368.別邸の執務室
王城からの手紙が届いた日の夕刻、領地を視察に行っていたレンザが予定通り別邸に到着した。
「お帰りなさいませ、おじい様」
「ああ、ただいま。やはりユリの顔を見ると疲れが取れるね」
「それでしたらいくらでも見てくださいな」
玄関のエントランスで出迎えたユリは、いつもは表に出さないようにしているレンザにしては珍しく疲労が現れているのを確認して一瞬だが不安気な表情が出てしまったようだ。レンザは安心させるように微笑みを向けると、優しい仕草でユリの前髪を軽く撫でた。
「夕食までに時間があるから、少し話せるかな?」
「おじい様のお誘いなら喜んで」
「では準備が出来たら呼びに行かせよう」
「お待ちしております」
自室に向かいながら、いつも移動時に同行している侍従に手短に何かを伝えると、執事長とメイド長を引き連れて階段を登って行くレンザの後ろ姿をユリはしばし見送っていた。アスクレティ領はこの国で最も東の港を有した場所で、経度は王都と大差ないのだが広く海に面して北からの海流が流れ込む為に気温がやや低い。その為、こちらではまだ少し早い裾の長いコートを翻して歩くレンザの姿が美しく、ユリはうっとりした様子で眺めていたのだ。
「お嬢様?」
「あ…えと…そうだ!そろそろ薬草ケーキが冷める頃ね!お茶に合わせて少し出してもらっていいかしら」
「畏まりました」
ユリはバレていないと思っているが、毎年のようにレンザの秋物のコートが新調される度にうっとりと眺めているのを別邸の中で知らない者はいない。そして一部の使用人の間では、今年はレンドルフにも強引な理由を付けて裾の長いコートを贈ろうとするのではないかと密かに盛り上がっていた。長身なレンドルフのコートでは布量が通常の三倍以上、重さもかなりなものになりそうだが、彼ならばものともせずに着こなせるだろう。何ならユリのリクエストに応えて必要以上にクルクルと回ってくれそうな気すらする。
ある意味、別邸の大半の者達もレンドルフのことを正しく理解しているのだった。
「お嬢様、どちらをお出ししましょうか」
「そうね…甘くない方で。甘い方はみんなで食べて」
「ありがとうございます」
料理長が確認を取ってキッチンに下がって行く。
薬草ケーキは、摘んだ薬草の脇芽を利用したもので、ペースト状にしてからケーキに混ぜ込んで作るものだ。見た目はかなり緑色になるが、若芽なので苦味もなく食べやすい。効能はあまり高くはないが、それでも回復薬に使用される薬草なので体に良い成分が色々と入っている。この別邸ではチーズと黒胡椒を利かせた甘くないタイプと、チョコレートとミルクを混ぜた甘いタイプの二種類のレシピがあって、ユリとレンザは甘くない方を好んでいた。
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ユリは一旦ミリーと部屋に戻って、軽く身支度を整えてもらった。しばらくすると、メイド長がレンザが執務室で待っていると呼びに来る。
「改めて、お帰りなさいませ、おじい様」
「ただいま、ユリ。領地から持ち帰った秋摘みの新茶だよ。今年は特に香りが良いようだ」
「ありがとうございます。本当に良い香りですね」
白い陶器の持ち手のついていない独特の形をしたカップに、美しい茶葉の色そのままの緑色の液体が注がれている。これは無発酵で茶葉をすぐに蒸し上げる特殊な技法で、ミズホ国から伝わった「緑茶」というものだ。以前パフーリュ領の小麦を扱うレストランで出されたものと同じだが、こちらの方がより瑞々しい香りが漂っている。
その隣には薄く切られた薬草ケーキが添えられていて、こちらも鮮やかな緑色をしている。
「また料理長も腕を上げたようだね」
「ええ。これならばどこに出しても好まれると思います。もう少し手間を減らせれば限定的に販売も可能でしょうが、さすがに市場に乗せられる程の量産にはまだ至らないです」
「効果は劣るが、薬草の総量を減らすのも考えの一つだろうね。手軽に平民でも食べられるところにまで落とし込めば、ミズホ国の『予防医学』の実現の一助にもなるだろう」
「今でも脇芽の再利用なので多少効果は低いのですが」
「そのバランスは今後の課題になるな」
「そうですね。色々試してみます」
しっとりとした緑のケーキを一口食べて、レンザは感心したように頷いた。このケーキのレシピはユリが原案を考えて、料理長の専門的な観点から修正してもらいつつ完成させたものだ。見た目よりもずっと食べやすいのだが、この味に至るまでには色々な試行錯誤を繰り返していた。薬草の繊維が残ってしまうと格段に味が落ちるので、魔道具で二度粉砕させた後に裏ごしするという手間がかかっている。試しにエキスだけを絞って使ってみたのだが、そうすると殆ど栄養価が無くなってしまい、ただの緑の菓子が焼けただけだった。
ミズホ国から伝わっている「予防医学」とは、病に罹らないように前もって予防するという考え方で、古くから医薬を扱う家門だったアスクレティ家からすると興味深い分野だった。最近ではこのオベリス王国内でもその考えに賛同する者も増えて、研究も進んで来ている。今のアスクレティ家では、予防医学に繋がる食料品の選択肢を増やすことに力を入れている。苦い薬草サラダや、いつまでも口の中に残る薬草パンを無理に食べるのではなく、自分の好みで選べる体に良いものを模索、開発に取り組んでいるのだ。この薬草ケーキもその一環から始まったものだ。
「さて、本題に入ろう」
「はい」
一杯目のお茶を飲み干して、二杯目をメイド長が注いでくれる。紅茶はミリーがメイド長と遜色がない程に上手く淹れられるが、この緑茶の苦味と甘みを存分に引き出せるのはメイド長の方が一日の長がある。
「例の女は残念ながら捕らえられていない」
「…そ、うですか」
「しかし足取りはつかめている。追いつくのは時間の問題だろう。だからユリにはもう少し我慢してもらうことになるよ」
「はい…分かりました」
大公家程の力と資産を持ってしても捕らえるに至ってないということは、その女の背後に相当な権力者がいると言っても過言ではないだろう。ひょっとしたら複数の家が絡んでいる可能性もある。
「それから、もう連絡が来ているとは思うが、ユリに怪我を負わせた獣人男の処罰が決まった」
「はい」
「ダイバレー領の鉱山送りにしておいたよ」
「それって…あの領地の鉱山は確か硫黄でしたよね」
「相応しい処遇だろう?」
レンザは妙に楽しそうに微笑んだ。ユリも謂われなき理由で一方的に怪我をさせられたので全く同情する気はないが、多少気持ちは引き気味になる。ダイバレー領の鉱山は国内で一番の硫黄の産出量を誇る。それなりに危険が伴うので、常に人手不足で犯罪奴隷を積極的に受け入れている土地だ。だから重犯罪者になったあの男がそこに送られるのも不自然なことではないが、特に嗅覚の鋭い狼系獣人には通常よりも厳しい環境になるのは間違いない。どう考えてもユリに手を出した為にさり気なく上乗せされた罪状だろう。
「ついでに年数ではなく、成果方式にするように提案しておいたよ。通常の犯罪奴隷なら10年というところだが、使い物にならなければ倍くらいに伸びるかもしれないね」
「なるほど…そういう方法もあるのですね」
服役の期間を決めるには、年数と成果がある。大抵どちらを選択しても同じくらいの期間になるように設定されているが、成果方式の場合その罪人の個人能力如何では大分短くなることがあるのだ。例えば10年と年数で決められれば、どんな働き方をしても期間が過ぎるまでは解放されない。しかし成果になると、鉱山ならば決められた量の採掘を終えれば数年でも刑期が終了するのだ。
あの獣人の男も、人族よりも高い能力を発揮できれば刑期は10年よりも短く終了することが可能だ。だが硫黄の臭いが充満している中では能力が発揮できるどころか、人族以下の働きしか出来ない可能性が高い。そうなれば決められた量に達成するまで随分長く掛かることが予測できてしまうのだ。
大公家の権力を使って私怨を返すのではなく、正しい裁きの範疇でありながらちょっとした提案で最大限の処罰を達成している。思わずユリは感心してしまったのだった。
「それから、先日より王家から打診されている第一王女殿下の預かりについてだがね…」
話題が王家の話になると、無意識なのかレンザの眉間に僅かに皺が寄る。ユリとしてはそんな表情も「おじい様渋カッコいい」と評価は高いのだが、レンザの内心を思うとそんな呑気なことは言っていられない。
「大分厳しい条件を出したので修正案を出して来ると思っていたのだが」
「通ってしまったのですか?」
「多少の要望は出されたが些末なことばかりでね。本当は修正案を出されたことを理由に断りを入れるつもりでいたのだが、あまりにも些細なこと過ぎて断ればこちらの分が悪い」
「まあ、おじい様にしては珍しく策に溺れましたね」
ユリがクスクスと笑うと、レンザは少しだけ眉間の皺を深めたが、やがて釣られるように苦笑混じりではあるが口角を上げた。
「ユリとしてはどうしたいかい?」
「私、ですか?」
「ああ。もしユリが望まないのであれば受けることはない。最初から王家の無茶な打診だったのだ。あちらも断られることを想定しているだろうね」
レンザは立ち上がって、執務机の上に乗っていた封筒の中から書類を取り出してユリに差し出す。そこには、もしアナカナを薬局で預かった場合の条件が並んでいた。
あの薬局内は王城勤務の者は入れるようにしているが、治外法権として認められている場なので、アナカナが来ても王族として特別な扱いをすることはないこと。送り迎え以外の護衛は受け付けないこと。許可された場所以外の立入りを禁止し、それを破った場合に起こった被害は王家側が責を負うこと。そして万一アナカナの命を狙って外部から何らかの攻撃を受けた場合、調査や捕縛、処分などの全権はアスクレティ大公家に一任することなどが記載されていた。
他にも細かい条件が続き、ほぼ研究施設側が有利なようになっている。そもそも王家や国内の貴族などから余計なちょっかいを出されないように認めさせた治外法権なので、幼いとは言え王女を送り込むのは越権行為と取られてもおかしくないのだ。
「…よく、これを王家が通しましたね」
「私が策に溺れた訳ではないことがお分かりいただけましたかな、姫君」
「大変失礼いたしました」
呆れたように呟いたユリに、先程の意趣返しとばかりにレンザがおどけたように恭しく胸に手を当てる。ユリもそれに付き合うように軽く頭を下げてから思わず笑ってしまう。
「アナ様とお会いしたのは二度ですが、嫌な印象はありませんでした。このお話、お受けしても構いません」
「…そうか。では、この件は王家と話を具体的に詰めて来よう」
「お願いします」
ユリが「王女殿下」という敬称ではなく名で呼んだことで、レンザも何か気付くことがあったのだろう。ほんの少しだけ間を置いて、重々しく頷いてみせた。
おそらくユリが薬局に在籍している日で、月に二回程度の数時間の預かりになるだろうとレンザは告げて、ユリに渡した書類を回収して再び封筒に戻した。まだその際の送り迎えや、来る日程についての内容には触れられていなかったのでそれをこれから詰めるのだろう。
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「さて、まだ少し時間もあるから先に話しておこうか」
「何でしょうか?」
「ユリにしては大人しく別邸から出ない言いつけを守っているからね。だからご褒美をあげようと思ってね」
「いくらなんでもそれは子供扱いが過ぎませんか?」
「おや、それではご褒美はいらないかな?」
「い、いります…」
まるで子供のような扱いをするレンザにユリは少々むくれたように抗議したが、やはり「ご褒美」には逆らえずに顔を赤くして頷いた。その様子に、レンザはユリが可愛くて仕方がないと分かりやすく目元を緩める。ご褒美の内容は分からないが、レンザがユリに甘いのは彼女も知っている。絶対に自分が喜ぶものは間違いないのだ。
「別邸の一番北側の畑に蜜芋を植えてあるだろう。それが今年は豊作だからね。収穫を誰か力のある人物に手伝ってもらいたいのだが…ユリに心当たりはいるかい?」
「え…それって」
「手伝ってもらえるなら、こちらで食事も用意しよう。勿論、収穫したての蜜芋を食べてもらうのも、お土産に持ち帰るのも構わないよ」
「よ、よろしいのですか?」
「ああ。あの場所なら屋敷からは離れているし、元々農地だったから我が家所有の土地と知る者はほぼいないからね。秘密にするにはちょうどいいだろう?」
ユリの心当たりと言えば、それはレンドルフ以外にいない。先日のキノコ狩りが行けなかったので、レンザが代わりに別の秋の行楽をお膳立てしてくれたのだ。用心の為に別邸の敷地内から出ないようにしている現状で、ずっとレンドルフに会うことが出来ずにいたユリへのご褒美だった。それに建物から離れてはいるが、大公家の敷地内だ。いくらでも護衛を配置することも、不審者を弾くことも可能なので、先日のキノコ狩りよりもはるかに安全な環境が作れる。
「ありがとうございます、おじい様!すぐに来られそうな日を聞いておきますね!」
「あまり無茶を言わないようにね」
「分かってます!これからすぐに…」
「お嬢様、すぐに夕食の時間でございます」
「あ…」
半分立ち上がって自室に戻りかけたユリを、気配を消して部屋の風景と一体化していたメイド長がここぞとばかりに声を掛けて来た。ユリがチラリと時計を確認すると、あと10分程で執事長が声を掛けて来るであろう時間になっていた。ユリとしてはすぐにレンドルフに予定を確認したいところであるが、さすがに時間が足りない。
「…これはやはり先に言うべきではなかったかな」
すっかり気もそぞろになっているユリを見て夕食は上の空になる予感しかせず、レンザは愛する孫の成長を喜ぶべきだが少々寂しく思うところもあり、そっと複雑な呟きを漏らしたのだった。