389.騎士に成る
レンザはそこまで遠くない馬車留めまでなので見送りは不要と辞退しようとしたが、レンドルフが明らかに聞きたいことがありそうな気配を出していたのでそのまま並んで歩くことにした。
ごく平均的な身長のレンザとレンドルフとは並ぶと頭一つは身長差があるが、人に合わせて歩くことに慣れているのかごく自然な歩調でレンドルフが横に並ぶ。
「あの…ユリさん、のことを、お聞きしても?」
「ええ、答えられる範囲ならば」
「容態は、どうなのでしょうか。先程、意識がないとおっしゃいましたが。これから解毒薬の素材を採取すると言うことは、命に別状はないと思っていいのでしょうか」
おそらくずっと聞きたくて仕方なかったであろうことを、レンドルフは少しばかり早口でレンザに尋ねて来た。その中には、ユリの出自や身分などについての質問が一切なかったことから、レンザはかつてユリから聞かされていた「言いたくなければ言わなくてもいい」とレンドルフが語ったことは本心からだったのだろうと察する。
「意識がない、と言うよりは、起きていると苦しむことになるので薬で眠らせている、という状況です。そして今すぐに、ということはありませんが長引けばそれだけ危険が伴う…といったところです」
「そう…ですか。申し訳ありません、辛いことをお聞きしました」
「いいえ、事実を述べたまでです。それに…」
「それに?」
話を聞く前からレンドルフの方が余程辛そうな顔をしている、と言いそうになって、レンザは言葉を止めた。人の気持ちは他者と比べるものではないし、全てが顔に出ているとも限らないのだ。
「…ユリは、王女殿下をお守りする為に自ら危険を承知で毒に触れました。きっと、後悔はしていないでしょう」
「はい…きっとユリさんなら…」
大した話も出来ないまますぐに馬車留めに着いてしまった。そこには、何の紋章も着いていない地味な馬車が一台残っていた。
「レン殿」
「はい」
「先程私は貴方に薬草採取の為に来て欲しいと言いました。が、無理に、とは申しません」
「いえ、それは…!」
「貴方にはこれからの騎士としての未来も、人生もあるでしょう。ですからそのことをよく考えてください。一度承諾をしてくれましたが、正式な場でのことではありません。再考した結果、断っていただいても構わないのです。私もユリも、貴方の判断を責めることも悪く思うこともいたしません」
「俺は必ず、薬草の場所までお連れします。それを翻すことはありえません」
レンザの静かな言葉に、レンドルフはキッパリと言い切った。先程のレナードの様子だと、取得出来る休暇の日数だけでクロヴァス領を往復するのは無理なのだとレンドルフも分かった。そうなると、周囲に迷惑を掛けてしまうが騎士団を辞する以外に方法はなさそうだった。きっとレンドルフの将来を考えて、断るように言ってくれているであろうことはすぐに理解した。だが、レンドルフの気持ちはそれでも全く揺らぐことはなかった。
かつては自分が騎士である道以外を知らなかった。他に選択肢はなく、騎士であることに何の疑問も感じていなかったのだ。それ以外は自分に価値がないとさえ心のどこかで思っていた。
けれどユリに出会ってから、目の前の景色が大きく開けたのだ。世界は広く、自分の前には多くの道があってどれを選んでもいいのだと初めて自覚した。一つしかないと思い込んでいた道に縋り付くのではなく、今は多くの選択肢から選んだ中で騎士を選択していると感じていた。
そしてその切っ掛けをくれたユリを選ぶのならば、今の道のままではなくてもいいと悟る。
(俺は、ユリさんの騎士になりたい)
これまでも彼女を守る為にもっと強くなりたい、ずっと側にいたいと思っていた。それはこれからも変わらないことだが、レンドルフの中ではもっと深い心の根の部分でハッキリと覚悟が決まったような気がした。
「何を賭しても、ユリさんを助ける手伝いをします。どうぞ俺をお連れください」
夜に使われることのない馬車留めなので明かりが殆どない中ではあったが、レンドルフの真っ直ぐな目はレンザを射抜くような強い光を湛えていた。
「…分かりました。どうぞ、よろしくお願いします」
そのレンドルフの気持ちに応えて、レンザは右手を差し出す。一瞬レンドルフは瞬きをして動きを止めたが、すぐにレンザの手を力強くギュッと握り締めたのだった。
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ユリは、自分が今見ているのは明晰夢だと理解していた。
これまでにも何度も見たことがある。ユリは小さな椅子に座っていて、目の前には不出来なガラスのようなモヤモヤとした壁が広がっている。そしてその壁の向こうで、様々なものが通り過ぎて行くのだ。それは過去に出会った人や、見たもの、それらが何の法則もなく通り過ぎて行くのを見守るだけの夢。そしてその壁の向こうのものには触れることは出来ないし、向こうもこちら側のユリを認識しない。ただひたすらに流れて行くだけの空間を見つめていた。
その中に、薄紅色の髪をした大きな影がよぎる。
先程通り過ぎた中には、同じ薄紅色をした髪ではあるが、線の細い物語から出て来た王子様か、或いは精霊のような美しい少年がいた。それは過去に一度だけ出会った学生であった頃のレンドルフではあるのだが、夢の中のユリは頭がぼんやりとしていてはっきりとは思い出せなかった。
今、目の前を横切る影は髪色が同じなだけで見上げるほど大きく、ユリの腕で抱えても到底背中に届かないほど分厚い体付きをしている。
(…誰だったかしら…)
顔を見ようと目を凝らすが、見えている筈なのに頭がそれを認識しない。ただ、大きさの割に優しそうだという印象と、その影を見ていると心が騒ぐような感覚がした。
ふと、大きな影に小さな影が近付く。その小さな影は赤い髪をしていたり、青い髪だったり、顎の辺りで切り揃えた短い金髪だったりした。小さな影に大きな影が近付く度に、ユリの胸がツキリと痛みを感じた。
(どうして笑っているの…?)
顔が分からないのに、ユリには大きな影が笑っているのが分かった。理由は分からないが、その笑顔が小さな影に向けられているとユリの体の芯からピシリ、ピシリと微かな軋む音が聞こえて来る。それはまるで体の中から上がっている悲鳴のようにも聞こえた。
気が付くとユリは椅子から立ち上がって、壁に手を触れていた。その壁は冷たくも温かくもないが、いくら押してもびくともしそうにない。
「あなたは…誰…?」
この夢を見るようになって、ユリは初めて声が出せるのだと気付いた。顔が見えていて笑顔というのは分かるのに、何故か脳が認識してくれない人物に話しかけたが、当然のように相手はユリが見えていない。ザラリとした壁の表面を撫でても、届くことはない。
大きな影の側に、また別の人影が立つ。今度は少し背の高い女性だというのは分かるが、顔立ちは分からない。ただ美しく巻かれた淡い金髪が印象に残る。そしてまた大きな影の人物が微笑んだ。
「ねえ…こっちに気付いて…」
薬剤を扱う為に伸ばしていない爪で僅かに壁を引っ掻く。思ったよりも力が入っていたのか、爪と一緒に指先が少しだけ痛みを感じる。
「気付いて…!」
大きな影が背の高い女性に向かって手を伸ばすと、女性の方もそっと差し出された手の上に自分の手を重ねる。女性の美しく整えられて磨かれた爪が、やけにユリの目には眩しく映った。
そして二人は寄り添うように壁の前から離れて行った。
「行かないで…!」
思わず壁に手を叩き付けたが、音すら吸い込まれてしまったように響くことはない。それなのに、体の中から聞こえる音は止まない。
「どこにも行かないで!!」
急に声を張り上げたので、喉の奥が引き攣れるように痛む。コホコホと咳が込み上げて来て、胸がひび割れるように締め付けられる。苦しさと痛みで目尻から涙が零れて、目の前の視界が歪む。それでも壁の向こうの二人は互いに微笑みあいながら、ユリのことなど全く気付かずに遠ざかって行く。ユリは何度も「行かないで」と繰り返すが、ただ掠れた息が漏れるだけで声になっていなかった。
指先に力が入り、爪の間にジワリと強い痛みが走る。
ふと、そのユリの小さな手の上から、細く少しだけ指先の荒れた温かな手が重ねられた。その荒れた指先はほんのりと緑色に染まっていて、自分の指と「揃いだ」と嬉しく感じたことのある手だ。その手はユリの指先を慈しむように包み込み、赤くなってしまったユリの爪の先をそっと親指で撫でる。その温かさは、ユリもよく知っていた。その温かさに手を委ねると、少しだけ胸の痛みが和らぐような気がした。
「あ…この香り…」
その温かさとは違う、もっと高い熱がユリの体を包み込んだ。触れられている感覚はなかったが、全身を覆うような高めの体温と、爽やかで少しだけ甘さと埃の混じったような香りがユリを抱きしめるように漂って来る。
ユリは大きく息を吐いて目を閉じる。その弾みで瞳に溜まっていた涙が睫毛の先から数粒零れ落ちた。
「…ずっと、側にいて」
『…うん』
そう呟いたユリに、ほんの少しだけ恥ずかしそうな優しい返事が耳朶を打った。
もう、胸の奥から軋むような音は聞こえなかった。
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「御前、もうユリちゃんも落ち着きましたから、少しお休みになられては?」
「…ああ。もう少しだけ」
「もう、仕方ありませんね。お屋敷に戻らはったら、きちんと休んでくださいよ」
「分かっているよ」
エイスの街で最も大きな治癒院の特別室で、黒い薄布の繭のような魔力に包まれ幾つもの魔道具が装着された状態でユリがベッドの上に横たわっていた。
ユリが毒を受けて倒れた翌朝、仮入院していた中央神殿の中の治癒院から厳重に護衛に囲まれてエイスの街まで転院させたのだ。ユリの容態からすれば長距離の移動は避けるべきなのだが、人の多い中央神殿よりも大公家の傘下にあるエイスの治癒院に移した方が安全性が高いと判断した。
しかしやはり到着直後にユリの容態が僅かに悪化したが、レンザを始め大公家が総力を上げて容態を安定に導いたのだった。
その甲斐あってどうにか小康状態になったので、今後の対策と治療方針も含めて大公家の関係者のみで編成された医療班で会議を行っていたところだった。それが一段落したので、常駐して様子を見ているスタッフと交代する為に顔を出した治癒士長アキハ・ノーイは、もう戻っていたと思っていたレンザがベッド脇に座っていたので困ったような顔で忠告する。
点滴を打つ為に毛布の上に出されているユリの手を、レンザの手がそっと包み込んでいた。そしてよく注視していなければ分からないほどにゆっくりと上下している胸の上には、真新しいハンカチが何かのまじないのように置かれている。
薄布のような半透明の黒い繭は、レンザの闇魔法と時魔法の複合で可視化された魔力だ。レンザが使える時魔法は完全な時間停止は使えないが、特定の空間の時間経過を極端に遅くすることが可能だ。それに闇魔法を重ねることで、対象の感覚を鈍らせて深い眠りに就かせることが出来る。その空間の中では症状悪化を最小限に抑えつつ、患者に痛みを感じさせない状態にさせるのだ。
この魔法は近くに治療手段がない場所で重症者が出た際に、応急措置として利用するためにレンザが作り出したものだ。一時的に患者の周囲の時間を遅くすることで出血などを抑えた上で眠らせて、その間に回復薬や治癒士などが来るまでの時間を稼ぐ。ただこれは万能ではなく、高度な鑑定魔法で様子を見ながら治療を進め、解除のタイミングを見計らう必要がある。魔法を発動したままでは回復が遅く治癒が進まないが、治療が足りない状況で解除すれば死に直結してしまう場合もあるため、見極めが重要なのだ。
今のユリの状態は、ミュジカ科の毒に対して全身の免疫機能が激しい拒絶をしており、それが暴走した結果重大な自家中毒を起こしているようなものだった。その為、体を攻撃する物質を全て消し去ってしまうと、本来の体を守る為の機能も消失してしまう。免疫機能が無くなった状態では、この先ユリは無菌状態の中でしか生きられなくなってしまう。これは魔力も似たような状態だった。特にユリは強い特殊魔力を有しているので、その体への攻撃性は想像を絶するものがある。
ユリの治療は、体から精製されている毒素を少しずつ薄めつつ、完全に機能を滅してしまわないように消滅と再生のバランスを取って慎重に行わなければならない。だからこそ通常の時間から切り離した空間での治療が必要となる。だがそれでもこの状態が長引けば、重篤な後遺症の恐れもあった。
だからこそユリに使用する解毒薬は、少量でも効果の高い鮮度の良い素材で作られた上質なものが必要なのだ。
「悲しい夢でも見てはるのかしら」
「お守りを置いたら、止まったよ」
顔を覗き込んだアキハは、閉じたままのユリの目尻から溢れた涙がこめかみを伝っているのを確認して、そっと紙で押さえるように拭き取った。
「お守り?ああ、このレンくんの香水を吹きかけたハンカチ」
「すぐに反応が出るのは、ありがたいやら悔しいやら、何とも複雑でね」
「だから御前は対抗してここで手を握ってますの?あらまあ、御前ってば、気持ちがお若い」
しかしレンザはさすがにこれ以上はいられないと、渋々ユリから手を放した。
「しばらくは王都から離れることになる。その間、ユリの身柄は必ず守るように」
「承知」
ユリの為の解毒剤を入手する為に、レンザ直々に辺境領に赴くことはアキハも既に聞いている。
ユリが生まれたと聞いた時のレンザの嫌悪に満ちた反応を知っているアキハとしては、この別人並みに変貌した溺愛ぶりに戸惑ったこともあったが、今は良かったと思っている。かつてユリの父が元婚約者だったアキハにとって、レンザは義父になったかもしれない相手で、ユリは自分の娘だったかもしれないのだ。完全な政略で顔見知り程度の情しかなかった元婚約者の血縁でも、アキハにも色々と恩義はある。仲良く暮らしているのならそれに越したことはない。
立ち上がったレンザは、ユリの顔の脇に畳んだハンカチをそっと置いた。
「御前、そちらはもしかして…」
「私の愛用の香水を掛けてある。ユリが好んでいたからね」
さり気なくレンドルフのものよりも顔の近くに置いて行くところに、妙な子供っぽい対抗心が透けて見えて、アキハは思わず込み上げて来る笑いを相殺しようと頬の内側を噛んでしまったのだった。