398.毒の仕掛けと不可視の悪意
走っている馬車の扉の隙間から、白い紙製の鳥が入り込んで来た。それはレンザの周囲を飛び回っている。レンザが手を翳すと、その上に封筒が乗って鳥も一緒にただの紙になって落ちた。
「席を外しましょうか」
「いえ、そのままで。馬車を停めるのも惜しいですから」
レンザ宛ての手紙を運んで来た伝書鳥なので、レンドルフはなるべく視界に入らないように顔を窓の方に向けた。窓と言っても冷気が入らないように鎧戸のように分厚い仕切りが嵌められているので、外は全く見えない。
カサリという紙の擦れる音が耳に届いて、レンドルフは落ち着かない気持ちになる。他人の手紙を覗き見るつもりも詮索する気もないが、何かユリの容態について変わったことはないだろうかと不安に駆られてしまう。
心の奥で重りのように不安と心配が居座ってはいるが、四六時中気に病んでいる訳ではない。特に今はクロヴァス領への移動中で、出来ることは何もないのだ。いざと言う時に疲弊してしまわないように、表面上は何事もなかったように敢えて忘れたように振る舞っている。それでも何かあるとその不安が泥の中の泡のように浮かび上がって、そこに澱んでいた気持ちが巻き上げられて黒く染まるのだ。
どのくらい時間が経っただろうか。
カサカサと音が続いて、ゆっくりとはす向かいにいたレンザから静かな溜息が漏れた。
「レン殿」
「は、はいっ」
「ユリは大丈夫ですよ。まだ回復はしていませんが、悪化もせず小康状態を保っています」
「そ、そうですか」
レンザの言葉にレンドルフはいつの間にか力が入って少しだだけ上がっていた肩を落とした。と言うよりは、自身の肩が下がったことで初めてそれに気付いたような状態だった。余程張り詰めた空気を出していたのか、レンザが手を伸ばして労るようにレンドルフの肩を軽く叩いてくれた。
「ただ…」
「ただ?」
「王女殿下用の解毒薬の素材採取が難航しているようです」
「それは…」
「必要な薬草の側に、毒草が生えていたそうです」
明らかにレンザの声は苦々しいものだった。
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第一王女アナカナの解毒薬を作製する為、出来る限り鮮度と状態の良い薬草を採取しようと王城付薬師と共に近衛騎士と第三騎士団が合同で山中に入った。薬草園などで栽培しているものならば簡単に入手出来るが、人の手で栽培が難しい稀少な薬草は自生している場所を薬師ギルドで把握して、採取可能に生育するまで人が立ち入らないように管理をしている。採取する場合も、薬師ギルドから依頼を出して薬草の知識がある冒険者か薬師同伴で行くことになっていた。
今回も解毒薬で最も肝心な「カザハナノハナヨメ」も栽培が困難なために自生場所をギルドで把握している薬草の一つだった。雪の季節に咲く花が必要になるので、王都から近い採取場所を指定して騎士団を向かわせたのだ。しかしその場所に到着したところ魔獣が出没したのか根こそぎ踏み荒らされていたり、昨年までなかったのに毒草の中に埋もれるようになっていたりして採取が出来なかったらしい。
「カザハナノハナヨメ」は、強い浄化能力を有している薬草なので多少の毒草と混じっていても解毒薬の材料にはなるが、周囲の浄化に生命力を使ってしまったのか非常に効能の薄いものばかりだったのだ。
今のところ、王都から二、三日くらいの距離の標高の高い領地で、薬師ギルドの指示の元探しているそうだが、どこも結果は芳しくないと手紙には書かれていたそうだ。引き続き捜索の範囲を北方面に広げて採取に向かっているとなっていた。
「これは…誰かが意図的に、でしょうか…」
「だとは思いますが…しかしギリギリ不運が重なったかもしれないと言い切れなくもない、と言うところですね」
「そんなに何件も同時に起こるものなのですか!?」
「年にもよるでしょう。今年は雪が早かった為に冬眠が間に合わずに人里近くに降りて来る魔獣の目撃例も多いそうですし、異常繁殖する薬草や毒草も毎年違います。しかしこのタイミングで起こっているのは、やはり疑うべきでしょうね」
グゥ、とレンドルフが悔しげに喉の奥を微かに鳴らした。
実際に毒に当たって解毒薬を必要とするのはユリではあるが、表向きはアナカナが服用することになっている。王族であり、もしかしたら次々代の国王になる可能性の高い人物が使うのだから、素材集めから慎重になっている筈だ。しかしどこかでそれを阻もうとしている者がいて、しかもそれはかなり多くの者の協力が必要で、周到で根深く計画を立てていなければ効果のないものだ。
ユリの身に危険が及んでいることだけでなく、アナカナをそこまで排除しようとする動きがあることがレンドルフには許し難かった。
「何故…そこまでして…」
「王女殿下はまだ幼いですからね。それに今は国王陛下もご健勝でまだ治世は続くでしょう。その後は今の王太子殿下の御世になって次にようやく、ですからね。それまでに王女殿下を排除すればいいと、長期戦のつもりなのでしょう。だからあんな確率の薄い手の込んだことをしたのではないでしょうか」
「その、アナ様…王女殿下に盛られた毒とはどういったものだったのでしょう。王城から持ち込まれたとは伺いましたが、王族の持ち物は厳重に管理されているのでは…あ、いえ、アレクサンダーさんが言えないなら」
「ハンカチの刺繍糸に仕込まれていました」
「しっ…」
まさかそんなところにと思うようなものをレンザに告げられて、レンドルフは絶句していた。警備の厳しい王城内で一体どうすればそれを見つからずに仕込めるのか、レンドルフからは想像も付かなかった。
「レン殿は、『ハットジェリー』をご存知ですか?」
「ええと…申し訳ありません、存じ上げておりません」
「敬語を使う必要はありません。それはクラゲです。毒を持つ海の魔獣の一種ですよ。クロヴァス領は海に面していませんからご存じないのも無理はありません」
「クラゲ…透明なフワフワした生物でしょうか。以前水族館に護衛で行った際にチラリと見ました」
確かアナカナの視察と言う名の遠足に同行した時に、彼女が随分熱心に幾つかの水槽の前に貼り付いていた。その中の一つがクラゲだったとレンドルフは思い出していた。
「その『ハットジェリー』は、触手に特殊な仕掛けを持つ毒クラゲなのです」
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ハットジェリーは透明な帽子のような形をしているクラゲで、体長が数十センチから数メートルになる魔獣の一種と言われている。そして本体の数倍の長さを持つ触手を持っていて、そこから毒を獲物に注入して動きを封じ魔力を吸収する性質を持つ。
このハットジェリーの最大の特徴は、自立行動が出来ないことにある。ただ海流に流されるように漂い、長い触手に獲物から触れて来るのを待って補食するのだ。しかしその分、触手に特殊な仕組みが備わっており、接触した際の刺激と相手の魔力に反応して自動的に毒針を射出する。研究者の論文には、魔力を持たない物体が触れても、魔力を持つ者がごく近くに寄って来ても反応はなく、接触と魔力の条件が揃って初めて反応があると記されている。
そして獲物に刺さった針から毒を注入し、麻痺させてそこから魔力を吸い出す。獲物から魔力が全て奪われると針は再び自動的に収納されて、獲物は海流に乗って流れ去って行くのだ。
この一連の動作は、全て本体の意志とは関係なく自動的に行われる。この性質から、ハットジェリーは生物であるのか魔力を収集する古代遺物なのではないかと長らく議論されていた歴史がある。一応現在では生物の枠に納められている。
この生物が数メートルに成長し、触手が数十メートルに及べばかなりの脅威になりそうなのだが、そこまで成長してしまうと自重で海流に乗ることが出来ず大抵は海底に沈んでしまう。そこでは獲物を補食することが出来ず朽ちて行くか、毒の触手を避けて本体を別の生物が食べてしまうそうだ。餌が少なく生きることが過酷な海底で、動かず攻撃して来ることもないハットジェリーはそこに棲む生物には恰好の獲物になるのだ。ある意味生物界のシステムとしてよく出来ていた。
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「しかしながらその触手が厄介で、本体の死後もその仕掛けだけは残っているのです」
本体が死んで触手のみになっても、接触と魔力を感知すると針を射出する機能は残される。さすがに長い時間が経つと毒は補充されずに海に流れて行ってしまうし、魔力を吸い上げる力は無くなってしまう。しかし針の中に残っている液体を注入する機能だけは装置として残り続けるのだ。
「本体の死んだ触手を毒を混ぜた染色液に漬けて乾燥させ、刺繍糸と混ぜ込んでいたようです。クラゲは水棲生物ですから、水分がなくなると針の機能も動かなくなります。しかし死んで尚仕掛けは残っている。そこに再び水分を与えれば」
「ハンカチの刺繍糸ならば、水に触れる機会もある…」
「その通りです」
その刺繍糸に紛れ込ませた触手にはごく薄く水で溶けるコート剤が塗られていて、ハンカチを納品する前に掛けられる浄化魔法にも残り、毒の僅かな香りを嗅ぎ分けるユリですら気付けなかった。ユリが初めて気付けたのは、アナカナが零してしまったお茶を拭いてコート剤が溶けてからだった。
まず刺繍糸に紛れ込ませ、それが王家御用達の商家の持ち込んだ刺繍入りハンカチとなってアナカナが使用するところに辿り着くまで、どれほどの行程を要するのか。それこそ気の遠くなるような手間の割に確率の低い賭けだ。それに、アナカナの手元に届かず別の者の手に渡って、被害者も多数存在しているだろう。
しかし、アナカナにも僅かにミュジカ科の毒を投与された痕跡が見られたのだから、その賭けは確実に小さな勝ちを積み重ねていたのは間違いがない。これが数年単位で積み重なっていたら、或いは他の毒などと複合されていたら、原因不明で発覚が後手に回って手遅れになっていた可能性は高い。
今回ユリの身をもって判明したので、そのおかげでアナカナは一命を取り留めたようなものではあるが、それでもそれを美談として受ける程の忠心はレンザにはない。
「私はその場には居合わせませんでしたが、話によると王女殿下が迂闊に零した飲み物を拭いた時に、ユリが毒の香りに気付いたそうです。そしてその大元であるハンカチを取り上げ…針が刺さってしまったのです」
「何てことだ…」
「そんな針の仕掛けがあるとも思わなくとも、素手で触れてしまったユリにも落ち度はありました。あの装身具を起動させていたので、大丈夫という慢心もあったのかもしれません」
「で、ですがそれは!それは殿下を身を呈して庇ったという讃えられる行動です!それに責任はユリさんではなく、毒を仕掛けた者で」
「大丈夫、分かっていますよ」
思わず声が大きくなってしまったレンドルフに、レンザは薄く微笑んで軽く首を振った。レンドルフは自分よりもユリのことを理解しているであろう身内に向かって言う言葉ではなかったと気付いて、ハッと息を呑んで慌てて頭を下げた。
「差し出たことを言いました」
「…貴方が私の孫のことを大切に思い、心配してくれていることは十分理解していますよ」
ほんの少しだけレンザは目元を緩めるような表情を見せたが、しかしすぐに厳しい表情に変わる。
「けれど薬師を目指す以上、その慢心は許されないことです。薬師とて多くの人の命を預かることもあるのです。誰であれ毒から人を救ったことは立派なことと評価はしますが、ユリにはもう一度その基本から厳しく教え直す必要がありそうですね」
「そ、その…アレクサンダーさん、お手柔らかに…」
「勿論」
レンザの薬師としての厳しい一面を見て、レンドルフは困ったようにそっと話掛ける。それに対してレンザはニコリと微笑んでみせたが、それでもどこか鋭利な雰囲気はそのままだった。
「目覚めたらまずはたっぷりと甘やかしますよ。私の大切な姫君ですから」
レンドルフは「まず」と言うことはその後が大変なんだろうな、とは思ったものの、それ以上言うことは出来ずに無言で頷いたのだった。
お読みいただきありがとうございます!
ハットジェリーはカツオノエボシのイメージです。