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閑話.イクシア


男は、体中に拘束具と力を発揮できない魔道具を付けられて、出入口が一つだけの窓もない部屋に座らせられていた。壁に貼り付くように置かれた椅子からも立ち上がれないように固定もされているが、頭の動きだけは自由になるので落ち着きなくキョロキョロと何もない部屋の壁を見回していた。


「こちらです」


男性の声が扉の向こうから聞こえて来て、目の前の扉が開く。男には、その扉が開く前から誰が来ているかをその鋭敏な嗅覚で捕らえていた。


「あ…ああ…!ナーラ…!!」


男性に先導されて入って来た女性を見て、男の顔に喜色が浮かぶ。しかし相手の女性はそれをチラリと見て、無表情を貫くことが出来ずに眉を顰めた。


拘束された男から離れた位置に椅子が置かれて、その上に女性が腰を降ろした。男はその動作一つ一つを食い入るように見つめて、側に寄ろうと体を動かしているのか、体に巻き付けられた拘束具が体に食い込む。


「ナ、ナーラじゃない…オレと、ナーラの娘、だ!ああ!娘…我が子よ!どんなに会って話したかったか…」

「この男が貴女の父親ですか?」

「分かりません。母からは一切父のことを聞いていませんので」


男の歓喜に溢れた声とは対照的に、女性の声はひどく固く冷たいものだった。


彼女、イクシアは、治療に携わっていた薬師見習いを襲って捕縛された男が自分の父親を名乗っていると聞いて、話を聞く為にやって来たのだった。



「ずっと、私と娘を見張っていたと聞きましたが」

「み、見張っていたのではなく、見守っていたんだ!お前達に危険が及ばないように、すぐ、助けに行けるように」

「助け、ですか」


あからさまに顔を顰めたイクシアにも気付いていないように、男は勝手にペラペラと喋り続けた。


一度イクシアが生まれた後に妻を訪ねたが、触れた瞬間酷い痛みを受けたこと。そして彼女が二度と近付かないように勝手に誓約魔法を結んでいたこと。

そしてそれ以来姿を隠して、暇さえあればイクシア達を遠くから見守っていたらしい。


「では私の母が事故に遭って亡くなった時は?」

「あ、ああ…あれは胸が張り裂けるかと思ったよ。しかしオレにはナーラに触れることは許されていなかったから、どうにもならなかった」


確かに誓約魔法で激しい痛みを感じるが、実際に死ぬ訳ではないし何か傷が残るものでもなかった。それは一度目で分かっている筈だった。この男の運動神経ならば、母を突き飛ばすなりして救うことが出来たのではないか、とイクシアは思う。どの程度の痛みなのかは分からないが、ただ見ていただけで一切の罪悪感もなく悲劇ぶった男の態度に、イクシアは吐き気を覚えた。


「その後、私にずっとつきまとっていたのですか」

「見守っていたんだ。でもさすがナーラの娘だ。周囲に愛されていつも笑って暮らしていたから安心したよ」

「笑って…?」


母親が亡くなった後、平民向けの学校を卒業したので働くことは可能だったが、まだ未成年でたった一人になってしまったイクシアには世間は厳しいものだった。勿論、優しくしてくれた人もいたが、頼れる親戚もいなかったので日々の生活は厳しかった。商家で売り子として雇ってもらえたので、どんなに怒鳴られても歯を食いしばって必死に笑顔を作っていた。ずっと見ていたと言う割に何故この男は気付かないのだろうと、これ以下はないと思っていた程に底辺になっていた印象がまだ下降して行く。


「最初の結婚は酷い目に遭ったな。元旦那とやらには厳しく抗議したら、土下座をして財布を渡して来たよ。全く、何でも金で解決できると思っているのか、顔を合わせる度に俺に財布を押し付けてきやがる」

「何なの…それ」

「しかし、次の相手は貴族なんだろ?血の繋がらない子の食事の躾もしてくれるいい旦那じゃないか。オレも鼻が高い」

「いい加減にして!」


思わず立ち上がって掴み掛かろうとしたイクシアを、側に付いていた警邏隊員が肩を押さえるように止めた。いくら拘束されていると言っても危険なので、近寄らせるようなことは出来ない。一瞬激昂しかけたイクシアはハッとした様子で我に返ると、大きく息を吐いて再び椅子に腰を降ろした。


「あなたは、見ていただけなのね。ナ…あの子が、無理矢理食べられないものをあいつに強要されているのを」

「まだ小さいからって、好き嫌いは良くないだろう。オレみたいに何でも食べないと」

「狼の獣人は、幼い頃はネギやニンニクは食べられないと聞いたわ。あなただってそうだったのでしょう!?」

「オレは好き嫌いなく何でも食べたぞ。第一そうやって甘やかすから体が弱くなるんだ。少し無理をしてでもすぐに慣れ…」

「死ぬかもしれなかったのよ!」

「ははっ、大袈裟だな。これだから女は」


まるで事の重大性を自覚していない男に、イクシアは頭に血が上り過ぎて目眩を覚えた。イクシアが少し調べただけで、狼や犬系の獣人の子供は混血でもタマネギやニンニク、他にも幾つかの禁忌とされる食物があることが分かった。ある程度育てば大丈夫になる場合が殆どだが、それも個人差がある。それを知った時、イクシアも己の無知にゾッとしたのだ。

しかしこの目の前の男は、それすらも自分の記憶のみが正しいと思い込んで無視している。おそらくは周囲の大人達がきちんと対処してくれて育ったことをすっかり忘れて、なかったことにしているのだ。


「母が縁を切ってくれて本当に良かったわ」

「な…何だと!?これまでオレが守ってやった恩も忘れたのか!」

「守った?見てただけで何もしなかったのに?」

「お、お前の子を殺そうとした女から守ってやったじゃないか!そうだ、オレがこんな風に縛られているのはおかしいだろ!あの、危険な女から」

「では、あの男爵令息はどうなのです?」


イクシアは、自分でも驚く程に冷たく低い声を出していた。もう怒りが頂点を過ぎて、却って冷静になってしまったかのようだった。


後に鑑定魔法で調べてもらったところ、ナラティが生命の危機を感じて発生させた危機マーキングのフェロモンは、ノリガル男爵令息にも付着していた。本能的に忌避している食べ物を無理に食べさせようとされたことで発揮されたのだろう。嗅覚の鋭敏な一族の男がそれに気付かない筈がないのだ。

だがこの男はノリガル男爵令息は放置し、薬師見習いの女性には問答無用で攻撃を仕掛けた。


「あなたはあいつが貴族だと思ったから、いいえ、男性だったから見逃した」

「そ、そんなことは」

「そしてあの子を助けてくれた方は女性だったから襲った。違いますか」

「ち、違…」


痛いところを衝かれたのか、男は視線を泳がせ始めた。その様子を見て、イクシアはそんな矮小な卑怯者の血が自分の半分に流れているのかと思うと泣きたくなる気持ちになった。しかし、絶対にこの男にだけは弱い顔を見せるものかと奥歯を噛み締めた。そしてかつて培ったどんな状況でも笑顔でいられる売り子の心得を思い出す。


「残念でしたね。あの女性はお忍びで居合わせた貴族令嬢だそうですよ」

「え…まさか、そんな」

「貴族の、それも若いご令嬢に傷を負わせて、どうなるかくらいはさすがにご存知でしょう?」


顔色と言葉を失った男に、イクシアは少しだけ溜飲を下げた気分になって、そのまま椅子から立ち上がった。そして控えていてくれた警邏隊員に軽く頷くと、来た時と同じように先導されて部屋を出て行こうとした。


「ま、待ってくれ!誤解…誤解なんだ。分かるだろう?ほんの行き違いだから、それを証明してくれ」

「さようなら。もう二度とお目にかかることはありません」

「オレの娘じゃないか!たった一人の親を見捨てるのか」


イクシアはもう口を利くことはなく、そのまま部屋を後にした。残された男は何か叫んでいるようだったが、扉が閉まると同時にその声は一切聞こえなくなって、廊下は耳が痛くなる程の静寂に包まれた。


「…お疲れさまでした」

「ありがとう、ございました」


建物を出る際に、案内してくれた警邏隊員の静かな言葉がイクシアの心に沁みて、思わず目の奥が熱くなったが彼女はそれを堪えて笑顔で礼を言えたのだった。



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中央神殿に入院したナラティに付き添っていた時、イクシアに一人の男性が面会に来た。その男性は白髪混じりの黒髪の老人で、髪と同じように白い毛の混じった黒い尻尾を持つ獣人だった。


彼はオオシドナ街に住む狼系獣人を纏めているコミュニティの長老の一人で、黒狼族代表ガリアと名乗った。イクシアは狼系獣人に思わず警戒をして身を固くしたが、ベッドの上にいたナラティは「ママと同じ匂いがする!」とベッドから飛び出していきなり抱きついた。初対面のガリアに大して失礼だとイクシアは慌ててナラティを引き離そうとしたが、ガリアは目を細めて穏やかな顔でやんわりとイクシアを止め、ナラティを抱き上げて嬉しそうに頭を撫でた。


「私は貴女の祖父、そしてこのお嬢さんには曾祖父になる者です」


突然のことで俄には信じられないイクシアだったが、ナラティは「同じ匂い」と主張していた。どうやらイクシアよりも娘の方に獣人の特性が強く出ているらしい。警戒心が強く、初対面の人にはあまり近寄らないナラティがこんなにもすぐに身を預けているのを見てしまうと、全く自覚はないイクシアでも信じざるを得なかった。



今回の騒動から、どうやら狼系獣人が傷害事件を起こしたと通報が行き、特徴から黒狼族ではないかということでガリアが確認に赴き、そこでイクシア母娘のことを知ったそうだ。狼族は嗅覚が鋭く、同族や身内を匂いで判断する。純血種や能力の強い者は、どんなに血が薄くなっても嗅ぎ分けられるということだ。


ガリアの話によると、傷害事件を起こして捕まった男は彼の遅くに出来た末の三男で、あまりにも素行が悪いので王都から遠い山中で暮らす一族に預けて再教育を受けさせようとした矢先に逃亡して、長年行方不明になっていたということだった。そしてその男が、やはりイクシアの父親で間違いないと伝えられた。


「貴女の母上…ナーラ殿には一度お会いしています。愚息が獣人だということも知らず、賭博で大きな借金を負って彼女を置いて逃亡したことも知らないご様子でした」


ガリアには、ナーラの体に染み付いていた番の証ですぐに息子の妻だと分かった。そこで平身低頭謝罪をして責任を取ると申し出た。しかし話を聞いて騙されていたことを知った彼女はもう完全に縁を切りたい、とガリア達とはもう二度と会わないことを望んだ。そこでガリアは彼女から番の証を完全に取り去り、息子が彼女に触れようとすれば全身に痛みが走る罰則付きの誓約魔法を施した。息子当人がいなくても、父親のガリヤの血を使って黒狼族全てを対象にすれば良いだけだったので、無事に誓約は結ばれた。

本来は慰謝料を支払うべきなのだが、ナーラは頑として承諾しなかった為、ただ彼女の将来を考えて借金だけはガリヤが精算することは強引に説き伏せたのだった。


「あの、一族全てということは…ナラティに触れて大丈夫なのでしょうか」

「その時はナーラ殿が懐妊していたと気付きませんでしたので、彼女個人のみの誓約になっていました。ですからこうしてお嬢さんに抱きつかれても問題はありません」

「それなら良かったです」

「…ありがとうございます」


初対面で、しかも自分達を放って借金まで背負わせた父親の血縁なのに、自分の心配をしてくれるイクシアにガリアは僅かに目を潤ませたようだった。

イクシアに勧められて椅子に座ったガリアは、そのまま離れようとしないナラティを膝の上に乗せていた。ナラティは大人の会話を邪魔することはなく、ただご機嫌な様子でガリアの膝の上に座っていた。


「もしご迷惑でなければ、我々の一族の住むオオシドナにいらっしゃいませんか。住む場所も用意しますし、生活面での援助もさせてください。お嫌でしたら他の街でも…」

「私も、オオシドナ街に行こうと思っていました」


イクシアは、ナラティを産むまで自分が獣人との混血だということも知らなかったし、自分の娘だからと母親が書き残していた日記を頼るだけで自分で学ぼうともしなかった。しかしこうしてナラティが入院することになって、神官に薬などが人族とも、そしてイクシアとも異なるものを使用しなければならないと聞かされた時に初めて、これまではただ単に運が良かったのだと思い知ったのだ。もしナラティが病に罹って間違った薬を使用していたら命の危機にもなりかねなかった。

だからこそイクシアは改めて獣人が多く暮らしているオオシドナ街に行って、もっと獣人について知らなければならないと思ったのだ。どうせ男爵家に戻るつもりはなかったので、最初は生活基盤が整うまで一時的に救貧院に身を寄せようと考えていた。


「同じ血を引く方がいるのはとてもありがたいのです。どうぞ私達にお知恵を授けてください」

「大歓迎です。あの愚息の血縁なので俄には信じられないかもしれませんが、本来我が一族は家族を大切にするものなのです。どうかお二人の望む形でお力になりますので、なんなりと希望を申し付けてください」

「いっしょ!」

「ナラ!?」

「いっしょ、いい!」


それまで大人しくしていたナラティが、ガリアの膝の上で両手を挙げてバンザイのようなポーズになった。ガリアがきちんと抱きかかえていたので危ないことはなかったが、急に声を上げたのでイクシアもガリアも驚いて顔を見合わせてしまった。


「あの、ナラティが希望しておりますし、この子だけでも預かっていただけませんでしょうか」

「お嬢さんだけでなく、貴女も是非。どうか」

「ママもいっしょ!おじしゃんといっしょ」

「…ナラ、この方はひいおじい様よ」

「ひいおじ…?」


聞き慣れない言葉に、ナラティは目を丸くする。すっかり元気なったナラティに、イクシアは微笑んで娘の頭を撫でた。自分にそっくりのピンクブロンドの髪は、子供特有の柔らかさで触り心地がとても良い。

不意に、そのイクシアの手の甲にポタリと水が落ちた。


「あ、ああ、すまない。歳を取ると涙脆くなっていかん」


顔を上げると、顔をくしゃくしゃにしたガリアの両目からポロポロと涙が溢れていた。慌ててガリアはハンカチを取り出すと、自分の顔よりも先にイクシアの手を拭いた。その仕草はとても優しく、ふと遠い昔イクシアの母が撫でてくれたことを思い出させた。


「…よろしくお願いします、おじい様」


フワリと作り物でなく心から微笑んだイクシアの目の端には、微かに涙が浮かんでいた。



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その後、余罪多数ということで重犯罪者として男は鉱山のある領地に送られることになった。その鉱山は硫黄の採掘が盛んな領地で、嗅覚の鋭い狼系獣人の男には酷い苦痛だろうが、それも刑罰の一環として決して刑期は短縮されることはなかったと言われる。



イクシアがユリを貴族令嬢と言ったのは、全体的な所作や雰囲気と侍女らしき人物に「お嬢様」と呼ばれていたところから判断しました。もし事実と違っていても、父親に嫌がらせくらいにはなるだろうという気持ちもありましたので、確信ではありません。

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