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386.久しい顔と最悪の不運


レナードに促されて執務室に入ると、見慣れない人物がソファから立ち上がってレンドルフに礼をして来た。レンドルフも釣られて同じように礼を返す。


「夜分にお呼び立てして申し訳ございません。ご無沙汰しております」

「あ…アレクサンダーさん。お久しぶりです」


立ち上がった人物は、白髪混じりの黒髪の上品な佇まいの初老の紳士だった。こんな時間でも糊の利いたシャツと体に合ったジャケットで隙のない出で立ちだ。強いて言うなら少しばかり可愛らしい意匠のループタイをしているところがそれが私服であると思わせた。


レンドルフは全く予想もしていなかった人物がそこにいたので、思わず目を丸くしてその場に固まってしまった。その様子を見て、レナードが間に立つようにしてソファにかけるように勧める。その時のレナードは何とも言えない複雑な表情をしていたのだが、大分戸惑っていたレンドルフは全く気付かなかった。



部屋の中にいたのは、以前レンドルフがユリの伝手で短期間借りていたパナケア子爵の別荘で出会った執事のアレクサンダーだった。パナケア子爵はユリの祖父と既知だということで、エイスの森での定期討伐に参加する際に、中心街のタウンハウスから通うのは大変だろうと使っていない別荘の使用許可をレンドルフに快く出してくれたのだ。執事の彼は王都での執務があるので別荘に顔を出したのは二度だけだったが、色々と過ごしやすいように手配をしてくれていた。レンドルフにしてみればそのおかげで初めての騎士団の任務ではない討伐で大きな怪我も無く終えられたので、随分世話になっていたと感謝していた。


これはレンドルフが顔を知らなかったのをいいことに、レンザがわざわざ執事服を作らせて「アレクサンダー」としてレンドルフの前に現れた姿だった。レンドルフがパナケア子爵の別荘と思っていたのも、一時的に名義変更をしてまで準備したアスクレティ大公家の別邸の敷地内にある離れだった。これはレンドルフにまだ正体を明かしたくなかったユリの為にレンザが仕組んだようなものだ。とは言え、レンザ自身もレンドルフの人となりを見たかったのと、単に変装して楽しんでいたという節もあった。



レナードは当然のようにレンザの顔を知っているのだが、レンドルフには別の名前と身分で会っているので話を合わせるように、と先に話を通しておいたのだ。確かに大公家の人間は分家などに任せて自身は社交にはほぼ出て来ない。人伝に外見は耳にしてもそこまで外見的な特徴が強い訳でもないので、実際に面識のある人物が側にいて紹介されなければなかなか気付けないだろう。特にレンドルフが近衛騎士として王城の夜会などに出るようになってからは、レンザは王城の行事に参加していない。レンドルフが分からないのも無理はなかった。

しかも普段の大公家当主としてその場に臨む場合は、一体その細い体のどこに隠しているのか圧倒的な貴族の風格を醸し出している。だが今はそれは影を潜めて、それなりに裕福な学者という風情だ。服装も普段よりずっと質素なのもあるが、そういった貴族感はここまで自在に出し入れ出来るものなのだ、とそれなりに長く生きているレナードは改めて知ったのだった。



よく分からない、と言いたげな表情を隠さずにレンドルフが精一杯体を小さくするようにソファに座る。そして不安気にレナードをチラチラと見ていた。それは主人にいつもよりも長い「待て」をされた大型犬のようにも見えた。

レナードはどう説明すべきか、いっそレンザに丸投げしてしまおうかと一瞬だけ視線を送ったが、彼は一切話す気がないようで、ローテーブルの上に置かれた紅茶のカップに視線を向けてレナードの方を見ようともしなかった。レナードは既にレンザがここに来た理由は聞いているが、レンドルフを呼び出した目的の詳細までは聞いていない。アナカナに関わることなのでレンドルフにきちんと話を通した方がいいのは分かるが、大公家当主が呼び出す理由が全く不明だった。それにレンザの話を聞いたばかりで、まだレナード自身も混乱しているのだ。しかしまず初めは自分が説明しなくてはならないのは分かっていた。


「正式な公表は明日になるが、本日第一王女殿下がキュプレウス王国との共同研究施設の訪問にて、立入り禁止区域に無断で浸入して毒を浴びたとの一報があった」

「…っ!」

「落ち着け。それは表向きだ。…ここから先は、最重要機密だ」

「は…しかし…」


衝撃的なレナードの言葉にレンドルフは息を呑んで身体を強張らせた。しかしレナードは怜悧な灰色の目をレンドルフに向けて、殊更静かな声で続けた。その前置きに、レンドルフは向かい側に座っているレンザに戸惑ったような目を向けた。レンドルフからすると「子爵家執事のアレクサンダー」に聞かせていいのか戸惑っているようだ。


「この…アレクサンダー殿は当事者のようなものだ。問題はない」

「…はい。それで、表向きということは、一体何が起こったのでしょうか。アナ様はご無事なのですか」

「ご無事だ。実際は…王女殿下に毒が盛られた」

「それは正確ではございませんね」


レナードの言葉に、レンザが割って入る。レナードの言い方だとまるで施設側の誰かが毒を盛ったように取られかねない。そこだけは譲れず、一瞬だがレンザは鋭い目を向けたので、レナードは慌てて咳払いをした。


「んんっ…正確には、王女殿下の持ち込んだ私物に毒が仕込まれていた。しかし直前で施設職員が気付いて未然に防いだ」

「それなら…」

「だが、その職員が殿下の替わりに毒を受けた」


少しだけ安堵したレンドルフに畳み掛けるように、レナードの言葉が重ねられた。その瞬間、レンドルフは言葉にならない嫌な予感がザワリと背中を走るのを感じた。何故この場に自分が呼ばれたのか、そして「アレクサンダー」がどうしてここにいるのか。彼と自分との関係は、泊まる場所を提供してくれた子爵家の代理で顔を合わせただけだが、その縁を繋いだ人物が脳裏をよぎる。その人物は今日は研究施設にいる筈で、アナカナとも面識がある。


レンドルフは急速に自分の指先が冷えて行くのに、こめかみの辺りにジワリと汗が滲むのを感じた。


「ここからは私が。その職員は、薬局に勤務する薬師見習いで、()()()です」


レンザのその言葉を聞いた瞬間、レンドルフの魔力が瞬間的に大きく揺らいで、テーブルの上に置かれたティーカップが粉々に砕けた。



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「こちらをお飲みになってください。飲んだ後ご気分が優れないようでしたら、すぐにお知らせいただけますか?」

「分かったのじゃ」


メモリの付いた紙コップに半分ほど入ったドロリとした青い液体を手渡されて、アナカナは素直に口を付けた。それを手渡した老女は少しだけ驚いたように目を見開いたが、眉間に皺を寄せながらも黙って飲み干すアナカナを柔和な表情で見守っていた。


「まあ偉いこと。今、口直しに蜂蜜入りの果実水を差し上げますからね」


アナカナが飲まされたのは薬効成分を体外に排出することを促す薬湯だ。大人でも怯むくらいに激しく不味いものだが、アナカナが文句一つ言わずに従ったことに老女はいたく感心したようだった。


「ありがとう、なのじゃ」


口の中が今まで体験したことがない甘苦渋い味に支配されていたので、次に手渡された濃いめの果実水がありがたかった。


レンザから尋問を受けていた時に、言葉巧みにアナカナから血液サンプルを入手したミランダが、その中にミュジカ科の薬草の成分を確認して大騒ぎで部屋に飛び込んで来た。どうやら今回持っていたハンカチだけでなく既に他のハンカチにも仕掛けられていたらしく、中毒や後遺症が起こるほどではない微量ではあるがアナカナも毒を摂取してしまっていたことが判明した。その為、解毒効果のある薬湯を職員のベテラン薬師が作ってアナカナに飲ませていたのだ。


「少し様子を見て落ち着きましたら場所を移りますからね。おトイレに行きたくなったら教えてくださいね」

「手間を掛ける」

「まあまあ、本当に大人びてらっしゃるのねえ」


彼女は異国から薬師の知識と経験を見込まれて学園都市に食客として迎えられたのだが、当人の希望でこの施設で働きたいと申し出て、きちんと試験を受けて見事採用された最年長職員だ。年は重ねていても薬師の腕は衰えることはなく、特に解毒薬の調薬の正確さと速度は右に出るものはいない。


アナカナが果実水を飲み干すと、すぐに次を注いでくれる。解毒を促すには多めに水分を取った方が良いと教えてくれたので、アナカナもそれに従う。


「あの」

「何かしら?おトイレ?」

「い、いや、それはまだじゃ。その…ユリは、解毒、出来なかったのか?」

「ああ、あのお嬢さんは…体質、と言っていいものかしら。昔同じ毒を受けてね。人によっては完全に解毒してても二度目に受けると量に関わらず劇症…ええと、ひどい反動が出ることがあるの」

「…アナフィラキシー…」

「あらまあ、本当に博識ねえ」


彼女は心からの感嘆の声を上げて、アナカナの知識を賞賛した。アナカナとしては、前世からの知識を引き継いでいる部分も多いので、その差異を確認する為にジャンルを問わず書物を読み込んでいた。うっかり前世にしかない概念などを口走って、変な影響が出たら困るのは自分だったからだ。

医療に関しては、アスクレティ大公家の異界渡りの始祖が医療従事者だったらしく、魔力以外の考え方は前世の知識でも十分に通じるものが多い。


「あのお嬢さんには特別な治療が必要でね、通常の解毒では意味がないの。体の免疫機能…ええと、血液とか魔力とか。そういった体に必要不可欠な物質自体が毒素を出すのよ。だからね、そうなると一気に解毒すると却って命の危険があるから、弱い解毒薬と治癒魔法を慎重に少しずつ繰り返して」

「ちゃんと治るであろ?ユリは、治るのじゃろ?」

「…ええ、治りますよ。大丈夫」


アナカナの泣きそうな顔を見て、彼女は柔らかくアナカナの白い頬に触れる。そのしわしわになった手は、アナカナには妙に懐かしく温かく感じた。



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研究施設は医療機関ではないので、密かに大公家で手配して一番近くの中央神殿の中の治癒院にユリを運び込んだ。そして一旦そこで一晩様子を見た後に、日の出と共にエイスの街の治癒院に移送される予定だ。エイスの治癒院は、大公家が擁している医師や治癒士が多数常駐している。そもそもエイスの街自体がユリを守る為にレンザが作り変えた場所だ。治癒院は別邸に次いで堅牢な防御が施されているのだ。中央神殿も王族や高位貴族が入院した際の守秘義務があるのでそれなりに防備は固められている。しかし人数が多いので、小さな悪意が紛れ込み易いのも確かだ。なるべくならユリを長く置いておくことは避けたいというのは大公家の総意だった。


アナカナは、表向きには好奇心で立入り禁止を越えて、まだ研究中の毒草に触れてしまったことになっている。体に異変はないようだが未知の毒草であるので、経過観察ということでそのまま研究施設に身柄を預けることに承諾した、という筋書きである。一応施設内で預かるという態になっているが、実際アナカナは夜のうちにエイスの方にある大公家別邸に送られることになっていた。

この施設は警備員の当直室はあるが、基本的に宿泊用に作られていない。研究員が夢中になって泊まり込みすることはあるが、あまりにも籠り過ぎて人成らざるものになりかねないので、設備的にはわざと居心地を悪くしているくらいなのだ。

その中でアナカナが生活するには足りないものも多く、何より世話をする人手がない。業務の一環として一日くらいならば事務官もアナカナの面倒は見られるだろうが、長期となると他の業務に差し障りがある。

中心街から遠いエイスの街までの移動は大変ではあるが、元気にピンピンしているアナカナが人目に付くのは良くないし、何より再び暗殺の追撃がないとも限らない。それにキッチンの設備はあるが、実質実験などに使用した器材などの洗浄を目的としているので、そこで食事を作るのは適していない。そうなれば外部から食事を持ち込むしかない為、むしろ危険度が上がる。その点、大公家別邸はユリの為に優秀な使用人達を揃えている。これについては幾度も「業腹だが」とレンザが口にしていたが、今はアナカナの安全を確保しなくてはならない。



レンザ個人としては、王族と貴族が勝手に足を引っ張り合うのはどうでもいいと思っていた。しかし、アナカナが自覚無しに毒を持ち込んだことと、その被害がユリに及んだことが問題なのだ。


治外法権が認められている敷地内で毒が使用されたという事実が発覚すれば、主権者のキュプレウス王国への宣戦布告に等しいものだ。当然共同研究は解消になるであろうし、もう今後はキュプレウス王国との繋がりは絶望的になるだろう。それに莫大な違約金が発生する可能性もある。金銭的な負担で済めばいいが、それ以上の補填を求められれば国力の弱いオベリス王国は承諾せざるを得ない。そしてあるとすれば、王都を守護する防御の魔法陣の研究の権利か、国内最大の事業になっている学園都市の権利のどちらかを要求されるだろう。何でも持っている大国キュプレウス王国にとって価値があるのはこの二つくらいだからだ。しかしこのどちらかを押さえられてしまえば、オベリス王国は実質的に破綻する。


更に大公家唯一の直系の大公女が被害に遭ったと知れれば、これを機に大公家の力を削ごうとする者や、かつてユリの両親を事故に見せかけて暗殺したことで大量の家門が大公家の報復で潰されたことを思い出されて大混乱に陥るのは目に見えている。


いくらレンザがユリを最優先にしていると言っても、全く関係のない罪なき領民達を巻き込むことは望むところではない。それを避ける為に、最大限の手を打たねばならなかった。



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「申し訳…」

「失礼。どうも孫の容態が心配で魔力が安定しないようです。まだまだ未熟ですな」


カップを自分の魔力で砕いてしまったレンドルフが顔色を悪くして謝罪を口にしかけたところを、レンザが被せるように自分のせいだと嘯く。客のいる前で魔力の制御が出来ないほど動揺を見せることは大きな失態だが、レンザが先に制したことでこの場はそれで治めてくれるようだ。

レンドルフはそれ以上は何も言えずに、ただ頭だけを下げた。


「毒を仕掛けた者も、まさかこんな最悪の状況で発動させるつもりはなかったのでしょう。しかしこれが表沙汰になれば、キュプレウス王国でも黙ってはいません。宣戦布告と見なされてもおかしくないでしょう」

「宣戦布告…」


淡々と話すレンザの言葉に、大分苦いものが含まれているのはレンドルフにも察せられた。表向きはアナカナの個人的な失態にすることが、現段階で最も穏便に済ませる苦肉の策であることはレンドルフも理解していた。毒を盛られた被害者でもあるアナカナが一人泥を被るようなことになるが、それでも幼いが故の愚行と多少大目に見られるだろう。


「王女殿下は未知の毒物に触れた為、被害を拡大しないように解毒が完了して安全が確認されるまでは施設預かりという形になりました」

「陛下は大分ご不満のようだったが、王女殿下直筆の反省文で仕方なく承諾なされた」

「と言うことは団長、まさかこのことは陛下もご存じないのですか…!?」

「ああ。お前も知っての通り、陛下でも毒を持たせた者との繋がりが絶対にない、とは言い切れんからな」

「……はい」


レナードの言葉に、内心忸怩たる思いはあるもののレンドルフは頷かざるを得なかった。初孫であり聡明なアナカナを国王は可愛がってはいるし、側近達も王国の至宝と呼ぶ者もいるが、その内心は分からない。さすがに近しい身内はそこまでの悪意があるとは思いたくはないが、様々な柵から発生する悪意は、近衛騎士だった頃にレンドルフも幾度も味わっている。国王に真実を知らせて、そこから伝えられた先に悪意がないとは言い切れない。


こうしてレンドルフに話したということは、一切の悪意との繋がりがないと信頼された証拠ではあるが、状況が状況だけにそれを誇らしく思うことはレンドルフにはまだ出来そうになかったのだった。



お読みいただきありがとうございます!

医療関係の話は、異世界の設定ということでふんわりとご理解いただければありがたいです。


何だか全員「レ」から始まる名前の人物が集ってしまいました…読みにくかったら申し訳ありません。割と名前はその場の思い付きで付けることが多いので、気を抜くと何故か「レ」から始まる名前に偏ってました。


レンドルフとレンザ(アレクサンダー)の出会いは「 23.別荘への案内」になります。

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