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388.レナードの受難


「時にレン殿」

「はい」

「その身に付けている香りは…香水でしょうか?」

「ええと、クロヴァス領産の…香水、のようなものですが」

「のような?」


もう夜着に替えて眠るだけだったので特に振り掛けてはいなかったが、ずっと使用している服などに香りが多少移っているのだろう。

前にユリにも爽やかなハーブ系だと褒められた香水だが、これは汗や魔獣の血などの臭いを強力に消臭する優れものだ。故郷のクロヴァス領と次兄が婿入りした隣国の辺境領で共同で作り上げたもので、材料、製法が特殊な為に量産出来ず、一般には流通していない。元々、魔獣討伐遠征から帰宅してすぐに妻とイチャイチャしたい父や兄達の希望で作られたものだ。


「消臭効果が強いもので、消臭剤と言うべきか香水というべきか…その、汗をかきやすい体質の為、特別に実家から送ってもらっています」

「それは常にでしょうか?」

「はい。あ、気になるようでしたら同行の際には付けないようにします」

「いえ、そうではありません。その…孫が、いつも安心する香りだと言っていたので」

「!ありがとうございます…!」

「それで、もし良ければ少し分けていただけませんでしょうか。ハンカチなどに一吹きするだけでも構いません」

「それは構いませんが…」

「孫の枕元にでも置けば、少しは安心するのではないかと思うのです。意識はなくとも音や匂いは感知出来ると言いますから」

「も、勿論です…!未開封のものがありますので、すぐにお持ちします!寮まで取りに行きますので、少々お待ちください!」


レンザが頷くのを確認してレンドルフは弾かれたように立ち上がって一礼すると、レナードが止める間もなく部屋を飛び出して行ってしまった。



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「…失礼しました」

「構わんよ。彼は私のことは『子爵家執事のアレクサンダー』だと思っているからね。それを知りながら、年上の者に対する礼儀も忘れていない。つくづく良い青年だ」

「随分とお気に召されているようですね」


レンドルフが出て行ってしまった後、レナードはレンザに向かって頭を下げた。相手が大公家当主だと知っているレナードからすると、レンドルフの態度は砕け過ぎていて胃の辺りがヒヤリとするような気持ちにさせられていた。しかしレンドルフが何も知らないとなると、彼は爵位こそないが辺境伯に籍がある貴族令息なので、家格が下の子爵家に仕える使用人である「アレクサンダー」に対する態度としては破格に丁寧なものなのだ。

レンザも正体を隠している以上、それに対する礼儀をとやかく言うつもりは一切ない。


「さてね。孫に近付く虫は、益虫だろうが邪魔なものだよ」

「虫ですか」


レンザの態度からすると、決してレンドルフを嫌っている訳ではないようだが、やはり孫に近付く男性は面白くないらしい。ハッキリと顔に出すレンザに、レナードは思わず苦笑していた。


「閣下はヤツをどうするおつもりです?」

「どうともしないよ。ただ丁度いい虫除けだからね。役に立つ間は多少は目を瞑ろうと思っているよ」

「虫だったり虫除けだったり…あまり将来有望な若者を弄ばないでやってください」

「有望、ね。その割には大切にしているようには思えないが?」

「……耳の痛いご忠告、恐れ入ります」


言い方は悪いが、それなりにレンザがレンドルフを気に掛けてくれているとレナードは理解した。レナードも入団当時から目を掛けて来たので、レンドルフには思い入れはある。あからさまに贔屓をするつもりはないが、レンドルフは今後騎士団を率いるのに重要な地位に就ける逸材であるとレナードは期待をしていた。

その為の下地を用意して来たつもりだったが、どうにもタイミングが悪いのかそれが今のところ有効な実を結んでいないのも事実だ。良い縁談か爵位を用意しようと厳選していたところにアナカナに懐かれ、婚約者候補に挙げられたことで他の縁談は立ち消えとなった。それならば爵位を、と副団長に抜擢したが、派閥の関係で領地の都合を付けるのに手間取っていた隙を突くような(くだん)の解任劇だった。レンドルフに瑕疵が公式に付かないようにするのが精一杯で、今は平騎士として騎士団に残すことが出来ただけだ。

騎士団のトップ二人が大切に思っていてもそれが結果として結びついていない以上、端からもそう思われているとは見えないだろうし、レンドルフが自分の騎士としての価値はお情けで置いてもらっている最底辺だと思い込んでいても責められない。


レンザに大切にしていないと言われても反論は出来なかった。


「…それにしても、何故『アレクサンダー』なのですか」

「お父君の親友の名だから、親しみやすいと思っただけだよ。それにノマリス前伯爵ともヒュドラ討伐で面識はあるしね。まあ珍しい名ではないから、彼も気にもならなかったようだが」

「クロヴァス領に行くと、ややこしいことになるでしょうに」

「もう既に彼の母君に手紙を出しておいたよ。彼女なら上手く立ち回ってくれるだろう」

「その手回しも人選も周到過ぎですよ…」



かつてエイスの森に、通常なら有り得ないヒュドラが出没したことがあった。ヒュドラはそれこそ一体でも国が滅んでもおかしくないと言われる程の大災害級の魔獣で、発見時は幼体ではあったが相当数の討伐隊をぶつけてどうにか退治したのだ。


その討伐に大きく貢献したのが、レンドルフの父で当時の辺境伯当主ディルダート・クロヴァスだった。そして後方支援で協力したのがレンザを含むアスクレティ大公家であったのだ。その討伐時に重傷を負ったディルダートの為に聖女派遣を要請して、動けるようになるまで静養する手配を整えたのも大公家だった。

その際にレンザは、まだディルダートと正式に婚約していなかったレンドルフの母アトリーシャ、ディルダートと同級で親友だった騎士アレクサンダー・ノマリスとも言葉を交わしている。互いに親友と言える程には親しくなれなかったが、レンドルフが知らないだけで大公家とクロヴァス家とはそれなりに縁があったのだ。


レンザと直接顔を合わせたのはそのヒュドラ討伐が終わってディルダートが辺境領に戻って以降一度もないし、直接的なやり取りも結婚の時に祝いを贈って以来だ。レンザが直接辺境領に出向いて顔を合わせるならば、それこそ40年以上ぶりになる。

しかしそこでレンザの正体が明かされてしまうのも避けたいので、レンドルフの母アトリーシャに根回しの為の依頼をすることにしたのだ。彼女はディルダートと出会う前は王子妃候補として妃教育を受けていて、一時は社交界の白百合として名を馳せた淑女中の淑女だ。謀略ならば、脳筋で辺境最強と未だに名高い父親よりも頼りになるのは明白だった。



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「さて…問題はレンドルフをどうやって辺境まで行かせる理由を付けるかですが…」

「そういった騎士団のことは任せるよ」

「何か良い策はないのですか!?」

「さあ?私は王城騎士団の制度などに興味はないからね。ただ正規の任務として動かすと、記録が残ってしまうね」

「ぐっ…それも内密にして解毒薬を探させるおつもりですか」

「私は孫を助けること以外に興味はないからね」


分かりやすいレンザの言い分に、レナードは頭を抱えそうになった。


今のところクロヴァス領に騎士団を派遣するような案件はない。そもそもクロヴァス領は駐屯部隊を設置していない数少ない領地だ。領地の広さの割に人が暮らせる土地が少なく、領民は昔から固まって支えあって暮らしている。その為、居住可能な土地に対する人口密度がそれなりに高いおかげで、地方にしては比較的人手が足りている強みがある。国境の森から出現する魔獣に苦労はするが、その森の恵みで土地自体は豊かだ。冬が長く厳しいので収穫する作物は限られてはいても、不作の年は滅多にない。その為、領民の死亡原因は魔獣関連が圧倒的に多く、餓えなどに苦しむ者はほぼゼロに近いのだ。


そのクロヴァス領にレンドルフを任務で送り込むにはそれなりの理由が必要だが、迂闊な理由で誤摩化すとそれこそ悪目立ちの挙句、密かに薬草を採取することが難しくなってしまう。そうなれば自動的にレンザを始め大公家を敵に回すことは間違いない。王国の守護である騎士団を纏めるレナードとしては、是が非でも避けたい事柄だ。


(まとめて休暇を取らせて里帰り…でも往復となると厳しいか。休暇を取らせるにしても最大二ヶ月もないぞ…)


レナードは考え込んでいるうちに、どんどん自分の眉間の皺が深くなっていることに気付いていた。しかしレンザは助け舟を出す気はなさそうだ。確かに普段王家と距離を置く大公家の立場としては分からなくもないが、こうなっているのもレンザの強い要望でもあるのでもう少し協力をして欲しいものだとレナードは八つ当たり気味に考えていた。


レンドルフの故郷の辺境領までは、足が速く体力のあるスレイプニルで休み無しで飛ばして約五日という最短記録の話は聞いているが、それを実行したのは体力も精神も強靭な現役騎士だったし、季節も初夏に近く雪はなかった筈だ。通常の馬車で向かった場合はひと月くらい掛かるし、ましてや雪道になればもっと掛かるかもしれない。レンドルフだけでスレイプニルに騎乗して行けば雪でも10日程度でどうにかなるかもしれないが、レンザが同行するのなら馬車になるし、かなり急いでも片道三週間は見ておいた方がいいだろう。そこから薬草を探すとなると、すぐに発見出来た場合でも戻る頃には帰り道は更に雪深くなっている筈で、やはりどう見積もっても往復二ヶ月は必要になる。



レナードが頭を悩ませていると、執務室の扉を少々強すぎるくらいのノックが響いた。レンドルフが寮の自室から香水を持って戻って来たのだろう。掛かった時間を鑑みるときちんとしたルートではなく窓から出入りしたのかもしれないが、そこは指摘しないことにした。


「お待たせしました!どうぞ!」


息を切らせて戻って来たレンドルフは、暑くなったのか上着を脱いでいて薄手のシャツだけになっていた。少し広めに開いた襟元から、ユリから貰った琥珀色の石が付いたチョーカー型の防毒の装身具が見えている。レンザはほんの一瞬だが、見覚えのあるそれに視線を走らせた。


「ありがとうございます、頂戴します。それではもう遅いですので私はこれで失礼します。ミスリル殿、この件に付いてはまた明日あらためて」

「い、いえ!こちらで準備を整えますので、一週間…いや、五日!五日お待ちください」


レンザはいかにもその辺にあった紙袋に突っ込んだだけの香水瓶をレンドルフから受け取り、立ち上がってレナードにそう告げた。その視線は「早く対処しろ」と雄弁に物語っている。


「畏まりました。では五日以内にこちらの準備も整えておきます」

「わ、分かりました。レンドルフも、逸ってすぐに動こうとしないように!五日の内に…どうにかする」

「はい、よろしくお願いします。あ、アレクサンダーさんをお送りして参ります」

「ああ…そのまま寮に戻っていいぞ」

「はい。失礼いたします」


二人が連れ立って執務室を出て行くと、レナードはソファに半ば崩れ落ちるように凭れ掛かり、しばらくそのまま動かなかった。



どのくらいそうしていたのかは分からないが、長い長い嘆息を吐いた後、ようやく体を起こしてガシガシと頭を掻きむしる。そして眼鏡を無造作にテーブルの上に置くと、レンドルフが魔力の揺らぎで砕いてしまったカップを片付けるべく、隣の給湯室から小さな箒とちりとりを持って来た。


「…これは、後で大公家に請求書を出してやる…」


我ながら小さいとは思いつつ絶対に実行してやろうと、これから確実に徹夜になるであろうレナードは声に出して呟いたのだった。



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