364.自覚なき罪、覚えなき悪意
「い、一応、ノリガル男爵令息様は私を妻に、とは仰っているのですが、ご当主様はそうは思わないようで…」
貴族の中では末端の男爵家でも、さすがに後妻でもない限り平民の子持ちを初婚の嫡男の妻にすることは認められなかったらしく、イクシアは当主にしっかりと釘を刺されたそうだ。イクシアとしても全くそんな気はなかったので、住み込みの仕事は惜しいが厄介ごとになる未来しか想像できない職場は断られた方が良かったと思うことにした。だが、話はイクシアの予想もしなかった方向へと転がった。
「その、ノリガル男爵令息様はあまり執務がお得意ではないので…」
男爵家の後継者はこの令息のみだったのだが、当人が後継教育を怠けて一向に学ぼうとしていなかったらしい。そこで父親の当主は一計を案じた。息子には、妻にしたいという女性と婚姻したいのならば最低限の後継教育を修了させること、と条件を出したのだ。勿論、当主は最初からイクシアを嫁に迎える気はなかったので一般的にはひどく横暴な話だが、イクシアも彼と再婚する気はさらさらなかったので両者の意見は一致した。そして当主は、息子のやる気を起こさせる為のエサになるように、とイクシアに命じたのだった。
イクシアにはそもそも命令を聞く必要もなかったのだが、当主は成功のあかつきにはそれなりにまとまった報酬を出して、王都から離れた遠縁の家だが住み込みで働けるように紹介状も書くと条件を提示して来た。今後、少しでもナラティに苦労を味あわせたくないイクシアは、当主の条件を受けることにしたのだった。
当主が出した条件の中に、万一イクシアと本当に深い関係になってやはり妻にしろと迫られても困るので、二人きりにならないように必ず側に誰かを付けるという項目が入っていたのもイクシアの覚悟を決めさせた。妻になる気も、愛人になるつもりもないイクシアにはむしろ見張りはありがたかったのだ。
しかし彼も、手を替え品を替えイクシアに迫って来るので、一日でも早く後継教育が修了してくれないかと思う日々なのだそうだ。
「最近ではナラティも私が困っていると側に付いて離れないでくれるので、必要以上に近付かれなくて助かっています」
「そういう問題ではない」とユリとフロルは口から出かかったが、ここで彼女を責めても何の解決にもならない。ただお互いに視線だけで言いたい事は同じだと確認し合った。
イクシアは、それなりに幼い頃から苦労はしていたのかもしれないし、ナラティを一人で育てているのだから様々な困難を乗り越えているだろう。しかしそれにしては、彼女は少女のようにふわふわしている雰囲気が漂っている。ピンクブロンドに丸い大きな蜂蜜色の瞳は、子供がいるようには思えない程可愛らしく庇護欲を誘う面立ちをしている。体付きも全体的に華奢だが、胸や腰回りは柔らかそうに肉付きが良い。そんな彼女が不安気に瞳を潤ませてその場にいれば、面白いように下心のある者が釣り上げられそうに思えるのだ。
そして何となく話している内容から、ナラティの為と我慢しているがそれが娘には筒抜けになっている印象だ。まだ五歳の子供が気を遣って母親を守ろうとしている構図しかユリ達の脳裏には浮かばなかった。
「…その、そいつ…ご子息から見てお邪魔虫になる娘さんを、どういった態度でしたか?」
「そ、うですね…あまり、面白くはなさそうでしたが、これといって邪険にすることはなく」
「貴女の前だけですか」
「ナラは私から離れることはないので」
難しい顔のまま質問をするフロルに、イクシアは意図が分からないのか怪訝な顔のままだったが素直に応じる。
「ところで、娘さんはタマネギやニンニクなどは食べられますか?」
「い、いいえ。ナラは幼い頃の私と同じ体質らしくて、全く受け付けません。母の日記にもそう書いてあったので、ブドウなども食べさせないように…あ、でも、私も大きくなって食べられるようになったので、ナラも大丈夫な筈です」
その言葉に、フロルはまるで石を飲み込んだかのような顔になった。ユリも鏡がないのでそこまでではないと思うが、おそらく渋い顔をしているのは自覚があった。
獣人の中には人族と見分けが付かない程似ている者もいるが、やはり異なる種族だ。その為、体質なども大きく違う。それに人族との混血はどちらの血を強く引くか、その割合によって大きく違って来るのだ。イクシアとナラティは親子だけあって体質は良く似ているのかもしれない。しかしそれでも別人である以上、全く同じではないのだ。イクシアの父がどの種族の獣人かを知っていた彼女の母親ならば正しい対処も分かっていたかもしれないが、それすら知らないイクシアが自分と同じ対応をナラティにすることは決して正しいことではない。それはこれまでが幸運だっただけで、一歩間違えば取り返しのつかないことになっていたかもしれないことに彼女は気付いていなかった。
ナラティの成長具合や身に付けているもの、髪や爪の状態を見れば、イクシアが子供には不自由がないように心を砕いて育て来たのは一目で分かる。しかし自分のことを後回しにしたばかりに、獣人の知識、混血への理解が決定的に欠けているようにしか思えなかった。
「先程、強引に吐かせたところ、吐瀉物の肉の中に明らかにネギ類が混じっていた。それからおそらくソースに使用されていたと思われるニンニク臭もしていたな」
「そんな…だって、ナラは絶対食べたがらないのに!」
「しかしこれまでに、調味料や煮込みの煮汁の中に溶け出したものを誤って口にすることはなかったか」
「それは、以前に何度か。ですが、その時はすぐに水を飲んで吐き出すように、と」
「嫌がっていた」
「え…?」
「明らかに吐くことを拒否していた。その為そこの彼女に手伝ってもらって少々強引に吐かせたのだよ」
フロルの言葉に、イクシアは見る間に真っ青になって行った。そしてブツブツと「ナラにはちゃんと塩だけで焼いた肉を用意したのに」と自分に言い聞かせるように何度も呟いていた。
「貴女の子供が食べているところを、貴女自身見ていたのか?」
今日イクシアがフィルオン公園に来たのは、強引にデートに連れ出そうとしていたノリガル男爵令息の話を聞いた見張りの者が、使用人達の息抜きも必要だと上手く誘導して複数を同行させて、人目の多い開けた場所に出先を設定してくれたからだった。
使用人達の息抜きと称してはいるが、雇い主の息子がいる以上は彼の世話をしなければならない。ドカリと座り込んでワインを飲み続ける彼に、焼いた肉やキノコなどを提供する為にイクシアも他の者と一緒に作業していた。一緒に来ていたナラティは、イクシアの言うことをきちんと聞いて火の側には近寄らずに目の届くところで花を摘んだりしていたのは見ていた。
「一度だけ…ノリガル男爵令息様が私にワインを選んで来いと…」
酒を扱っている場所は少し離れたところにあるので、イクシアはナラティをどうしようかと思ったが、幼い子供を連れて酒のある場所へ行くのは抵抗があった。それにナラティは普通の子供よりも鼻が鋭いこともあって、一番気を許している年嵩の女性使用人にナラティを見ていて欲しいと頼んでその場を離れていた。
「途中、何人かが体調が悪くなったと騒ぎになり始めていたところだったので、私は心配になって戻りました…そうしたら…」
「娘さんが倒れていた?」
「はい…真っ青な顔で、汗を流して…」
ナラティを頼んでいた使用人も、気分が悪くなったようで蹲っていた。そしてそのまま騒ぎになって、今の状況になったそうだった。
「娘さんが食べられないものがあるというのは他の者も分かっていた?」
「ええ…間違って口にしないように」
「そのご子息も?」
「はい…ま、まさか…!?」
「それは分からない。娘さんが話が出来るようになって、それと周辺にいた人間にも話を聞いてからになるだろう。その辺りは警邏の担当だ」
イクシアもさすがに可能性に気付いて、カタカタと目に見える程震え始めた。周囲の者達はナラティがタマネギやニンニクが食べられないのは知っていた。その為イクシアはわざわざ違う網でナラティ用の食べ物を焼いていたし、味付けも塩だけだった。ナラティも他の者が食べているものに興味は示すが、本能的に自分に良くない物を嗅ぎ分けるのか口にすることはなかった。
それなのにナラティは禁忌の食べ物を口にしていた。誰かが食べさせた、それも強引な手段を使ったとしか思えない状況だ。
そこから考えられることに、イクシアはようやく自分と娘の置かれていた立場を自覚してゾッとしたのだった。
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『ゲイル様、神殿から迎えが参りました』
「分かった。運ぶのは五名だ。付き添いがいるなら同乗できるのは血縁者か配偶者のみだと伝えてくれ」
『分かりました』
フロルの手首に付けられているバングルから声が聞こえて来た。
「貴女も娘さんに付き添うだろう?」
「はい、よろしくお願いします」
「娘さんの話を聞くことが出来てからだが、貴女は今の場所には長くいない方がいいと思う」
「そうですね…そう、します」
フロルが呼吸が穏やかになっているナラティの顔を覗き込んで、起こさないようにそっと軽く額に触れたり呼吸の様子を確認する。それを見つめている横顔は、先程までイクシアに向けていた厳しいものではなく、随分と優しいものだった。
「私は、外を見て来ます」
「頼む」
イクシアも色々と一気に衝撃的な話を聞かされて混乱していたようだが、少し落ち着いたようだ。周囲を見回しても重篤な様子の患者も見えないので、ユリは外に出て神殿からの迎えを確認することにした。
ユリがテントの中から出ると、外の様子は随分と落ち着いていた。
(良かった…少しは役に立てたみたい)
サンバマッシュルームの変異種を発見できたおかげで、大半の体調不良者は回復したように見受けられた。これから鑑定魔法を使える者に診てもらって、問題がなければ家に帰れるだろう。
本当ならば今日はレンドルフと食事を終えた後にすぐに別邸に帰る予定だったが、大幅に時間を過ぎてしまっている。しかし見習いとは言っても薬師を志す以上は放っておけない事態だったので、理由をきちんと説明すればレンザも納得してくれる筈だ。
ユリは少しだけ日が傾いて来た空を見上げて、グッと両手を上に向かって伸ばした。
「!?」
その刹那、ユリは茂みの影から何かの黒い塊が飛び出して来るのを視界の端で捕らえた。
「貴様かあぁぁァァッ!!」
「ウィンドカッター!」
咄嗟にユリは風の攻撃魔法を放ったが、飛びかかって来た誰かの動きが速過ぎて目で追えず、闇雲な攻撃ではほんの少し相手の軌道を変えただけだった。
「お嬢様!!」
先に攻撃魔法を放ってしまったので、自身に掛ける身体強化が僅かに遅れた。それでも少しでも体を守る為に腕に魔力を集中させて顔と頭を庇ったが、勢い良く塊が突っ込んで来たため小柄なユリは弾き飛ばされてしまう。ユリの危機に気付いた護衛の誰かが声を上げたが、それよりも先にユリの体が宙に舞った。
「うぐっ!」
飛ばされた先は柔らかい土の上だったので大怪我にはならずに済んだが、それでもそれなりの勢いだったので強かに背中を打ち付けて思わずユリの口からうめき声が上がる。起き上がる前にユリを守るように正面にエマが滑り込んで来て、サティが背後から抱きかかえるように起こしてくれた。どちらも一瞬の行動で、ユリが襲われたと同時にすぐさま駆け付けて来たのだろう。ユリの耳元で「遅れて申し訳ありません」と悔しげなサティの声が囁く。
「お怪我は…何てこと…!」
ユリの安否を確認する為にエマが肩越しにチラリと振り返り、ユリの腕が服ごと切り裂かれて血が流れているのを見て顔色を変えた。
「大丈夫よ。皮膚を切られただけだから、神経には影響ないわ」
「ですが、お顔にも…」
「顔?」
痛ましそうな顔を向けるエマに、ユリは傷を負っていない方の手で何だか熱く感じる頬に手を滑らせた。
「痛…」
触れた瞬間、頬に鈍痛が走る。腕だけでは勢いを防げなかったらしく、頬にも被害が及んだようだ。しかし切れている感じはないので、打ち身程度だと判断する。
「離せっ!離しやがれ!!オレの、オレの家族を…!」
離れたところでは、黒髪の痩せこけた男が暴れていた。その上から押さえ付けるようにフェイが拘束しているので、これ以上襲って来ることはないだろう。年の頃は壮年から初老といったところに見えるが、痩せて顔色も悪ければ髪も脂っ気がなくパサパサに荒れているのではっきりとは分からない。肌の荒れ具合などから、不健康な生活を長年続けているのは一目で分かる。
「獣人…?」
フェイをはね除ける程の力はないようだがあまりにも暴れるのでフェイが容赦なく両肩の関節を外して、魔獣の革で作った頑丈なベルトで縛り上げていた。それでも痛みに強いのか、尚も暴れてもがいている。そして男の大きく開いた口から鋭い牙が見えて、ユリは腕の傷を押さえながらポツリと呟いたのだった。