父の偽訃報で使うことになるとは思いもよらなかった。
「もう何年も戻っていないので、皆にすぐに分かってもらえるかどうかですね。兄達のように父にそっくりなら良かったのですが」
「大丈夫ですよ。そのご立派な風格はまさに辺境伯様のお血筋」
ハッキリと断言してくれたレンザに、レンドルフは少しだけ安心したような表情で微笑んだ。
かつてレンザがレンドルフの両親と顔を合わせたのは、かれこれ40年近く前のことになる。当時の若き辺境伯ディルダートは、見上げるような大男で勇猛果敢な騎士でありながら、一目惚れをした令嬢の前では顔を真っ赤にしてオロオロと謎行動を取る不器用な青年だった。社交界の白百合と名高い才媛の伯爵令嬢アトリーシャは、儚くたおやかな外見でありながらも肝の座ったところのある性分で、ディルダートが仕留めて持ち帰った魔獣を好奇心を隠さない様子でキラキラとした目で眺めているような令嬢であった。
そんな若かりし日の二人の顔しか知らないレンザだが、その息子であるレンドルフにもしっかりとその面影がある。男女の差はあれど、その優しげで整った面差しはアトリーシャによく似ている。そして肩幅と胸板、太腿の辺りが非常に発達している体型はディルダートの特徴にそっくりだ。レンドルフは更にそれを一回り大きくしたような体付きなので、髪色や顔立ちが違っても見れば誰もがすぐにクロヴァス家の系譜だと分かるだろう。
ユリから聞いた話だと、あまり家族と似ていないことを気にしていた様子だったが、レンドルフの中には間違いなくクロヴァス家の血が流れているのは一目瞭然だった。しかし自身ではそれが分かりにくいのかもしれない。
着替えを終えてレンドルフが外に出るということで、レンザが馭者達に魔道具を使って広い場所で停止するように指示を出す。
「お手伝いいただきありがとうございます」
レンドルフは軽く頭を一度下げて、躊躇いなく馬車の扉を開けた。ほんの一瞬ですぐに扉を閉めたが、これまでとは質の違う刺すような冷気が馬車の中にどっと押し寄せて来て、レンザは思わず身震いをしてしまった。扉が閉まる寸前に垣間見えたレンドルフの横顔は、普段の気をあまり張っていないふんわりとした空気感を消し去った貴族の顔をしていた。
(これは…またユリに苦情を言われてしまうな)
以前にレンザは「アレクサンダー」として正装まではいかないがきちんとした姿のレンドルフと顔を合わせている。その時にその様子を遠目で見ていたユリから、髪を上げたレンドルフを近くで見たかった、と少々むくれられたのだ。今回は更に正騎士の正装であるので、これを知ったらきっとまたユリにむくれられてしまうな、とレンザは思いつつも、早く報告してやりたいという気持ちになった。
それと同時に、冬用の正装とはいえ極寒に対応するようなものではないのに、その姿を見せる為に外套も羽織らずに躊躇うことなく外に出て行ったレンドルフの胆力にレンザは感心していた。いくらこの地で生まれ育ったとは言え、ほんの一瞬空気に触れただけでも怯んでしまいそうな桁違いの冷気の中に出て行けるのは大したものだ、と素直に賞賛していたのだった。
レンザはそっと身体強化を掛けて、外の様子を伺った。最初は少しだけ窓を開けようかと考えていたのだが、あの冷気で早々に諦めた。
どうやらレンドルフが外に出た為、周囲の喧騒が波が引くように静まって行った。その中に「末の若君」という囁き声が幾つも混じっている。どうやらレンドルフの心配は杞憂だったようで、きちんと多くの領民に認識されているようだ。
『これより本家別荘に事実確認に参るところだ。皆の心配や不安は分かるが、今はその為の大切な客人を案内している。すまないが、先を急がせてもらえないだろうか』
レンドルフの柔らかだが良く通る声が響くと、はっきり個別には分からないが、どうやら先が見えずに不安になった領民達がつい気持ちが逸ってしまったことに謝罪を口にしているような雰囲気だった。
他家の馬車の行く手を阻むような行為は褒められたものではないし危険も伴うものだが、それだけ前領主のことを慕っているが故の勇み足だと思うと、レンザは現領主として少しだけ羨ましくも感じた。レンザも王都に居を構えているものの、定期的に領地には顔を出して適切な領政が行われているかを目を光らせてはいる。決して憎まれているとは思わないが、ここまで領民に慕われているかというと肯定は出来なかったのだ。
それぞれの領主や領民の特性だと分かってはいるし、どちらが優れているということではないが、つい心の中で無い物ねだりをしてしまうくらいは許されるだろう。
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やがて馬車が一度大きく揺れたかと思うと、静かに走り始めた。
レンザはてっきりレンドルフが馬車に戻って来るかと思っていたのに、そのまま走り出してしまったのでギョッとしていた。どうやら人目の多い街中では馭者台に座るレンドルフの姿を見せることで、これから別荘へ前領主子息が向かっていると周知させるつもりのようだ。しかも外套を纏っていないので弔事用の正装も一目で分かる。先程のように心配になった領民達が詰めかけて来ることもないだろう。
しかしいくら寒さに強いとは言っても、外套も着ずにあの寒さの中馭者台に乗って風を受けるのは相当に辛いことなのは簡単に想像が付く。
レンザはレンドルフのことは騎士として優秀だが貴族としては少々頼りない性格だと考えていたが、こうして共に旅をして近くで見ていると、なかなかどうして貴族としての矜持も感じられることもあった。中央で辣腕を揮うまでではなくとも、一領主としてなら十分に治めていけるだろう。それに彼の人柄に引かれた優秀な部下が確実に集まるとレンザは予想する。現に、大公家以外には気を許さないような者達も、ユリが気に入っているということを差し引いてもレンドルフのことを気に掛けている。ユリに近付く者は誰であれ面白くないレンザも、レンドルフのことを気に入っているのは認めざるを得ない。
せめてこの寒さで風邪を引いてしまったら、手持ちで一番強力な丸一日舌が痺れて味が分からなくなるがすぐに完治する風邪薬を処方してやろうと、レンザは心に誓ったのだった。