396.胸の奥の痛み
「本日のお茶はお庭に用意いたしました。天気もよろしいですから、気持ちが良いですよ」
「すまぬのじゃ」
「…『リョバル』様」
「ぅ…ありがとう、なのじゃ」
立入り禁止区域に勝手に入り込んで毒草に触れてしまったことで研究施設に隔離になっている…という態になっているアナカナは、周囲の喧騒の届かない場所で既に半月、これまでにない程のんびりと静かな日々を過ごしていた。王城に処遇を連絡したその日の深夜に人目を避けて無事にエイスの街の近くにある大公家別邸に移動したが、上手く誤摩化せたらしく周囲に王家の影の気配はなかった。あれから王城側から再三アナカナの顔を見せろと要請が来ているようだが、万一のことがあってはならない、と突っぱねているとアナカナは聞いている。
別邸に着いたアナカナは随分気落ちしていたようで、用意された客間から一歩も出ずに食事も部屋で済ませていた。が、さすがにこのままでは体に悪いということで、当主不在の留守を預かっている執事長の判断で邸内の共有エリアと図書室、外に接していない中庭を散策することを許可した。しかしそれでもアナカナは殆ど部屋から出ず、せいぜい図書室と客間を往復するだけの毎日だった。
その様子にとうとうメイド長から雷が落とされて、アナカナがベソをかきながら庭を散策している姿が見られたのは数日前だ。その際に「何かしてもらった時は感謝を述べるものです」と叱責されていたのを、一部の古い使用人達は懐かしさを覚えつつ、アナカナに少しだけ同情していた。
そのメイド長の叱責は、引き取られたばかりのユリにもよく向けられていた。メイド長は厳しく恐ろしいが、それと同じだけ愛情に満ちた人物なのは皆が知っている。それが向けられている当人は恐怖かもしれないが、しばらく後に彼女の深い愛情を知る日が来るのだ。
最初から愛情を向けられない人間は叱責すらされないのを知っているので、色々複雑ではあるが間違いなくメイド長はアナカナを気に入っているのだと誰もが分かっていた。
別邸にいる時のアナカナは「リョバル」と呼ぶことになった。扱いも「異国出身の貴族令嬢」として、決して王族に対する態度はとらないように使用人間で通達されている。基本的に別邸の中にいる限り外部との接触はないが、何が切っ掛けで漏れるかわからないので徹底させていた。
「外に便箋を持って行っても良いかの?おじじ様に報告書を書くのじゃ」
「畏まりました。準備させましょう」
「す…ありがとう。便箋は任せたのじゃ」
アナカナは膝の上に乗せていた図鑑をぱたりと閉じて、両手で抱えて「よっこいしょ」と呟きながらテーブルの上に乗せた。大きく重い図鑑は持ち運びに向かないので、続きはお茶の時間の後にすることにした。
別邸で過ごすアナカナには特にすることはない。決まった時間に不味い解毒の薬湯を飲みさえすれば、他にすることは何もないのだ。もしアナカナが年相応の子供であったら色々と行動制限の為の見張りが付いただろうが、中身が半分以上前世の記憶が占めているので行動も分を弁えていた為、大公家からの見張りは最低限で済んでいる。実に手の掛からない子供だったのだ。
それに王城にいた時もアナカナはほぼ同じ年代で学ぶところは修了していたので、本を読んだりお忍びで食べ歩きに出たりして比較的自由には過ごしていたのだ。あるとすれば、公務と称した視察の遠足のようなものくらいだ。しかしそれも一度暗殺されかけて以来、機会は殆どなくなっていた。それを考えれば、今の状況と大きく生活が変わった訳ではなく、むしろ王城にいる時よりも安全が保障されているかもしれなかった。少なくとも食事については、ミズホ国風の食事を好むと伝わっていたのか文句なく口に合った。うっかり食べ過ぎて王城に戻る頃には太っているかもしれないので、アナカナは今からその言い訳を考えている。
外に出ると、王城よりもヒヤリとした風が心地好かった。整えられた芝生に反射する光も随分柔らかくなって、庭園の向う側に見える落葉樹が少しだけ赤く染まり始めている。王都内で王城から最も離れているエイスの街は、中心街よりも季節の進みが早い。
見晴らしの良いガゼボにはすでにお茶の用意がされていて、給仕をするメイドと従僕、そして更に離れたところには護衛騎士の姿も確認出来た。テーブルの上には、アナカナ用に通常よりもはるかに小さなサイズのスイーツが並べられていて、そこは花が咲いたかのようにカラフルでキラキラしていた。
(…みんな、ユリのことを心配しているであろうに…優しさが申し訳ないのじゃ…)
今が旬の葡萄をふんだんに使用したミニタルトには、種類の違う葡萄が半分に切られて食べやすいように種も取り除いて乗せてある。瑞々しい酸味とトロリと甘いクリームが口一杯に広がるのを堪能する。取り分けてもらったスイーツをムグムグと咀嚼しながら、美味しさを堪能すると同時にアナカナはついそんなことを考えてしまう。
アナカナは大公家と王家の間に絶対に埋まらない溝があるのは理解していた。しかしユリの優しさに付け込んで、懐かしい前世の味を得る為に強引に理由をつけて研究施設訪問を認めてもらったのだ。しかしその結果が、ユリの命を危険に晒してしまった。そのおかげで自分に密かに盛られていた毒が判明もしたが、アナカナとしては手放しで喜ぶことは出来なかった。
それに大公家の大切な姫に危害が加えられたのに、その元凶を保護してこうして優しく扱ってくれるのはあまりにも申し訳ないという気持ちが先に立っていた。
別邸の使用人達は、詳細はともかく第一王女に盛られた毒をユリが代わりに受けたことは知らされている。そしてそれが公になると国を越えた問題が発生するため、うっかり毒に触れてしまったのはあくまでも王女だということにして保護していることも分かっている。
ユリのことを第一に考えている者ばかりを厳選している別邸の使用人達は、その知らせに皆一様に王家に対して、そしてアナカナに対して憤りを感じたのだが、やって来たアナカナを見てほぼ全員が振り上げた拳の下ろしどころに困ってしまったのだ。
実際に目にしたアナカナはあまりにも幼く、今にも泣き出しそうな潤んだ瞳をしながらも必死に堪える為に唇を真一文字に引き結んで、握りしめた手はプルプルと震えていた。そしてしっかりと使用人全員の前で頭を下げたのだ。
本来王族は簡単に頭を下げては行けないと言われている。しかし躊躇いもなく頭を下げて気丈にも謝罪とユリへの心配を口にしたアナカナに、皆は怒りの気を削がれてしまった。それに冷静に考えれば、アナカナが毒を盛ったのではなく盛られた立場だ。ユリはそのとばっちりを受けたに過ぎない。むしろ「こんなに幼女に」という形で誰か分からない犯人の方に怒りが向けられた。
勿論複雑な思いを抱くのは変わらないが、少なくとも彼らはアナカナ個人に対しては別邸にいる限りきちんとお仕えしようという気持ちを固めていた。
(ええと…『皆、親切で優しくて、おやつも美味しいです』……他書くことがないのじゃ)
アナカナはついでに用意してもらった便箋で、祖父の国王に向けて毎日無事を伝える手紙を書いているのだが、基本的に変わらない日々を過ごさせてもらっているので既に書くことが尽きていた。それにあまり詳細を書いてしまうと、アナカナが研究施設にいないことが分かってしまうのでどうしても無難な内容になりがちだった。
国王からの返信は、アナカナが保護された翌日に一度来たきりだった。それもアナカナも知っている祐筆の手蹟だ。こればかりは誰に見られるか分からないので。王族である以上仕方ないことだとアナカナも理解していた。ただアナカナの方から毎日手紙を送るのは、自身の無事を知らせる為である。もしこれでアナカナからの連絡が途切れれば、王女の身に何かあったのではないかという懸念を抱かれて、研究施設の存在に反対している勢力に責められかねない。
アナカナが送っている手紙も、本当に本人が書いているか、無理に書かされていないかどうかしつこく精査されていることは予測が付く。
アナカナは手紙を書きながら少しだけ両親のことに思いを馳せた。祖父の国王が代表して返信を寄越した以上、政治的な意味がなければ王太子夫妻が送らなくてもべつに問題はない。
けれど。
と、アナカナの心の一部がツキリと痛む。生まれてから王族として育てられた記憶しかなければ、そういうものだと疑問にも思わなかったかもしれない。しかし不完全でも前世の記憶があるアナカナは、かつての幼い自分が体験した温かな家族の感覚が残っていて、それが心の底で疼くのだ。顔も思い出せないぼんやりとした記憶だが、時折「寂しい」と泣いているもう一人の自分がいた。
書いていた手が止まってしまったアナカナは何度か瞬きを繰り返し、それからグッと奥歯を噛み締めているような顔になって最後の一行をしたためた。
『元気になって、皆様とお会いしたいです』
記名をして締めくくると、アナカナは便箋を脇に避けてインクが乾くまですっかりぬるくなった特製ハーブティーをそっと啜ったのだった。
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少しだけ道に雪が残り始めるくらいに北上した頃、レンドルフはブーツに着いた雪を払いながら馬車に乗り込んだ。馬車の中は快適な温かさで、何か書物を読んでいたレンザがそれを閉じてレンドルフに笑顔を向けた。
「寒くはありませんでしたか」
「ええ、このくらいなら全く。まだしばらくは好天が続きそうですので、順調に進めそうです」
少しだけ我が儘を聞いてもらって馭者を務めていたレンドルフは、小休止を終えて馬車の中に戻った。耐寒防水の付与を掛けた手袋をしているので、手がかじかむことは全くない。まだ本格的な雪道ではなく寒さに強いレンドルフは顔を覆うマスクはしていなかったので、少しだけ冷たくなった鼻先が赤くなっていた。
「如何でしたか、白いスレイプニルは」
「素晴らしいの一言に尽きます。クロヴァス産も良い個体は揃えていますが、別格ですね」
レンザが尋ねると、レンドルフは少し興奮気味に防寒着を脱ぎながら答えた。この国では国王と大公家だけが所有している変異種のスレイプニルだが、走りの安定感と足腰の強さが手綱から伝わって来ていた。白のスレイプニルは俊足だと有名だが、それ以外の能力の高さも惚れ惚れする程だった。他のスレイプニル達も上手く先導するので、手綱を握っていてもすることがない感覚だった。
「あの白のスレイプニルは、一時期お父上が大公家から借り受けていたのですよ」
「そうなのですか!?ああ、それは羨ましいですね」
「その話をお父上はされなかったのですか?」
「それは多分、兄二人に自慢し過ぎて母に禁止令を出されたのだと思います。父の武勇伝を真似て兄達が色々やらかしたという話は聞きましたから」
レンドルフとは親子程歳の離れた兄達なので、物心ついた時には二人ともすっかり落ち着いていた為、一緒に悪戯をしたりやんちゃで怒られたりした記憶はない。長兄はむしろ色々やらかす甥達をガツンとお仕置きする側だったし、次兄は成人してすぐに隣国に婿入りしたので一緒にいた期間は短いのだ。ただ、ずっと長く務めている使用人達から何となくは聞いていた。
レンドルフは幼い頃は一族の中で一番小さくて華奢だったので、そこまでのやらかしはしたことがなかった。
順調に馬車は進んで行くので特にすることはなくて、レンドルフは乞われるままにクロヴァス領での話や家族の話などをレンザに語った。以前にユリにも話した内容も含まれていて、もしかしたら聞いたかもしれないがレンザは楽しげに耳を傾けてくれていた。
「辺境領の方々は北も南も家族仲が良いと聞き及んでいましたが、噂に違わぬようですね」
「そう、ですね。南のバーフル領は話にしか聞いてはいませんが、どちらも自然環境が厳しい土地柄なので、人との協力が不可欠だからなのではないでしょうか」
レンドルフには南の辺境領出身の友人がいたが、彼が起こした事件は未だに許し難いと思っている。だが決して許せるものではなくとも、それでもレンドルフは元友人の不幸を望む程憎み切れなかった。彼は罪を償う為にバーフル領に引き取られ、もう二度と会うことはない。そのことを思うと、レンドルフの胸の奥が微かに痛みを覚えた。
「人同士ですから、合う合わないはあります。でも、合わないからと言って互いに足を引っ張り合うだけの余裕がないのです。そんなことをしていたら少なくともクロヴァス領で生き残るのは難しいですから」
「どんな人間でも協力しあうと?」
「さすがに向こうが拒絶して来たら場合によっては難しいかと思いますけれど、こちらからは可能な限りは」
「もしそれが、人に忌避されるような者だったとしても、でしょうか」
「人に忌避…ですか?」
レンザの質問の意図が掴めず、レンドルフは幾度か目を瞬かせた。
頭の中で「忌避されるような人物」を思い浮かべてみたが、浮かぶのは襲って来るような犯罪者ばかりで、そもそもそんな人物とは協力をしようとは思わない。騙して協力を求められれば引っかかってしまうこともあるかもしれないが、発覚した時点でレンドルフは制圧側に回る筈だ。
具体的な人物像が思い浮かばず首を捻っているレンドルフを見て、レンザは探るように少しだけ目を細めた。
「例えば、『加護無しの死に戻り』だったら…?」
お読みいただきありがとうございます!
一応設定として決めてありますが、物語の中で出て来るかは未定なので補足を。
アナカナは別の魂を押し退けて今の体に憑衣した異世界転生ではなく、最初からそこに入る予定だったものなので、追い出されてあぶれてしまった魂や乗っ取られて消滅した魂は存在しません。前世の記憶が残った最大の要因は、前世が入院はしていたものの予想外のぽっくり死だったのと、転生先が三ヶ月ほど早産だった為に魂の初期化が間に合わなかった影響がある為です。