390.北の熊が死んだ
翌日、朝から王城に務める重職に就いている者達が玉座の間に集められ、国王からの言葉が述べられた。
第一王女アナカナが、キュプレウス王国との共同研究施設への定期訪問を許された初日、契約を破って立入り禁止区域に侵入、研究中の毒草に触れてしまったとの報であった。それを耳にした者達は様々な様相ではあったが、さすがに高位貴族ばかりであったのでさほど態度には出ず、その場はアナカナを案じるざわめきで埋め尽くされた。一応続けてアナカナの命に別状はないことと、まだ研究中の品種である為に慎重を期して完全に解毒が確認されるまでは研究施設の一角で入院という形でアナカナを預かることとなった、と説明されたのだった。
それは特に箝口令を敷いた訳ではないが、王族の失態ということで大半の忠臣は口を噤んだ。しかし全てという訳ではなく、王城内に務めるメイドの中にもアナカナの不在を訝しく思った者もいた為、その日の午後には噂として静かにアナカナが何かをやらかした、という程度の情報は王城内にかなり広まっていた。
勿論その中には、女王反対派がこれ幸いとばかりに色々と尾鰭を付けていたが、大半はさすがに幼い王女を心配する声が大半を占めていた。
しかし同日の昼過ぎ、そんな噂も吹き飛ばすほどの激震が王城内を駆け巡った。
北の国境の森で、魔獣討伐に赴いていた前辺境伯ディルダート・クロヴァスが討死したという報が入ったのだった。
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北の辺境領の前当主ディルダートは、赤い髪に赤い瞳、そして赤く濃い髭をたくわえた偉丈夫で知られ、「辺境の赤熊」「辺境最強」と名高い人物であった。当主の座を息子に譲り引退したものの、その腕前は衰えることがなく、孫のいる年齢になっても未だに辺境騎士団の先頭に立って国防の最前線で無類の活躍で名を馳せていたのだ。
その最強のディルダートが魔獣に襲われて命を落としたとあって、まさか魔獣の大暴走が起こったのではないかと情報が錯綜したが、詳しいことは分からないまま前辺境伯の死のみが確定情報としてあちこちに出回っていた。
レンドルフも、昼食後に冬遠征に備えて雪山用の外套や靴などの付与を確認していた時に、実家からの緊急用の伝書鳥を受け取った。それは特別に速い伝書鳥で、通常ならば二日程度掛かる辺境領からでも半日で届くもので、余程のことがない限り使われることはない。それを受け取った瞬間、レンドルフの手の中に白い縁取りの黒い封筒が乗ったことで、瞬時に顔が強張った。丁度準備を一緒にしていたショーキ達同じ部隊のメンバーも息を呑んだ。
その黒い封筒は、身内に凶事や不幸があった時に送られることが一般的だ。封蝋を確認すると、間違いなく故郷のクロヴァス家の印章が押されていた。
「急ぎ確認するといい。知られたくないことならば部屋に戻っても構わない」
「いえ、この場で確認します」
隊長のオスカーがすぐにそう言ってくれたので、レンドルフは備品に置いてあったペーパーナイフを手に取った。談話室の中は静まり返って、誰もが緊張した面持ちでレンドルフの手元を見つめていた。
(落ち着け)
すぐにペーパーナイフで封を開けようと隙間に差し込もうとしたが、その切っ先が滑ってしまって封蝋の上に幾筋か引っ掻き傷を作ってしまった。レンドルフはほんの少し目を閉じて、何度か深呼吸をする。暑い訳ではないが、こめかみの辺りにジワリと嫌な汗が浮かんでいる。
ようやく隙間に刃を入れて封を開くと、中からやけに波打っている便箋が入っているのが目に入った。そっと便箋を開くと、所々、どころか半分以上コップの水でもぶちまけたのかと思うほどに明らかに濡れて乾いた跡でシワシワになった手紙が現れた。濡れたところからインクが滲んで、更に補正しようと上から書いた為に余計に滲みが広がって悲惨なことになっている。しかもその独特の文字は間違いなく長兄ダイスのものだった。
普段はあまりにも悪筆なので祐筆に任せているが、当主の直筆の手紙ということは本当に重要な内容なのは間違いがない。
「…父上が…」
そこに書かれていたのは、レンドルフの父ディルダートの死を告げるものだった。
当主の身に何かあったのであれば、すぐに国王宛に報せが行く。しかしもう引退した前辺境伯なので、直系のレンドルフ、母方の親類、そして学生時代から親交のあったノマリス前伯爵辺りに届けられているだけだろう。
レンドルフはすぐに報告をすべく、副団長ルードルフがいると思われる執務室へと向かった。
(父の遺言か…しかしこのタイミングは…いや、偶然が重なっただけか…?)
読みにくかった兄からの直筆の手紙には、森へ討伐に向かった父が群れで襲って来た魔獣から新人の騎士を庇って共に谷に落ちたというものだった。初冬とはいえいつになく積雪が多かった為に、足場が崩れたらしい。そして救出にも時間が掛かり、父の遺体の全てを回収することは出来なかったと綴られていた。
辺境に住む人間の殆どは、いつ命を落とすか分からない環境であるので、常に遺言を準備している。父も例外ではなく遺言を残していたのだが、そこには真の遺言書は神殿に預けてあるので息子が全員揃ったところで開封するように、と記されていたそうだ。こういった遺言書に条件を付ける貴族は珍しくないので、レンドルフもこの後手続きをして辺境領に向かうことになる。
無敵と思っていた父の訃報に、レンドルフは動揺しながらも頭の片隅で、これで正当な理由で辺境領に向かう口実が出来てしまったことを訝しんでいた。現実を認めたくなくて、これが何らかの意図的に流された報ではないかと思いたいのかもしれない。
しかし兄の直筆で書かれた手紙からは、兄の深い悲しみと動揺しか読み取れなかった。兄ダイスは父に引けを取らないほど剣術も魔力も強い。だが未だに父が辺境最強の名を冠しているのは、ダイスが一歩冷酷な方向に踏み出すことを苦手としているからだ。魔獣討伐に於いても、手負いの魔獣を逃すことは次の危険度が上がるので必ず仕留めるべきと叩き込まれるが、あと一撃で仕留められる魔獣の背後に仔の姿を見た瞬間に攻撃力が弱るのだ。レンドルフが知る限り、ダイスがそれで見逃してしまったことはないのだが、幼い頃は何度か失敗してしまったそうだ。そしてその時は、父からの本気の鉄拳制裁が飛んでいたらしい。
レンドルフが対人の戦闘を苦手としているのも、割と涙脆いのもダイスにそっくりだと言われている。それを言われる度にダイスは全く苦笑に見えない苦笑らしき表情を浮かべ「本当は騎士ならば褒められたことではないぞ」と言いながらもこっそり頭を撫でてくれた。
そんな腹芸や貴族仕草が父よりも苦手な兄が、嘘でも父の訃報の手紙を送って来るとはレンドルフには到底思えなかったのだ。
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「出発日程が遅れればそれだけ雪が積もるだろう。その後の対処は私達でやっておくので、レンドルフは帰郷の準備だけに気を配り、出来次第すぐに出発するように」
「ありがとうございます」
レンドルフがルードルフの執務室を訪ねると、既にどこからか連絡が行っていたのか葬儀に列席するための休暇届などの必要書類が並べられていた。
王城に所属する者の身内に不幸があった場合、配偶者や親などの場合は最大一週間の特別休暇が出される。他の身内は親等に応じて日数が変わるが、三日から五日程度だ。そして領地に赴かねばならない場合は、領地の往復に掛かる日数の上限は定められていない。そうでなければ領地の距離によって不公平が出るからだ。
人によっては葬儀への参列をしない事情もあるので、そういった際は葬儀が行われる日程に合わせて前後三日間の休暇が出される。
レンドルフは兄からの手紙に「父の遺言には兄弟揃ってから葬儀と真の遺言書の開封を行うようにと記されていた」と書かれていたので、行かないという選択肢はなかった。
「もし、次兄の到着が遅れた場合は、通常の休暇として処理をお願いします」
「ああ、確か次兄殿は隣国の辺境伯殿に婿入りしていたのだったな」
「はい。距離としては王都よりも近いですが、貴族が国境を越えるのには手間がかかりますから」
「分かった。その辺りの調整も全て引き受けるので、憂いなく父君を見送って来るといい」
「恐れ入ります」
なるべく感情を波立たせないように淡々と書類の手続きを進めるレンドルフだったが、ルードルフの気遣う言葉に視界が歪みそうになる。
全ての書類を書き終えて顔を上げると、机の上に小さな革袋が乗せられた。天板に触れると、微かに金属の触れ合う音がした。
「これで墓前にお好きな酒でも供えてもらえるだろうか」
「そんな…お気遣いは十分いただいております!」
身内が亡くなった時は、支度金として王城から金銭が渡される。しかしこれはどう見てもルードルフ個人から出されたとしか思えない。遠慮して辞退しようとしたレンドルフに、彼は少々強引に持っていたペンを取り上げて空いたところに革袋を押し込んだ。
「この国と、王都を守った英雄殿に」
「ですが」
「私の母は、あのヒュドラが出た時にはエイスの街で暮らしていた。もし英雄殿が退治してくれなければ、私もこの世には居なかっただろう」
「…っ!ありがとう、ございます…!」
ルードルフの剣ダコの目立つ無骨ながらも温かい手に、とうとうレンドルフの目が決壊を起こしてポタポタと手と革袋の上に雫が落ちた。ルードルフは落ち着かせるようにポンポンと肩を叩いてくれたが、それが余計に刺激になってしまい、レンドルフはしばらくの間執務室から出られなくなってしまったのだった。
クロヴァス家のタウンハウスに連絡をして旅支度を整えてもらうように手配を頼んだ後、寮に戻って身の回りの必要な物を鞄に詰めていると扉をノックする音が聞こえた。
「はい」
「レンドルフ先輩。僕です、ショーキです」
「今開ける」
扉を開けると、眉を下げてションボリとした様子のショーキが立っていた。これから冬の地方遠征に向かうのに、雪道に強いレンドルフが抜けるのを申し訳なく思っていたので、この機会に申し送りをしておこうと部屋に入るように促した。
「あの、お忙しいと思うので。これだけ渡したらすぐに帰ります」
ショーキはレンドルフの言葉に首を振って、手に持っていた革袋を差し出した。
「これ、オスカー隊長とオルトさんと僕からの餞別です。僕らが何か渡すより、先輩が判断して用意してもらった方がいいと思うんで」
「こういったものは騎士団から頂戴している。気を遣わなくていい」
「そうじゃなくて!僕ら全員自主的にそうしたいと出しました」
その革袋は、やけに重そうに見えた。そして勢い良く差し出したのでチャリチャリと音がして、中身が硬貨であることがすぐに分かってしまった。
「レンドルフ先輩に見せたかったですよ。先輩が部屋を出た瞬間、僕ら全員一斉に財布出しましたから」
「……申し訳ない」
「どうか、ご無事に戻って来るのをみんな待ってます」
深々と頭を下げるレンドルフに、ショーキは強引に革袋を握らせると「じゃ、お気を付けて!」と軽い口調でそのまま去って行った。レンドルフは俯いたままそっと扉を閉めると、革袋を机の上に置いて洗面所へと向かった。
先程も副団長の執務室でかなり水分を消費してしまったが、また新たに次々と湧いて来る水分は当分止まりそうになかった。