表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
436/626

384.届かない手紙


ユリが昼食の入ったバスケットと、温かい豆麦茶をワゴンに乗せてアナカナのいる部屋に再度訪れた。豆麦茶は夏向けの冷たいものとして好まれることが多いが、寒い季節には温かくして飲むのも悪くない。何よりも胃に優しい成分のお茶なので、まだ幼いアナカナにはちょうど良いと思って準備しておいたのだ。子供向けに果実水かホットミルクも考えたのだが、ミズホ国寄りのメニューはあっさりとしたお茶がよく合う。


ノックをして部屋に入ると、何となく予想はついていたがぐったりとした様子で座っているアナカナと、よく分からない化学式やら専門用語やらを黒板にみっちり書き込んでいてテンション高く喋り倒しているミランダがいた。しかも黒板に書いたものを消すという行動に思い至っていないのか、上から何度も重ね書きされた部分はもはや文字なのか記号なのか判別が付かない。


「ええと…ミランダさん、もうお昼です」

「ですからこの時に生じる酵素…え?もう?五分くらいしか経ってなくない?」

「…時計見てください」


どうやら当初は嫌がっていたミランダだったが、思いの外熱が入っていたらしい。それはいいことではあるのだが、人に教えることに向いていない研究者であるし、いつものように暴走してアナカナを完全に置いてきぼりにしたのだろう。いくら条件が揃っていたとは言え、初日からこれでは嫌がらせと取られてもおかしくはない。


(まさかおじい様はこれを見越して…いや、まさかね)


「アナ様、ご無事ですか?」

「お…おぅ…」


すっかり疲れ切って遠い目をしているアナカナに話しかけると、壊れたおもちゃの人形のように妙にカクカクとした動きで頷いてみせた。


「いま昼食の準備をしますから、道具を片付けてくださいませ」

「分かった…」


机の上に広げたノートをユリはチラリと見たが、驚くほどしっかりと書き込み出されていた。その文字は多少よれているところはあるが、悪筆な大人よりも余程読みやすい。しかもユリが分かる範囲でもかなりの専門用語が羅列されている。ミランダの書いたものをそのまま書き写しただけかもしれないが、それでも僅かに垣間見た限りでもある程度はきちんと意味を理解して書き留めているのはすぐに分かった。話す内容も先日から歳には似合わない大人びた思考だと思っていたが、ここまで規格外だったと改めて認識してユリは内心舌を巻いた。

以前に聞かされた「前世」云々については、いよいよ信じざるを得なくなって来た気がしていた。


「…確か、わらわはキュプレウス王国の事を学びに来たのじゃが…」

「まあ一応ミランダさん、キュプレウス王国出身の研究者ですし?」

「それはそうじゃが…もうちょっとこう…一般的なものを想定しておった。それがいきなりあんなにディープな固有植物と変異種の遺伝子講義から入るとは…」

「…次からは人選を考慮します」


決めるのはレンザではあるが、さすがにこれは気の毒が過ぎる。


「のう、ミランダ先生。最初に採取した血液は使うところまで行かなかったの」

「ミランダさぁぁぁんっ!?」

「それは次の機会にしましょう!」


どう言いくるめたのか分からないが、ミランダはアナカナから血液をキッチリ採取していたらしい。アナカナの指に採取した痕は残っていなかったので、すぐに回復薬で傷を塞いだのだろう。いくら何でもあまりの暴挙にユリが悲鳴に近い声を上げたが、さすがに彼女もマズいことをした自覚があったのか、一目散に退出して行ったのだった。


「…アナ様、大丈夫でしたか?痛い思いをされたのではございませんか?」

「ほんの数滴じゃし、痛くも何ともなかったぞ。ユリは過保護じゃの。そういうとこはレンドルフとそっくりじゃ」

「そういう問題ではございません…」


アナカナは学習の中の実験に使用すると説明をミランダから受けて、納得ずくで血液を数滴提供したそうだ。一応監視として部屋にいた事務官と警備員は、アナカナが全く気にしていない様子だったので、最初から授業の一環でそういう条件を出されていると思っていたらしい。このまま問題にすると王族を傷付けたという洒落にならない事態になりそうなので、ユリはひとまずのこの場は何事もなかったフリを決め込むことにした。ミランダについてはレンザの判断に任せようと心に決めたのは、完全に現実逃避であった。


「アナ様、食事の前に手を洗って来てください」

(あい)分かった」


今や使っている者のいない古語のような返答をすると、アナカナは椅子から降りて洗面所へ向かう。部屋に残っていた事務官の一人が付き添ってくれた。洗面所は大人が使うものなので、誰かが付き添って踏み台を出してもらわなければならないからだ。

ユリはそれを見送って、バスケットの中から皿やカトラリーをテーブルの上に並べる。最初は温かいものの方が良いと思って保温の付与付きの容れ物にするつもりだったのだが、ミズホ国出身のステノスから「弁当ってのはいい感じに冷えたコメが格別なんだ」とアドバイスをもらったので、敢えて付与付きにはしなかった。もし温かいものが欲しいと言われれば、再加熱出来る魔道具も念の為持って来ている。


「手間をかけるのじゃ」


きちんと手を洗ったアナカナがテーブルの上に並べられた昼食を見て、満面の笑みになった。どうやら見た目は満足の行くものだったらしい。あとは味だが、先日レンドルフに合わせて作ったものを喜んで食べていたので、そう問題はないだろう。アナカナの為に低めの椅子を用意したが、それでも少し高いらしく事務官の手を借りてよじ登っていた。足が付かずにブラブラとしてしまう様子は、何とも愛らしいものがある。アナカナはいそいそとポシェットからハンカチを取り出すと、自分の膝の上にフワリと広げた。淡いクリーム色のハンカチに、黄色いヒヨコの刺繍が小さくあしらわれた可愛らしいものだった。


「毒味はいたしましょうか?」

「大丈夫じゃ。大公家から贈られた装身具も着けておるし、ユリは食べ物に色々して粗末に扱うことはせぬと信頼しておる」

「…ありがとうございます」

「さっそくいただきますなのじゃ!」


アナカナは軽く手の平を合わせるようなポーズを取った。ユリは前にステノスも同じような所作をしていたことを思い出して、ミズホ国の作法なのかとアナカナの知識に感心していた。


アナカナが使用するので高級な食器を用意しようかと思ったが、そういったものは重さがあるのでここは食べやすさを優先して木製のものを採用していた。勿論平民が使うようなものではなく、素材も手にした時の滑らかさも最高品質のものだ。

アナカナは少し冷ました豆麦茶が入ったカップを両手で持ち上げて、一口そっと啜ると目を輝かせた。豆麦茶は産地の平民の間で昔から親しまれて来た飲み物だが、今年の夏から本格的に王都でも売り出したのだ。王族が口にするようなものではないがアナカナには合ったらしく、コクコクと飲んでほう…と息を吐いた。


「あっ!」


カップをテーブルに置こうとして少し縁にぶつけてしまい、中身が少し跳ねてしまった。


「済まぬのじゃ」


溢れた豆麦茶を膝の上のハンカチで拭き取ろうとアナカナは水分をハンカチに吸わせた。


「アナ様っ!」


次の瞬間、ユリは考えるよりも早く反射的にアナカナの手にしたハンカチを奪い取っていた。



------------------------------------------------------------------------------------



アナカナのハンカチが水分を含んだ瞬間、それまで何もなかった筈なのにユリの鼻に微かにあってはならない毒の香りを感知していた。ユリが準備したものにはそんなものは絶対に含まれていない。その香りは、アナカナのハンカチから漂っていた。


それはかつてユリに使用されていた毒草、ミュジカ科のものに間違いなかった。


これはユリにとっては劇薬に等しいものだ。

本来ミュジカ科のものは遅効性で、厄介な常用性と後遺症を引き起こす為に危険視されている。しかし一度中毒になった者は、摂取した量や当人の体質によって完全に解毒しても再度摂取した際に劇症を引き起こすことがある。ユリもその可能性が高い為に、再び摂取しないように徹底して香りを覚えさせられた。万一何かあって毒草に触れることがあっても、体内に入れなければどうにか防ぐことが出来る為だ。


「っ!」


咄嗟ではあったが、体内に入らなければ大丈夫との気持ちがどこかにあったのかもしれない。それに今は用心の為に万能の解毒の装身具も起動させて身に着けている。それがほんの少しだけユリを慢心させていた。アナカナから取り上げたハンカチを握り締めた手の平に、微かにチクリとした感覚が走ったのを自覚したが、心のどこかで大丈夫だと思う気持ちがあった。


しかし次の瞬間、何かを思う間もなく体を駆け巡る熱のようなものに支配されて、ユリの思考はそこで途切れた。



------------------------------------------------------------------------------------



もうそろそろ就寝の時間になるのだが、レンドルフは何度も窓の外に目をやっていた。


いつもならばユリからの伝書鳥が来ていてもおかしくない時間なのだが、今日はまだ到着していなかった。何か急に送れない事情があっても一言だけその旨を書いたメモをくれたり、ギルドカードに連絡が入ったりするのだが、今日はそれすらない状態だった。大抵手紙を送れない事情が多いのはレンドルフの方で、遠征中などは返信を受け取れる状況になったらレンドルフから送るという取り決めを交わしていた。だからこうしてユリから何もない状態で待っているのは、手紙のやり取りをするようになって初めてのことだった。レンドルフはいつもこんな気持ちで待たせているのかと思うと申し訳ない心持ちになるのと同時に、ユリに何かあったのではないかと落ち着かずに部屋の中をグルグルと回っていた。


しかしそろそろ寝なければ明日の任務に支障が出てしまう。レンドルフは不安な気持ちをどうにか押さえ込むようにして部屋のカーテンを閉めた。


そして部屋の明かりを落とそうと手を伸ばした刹那、ドアをノックする音が聞こえた。


「はい」

「私だ。ルードルフだ」

「副団長?」


こんな時間に部屋を訪ねて来る者はまずいないし、副団長が直々に来るのは何か緊急事態でも起こらない限りない筈だ。レンドルフが急いでドアを開けると、ルードルフも部屋で休んでいたのかあまり見かけない私服姿で立っていた。その表情からは何かあったのは分かるが、それ以上のことは読み取れなかった。ただ廊下には誰もおらず静まり返っていたので、個人的な何かが起こったのだと察した。あるとすれば故郷のクロヴァス領か家族に何かあったのではないかと思って、一瞬胃の辺りが縮み上がるような感覚がした。


「寝ていた訳ではないようだな」

「はい。何かありましたか」

「そのままで構わない。すぐにミスリル統括騎士団長のところに向かってくれ」

「団長の…?一体…いえ、すぐに向かいます」

「すまないな。私も聞かされていないのだ」

「いえ。ありがとうございます」


さすがにそのままで出るには少々肌寒いので、レンドルフは一旦引き返して上着を羽織る。その際に、言い知れない不安を落ち着かせる為に、外していた指輪を親指に嵌めた。夜の照明の中で見る指輪の石は、深い緑色に一筋の偏光色が差し込んでいる。それが明かりを反射して金色に見える。しかしその色合いを見てもレンドルフの気持ちが落ち着くことはなく、ただ不安だけが増大して行った。


部屋の外に出ると、案内してくれるつもりらしくルードルフが待っていてくれた。悪いとは思いつつも、レンドルフは一人で向かうことにならずに少しだけ安堵していた。



夜陰の中連れ立って無言のまま歩き、レナードの執務室のある建物に到着する。一応何か起こったときの為に待機の夜番がいるが、受付はさすがに誰もいなく明かりも落とされている。ルードルフはその前を通り過ぎて、一直線にレナードの執務室に向かった。


「ミスリル団長、レンドルフを連れて来ました」


見慣れた執務室の扉も、こうして暗くなった中で見るのは初めてのことだったのでレンドルフの目には知らない場所のように映った。在室中であるのは間違いなく、扉の下の隙間から明かりが漏れている。


「ああ、助かった」


ルードルフがノックをして声を掛けると、すぐにレナード本人が滑るように出て来て素早く後ろ手に扉を閉めてしまった。その一瞬だが部屋の中から嗅ぎ慣れないハーブのような香りがして、中に誰かいることを物語っていた。おそらくその中にいる人物の姿を見せたくないための行動だろう。


「ワシニカフ副団長。申し訳ないがレンドルフだけしか入れられないのだ」

「承知しました。では私はこれにて」

「使い走りのようなことをしてすまなかったな」

「とんでもございません。それでは失礼致します」


まさか自分ひとりだけしか招かれないという状況に、レンドルフはますます困惑と不安の顔になった。ルードルフはまるで主人に置いて行かれた大型犬のような顔をしている大きな体の部下を見上げて、そっとその骨張った手で軽く背中を叩いた。上着を羽織った上からであったが、その手の温度が少しだけレンドルフの気持ちを緩めてくれたようだった。


一礼をして廊下の向こうへ消えて行くルードルフを見送ってから、レナードはやっと扉を開けてレンドルフを部屋に招き入れたのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ