363.イクシアの事情
テントの中に入ると、ユリが呼びに行っている間に用意したのかテントの天井からシートを吊り下げるようにしてナラティを他の患者から隔離するような形で目隠しがされていた。簡単なものだが、その中に入るとユリは微かに皮膚の上を走るムズリとした感触を察知して、フロルが防音の魔道具を設置してくれていたことが分かった。
「ナラ!」
おずおずとした様子でテントの中に入ったイクシアだったが、眠っているらしいナラティを見付けると小走りに駆け寄って側で崩れ落ちるようにかがみ込んだ。先程まで苦しんでいたのが、今は静かに眠っている。それを確認して安堵の息を漏らすと、イクシアの目が見る間に潤む。起こさないようにそっと指先だけで顔に掛かっている髪を避けるくらいに留めているが、微かに震える指先が彼女の心情をつぶさに表していた。
「大分落ち着いているので、急変はないと思う。が、きちんと診察してもらうのでこのまま中央神殿まで運ぶが、問題ないだろうか」
「は、はい…!ありがとうございます、ありがとうございます!」
「そこで確認しておきたいのだが…」
ナラティを起こさないように囁くような小声でやり取りをしていたフロルが、更に声を低くしてイクシアに顔を近付ける。
「娘さんは、獣人の血を引いているな?」
テントの中に、重い沈黙が落ちた。
フロルの言葉に一瞬で顔色を悪くして黙り込んでしまったイクシアに、フロルはその先を急かさずにただ黙って彼女の言葉を待っているようだった。
「あ…あの…それが、何か」
「獣人の種族によっては薬や食べ物に禁忌…摂取してはいけないものがあるのはご存知だろうか。確認しておかなければ、今後の治療に差し障ることもある」
「こ、この子は…ナラは、健康ですか、ら。これまでに、大きな病気、したこと、なんて」
「今のこの状況はどうなのか」
絞り出すような声でイクシアは答えたが、あくまでも隠そうとしている様子が見てとれた。それがフロルの治癒魔法士としての琴線に触れたらしく、急激に声が低くなる。醸し出す空気も更に重いものになり、イクシアもそれを察して肩の辺りが小刻みに震えていた。
「大体五歳程度とお見受けするが、あと二年何事もなく過ごせれば大丈夫とでも?それはただこれまでが幸運だっただけだという自覚はあるのか?正しい対処をしなければ、却って娘さんを危険に晒すということを考えたことはないのか」
ナラティは見たところ五歳くらいの年齢に見えた。この国では七歳前は神の国の住人で、人の世よりも神の国に魂が近いとされている。そして七歳を過ぎると魂は神の国からこの世に定着するということで、色々なことが大人になる準備に切り替わって行くのだ。それは子供向けではない魔道具を使えるようになったり、スライム粉の使用許可が出たりすることにもなる。貴族は社交を学ばせる為にお茶会に参加するようになったり、平民は誰でも通うことの出来る学校に入学する年齢だ。しかしそれはあくまでも一般的な区切りで、個人差で七歳からすぐにあらゆることが可能になる訳ではない。
「これまでに、熱などが出た時に解熱剤があまり効かなかったことはありませんか?薬局で購入できるのは人族用が基準になっています。獣人は種族に合わせて成分を変えているので、そうでなければ効果が薄くなるんです」
「それは…」
イクシアがフロルに怯えているように体を縮こまらせていたので、ユリは代わりになるべく柔らかい口調を心掛けて話しかけた。彼女がどんな環境にいたのかは分からないが、獣人であることを隠したいあまりに幼い子供が巻き添えになるのは見逃す訳にはいかなかった。
「神殿で魔力鑑定をしてもらえば自ずと分かってしまうことです。頼めば内密にしてもらえるでしょうから、早めに鑑定だけでも…」
「まだ、ダメなんです。まだ、寄付が足りないので、お願いできません」
「寄付が?」
「あの!この子が七歳になるまでには必ず何とかしますから!このことは誰にも言わないでください!あと二年あれば、どうにか寄付を工面しますから…!」
「ちょ、ちょっと待ってください」
感情が昂ってしまったのか声が大きくなってしまったイクシアをユリが慌てて押し止める。その声に反応してナラティがモゾリと身じろぎをしたので、イクシアもハッとして我が子を見つめた。幸いにも目が覚めなかったようでそのまま再び深く寝入ったようだ。
「あの…確かに魔力鑑定をしてもらう時に寄付をするのはよくあることですが、義務ではないですよ?それこそ何もしないことに抵抗があるのなら、火起こし用の小枝でも、裏当て用の端切れでも何でもいい筈ですよ」
「それは分かってます…でも、特別な対応をしてもらうにはお金が必要だって…」
「誰だ…」
「ひっ」
「そんなデマを言ったのは誰なんだ」
ユリがイクシアに問い質していると、そのやり取りを聞いていたフロルが地を這うような声で呟いた。見ると彼女の青い髪が風もないのにユラユラと揺れている。これは相当感情が昂った際に魔力が漏れ出てしまう現象で、フロルの整った顔が怒りの形相になっているのと合わせてまるで青い炎が立ち上っているかのような錯覚を起こさせた。その圧に押されて、イクシアが引きつった悲鳴を上げて思わず後ずさる。
「ゲ、ゲイル様!落ち着いて!落ち着いてください!彼女が怖がってます、と言うか私も怖いです!」
ついうっかりユリの本音が漏れていたが、フロルは何度か深呼吸をして気を落ち着けて、すぐに魔力の漏出は治まった。
「あ、あのですね、神殿はそんなお金は取らないんですよ。治療をした際には薬代とか治療費は請求されますけど、魔力鑑定は国の施策なので」
「え…?」
「ええと、その、イクシアさん、はどちらの区域にお住まいで?」
何だか話が通じていなさそうなイクシアに、ユリはどこから聞いた方がいいのか悩みつつ、取り敢えず住居から聞くことにした。大抵の人は、自分の住んでいる場所に近い神殿で魔力鑑定を行うことが多いからだ。
イクシアは、王都に隣接している伯爵領の中で、分家として一部の領地の代官を務めているノリガル男爵家で住み込みの使用人として働いているそうだ。そして魔力鑑定をしてもらう予定なのは、男爵邸の敷地内にある別邸を間借りした神殿だということだった。
「どこのノラ神殿のノラ神官だ」
ユリからするとそういう神殿もあるのだろうか?と思っただけだったが、フロルからすると有り得ないということだった。先程のような魔力の揺らぎはなかったが、今にも舌打ちでもしそうな不機嫌極まりない表情を隠しもしていない。
フロルが言うには、神殿はその土地を治める貴族とは密接な協力関係ではあるが、近すぎる場合不正の温床になりかねないので必ず土地と建物の所有者は神殿になると法で定められているそうだ。土地を領主から間借りした状態になっていては、領主との関係次第で地代を吊り上げられたり、勝手に売却して神官が追い出されたりすることもないとは限らないので、神殿で買い上げて一括管理しているのだ。それはあまり広く知られていないので、敷地内に神殿があるように思われることはあったとしても、男爵邸の別邸を利用することなどはまず有り得ないのだ。
「明らかな違法行為だ。よく今まで誰も訴えなかったな」
「…申し訳ありません」
「貴女が謝ることではない」
フロルの勢いに押し負けるようにイクシアが何故か頭を下げていた。側で見ていたユリは、イクシアの気持ちが少しだけわかるような気がした。
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イクシアの話を聞いていると、神殿に関する法について詳しくなかったユリでもさすがにこれはマズいのでは、と分かる話が次々と出て来た。フロルに至っては気を落ち着かせる為に、何度深呼吸していたか分からない程だ。
ノリガル男爵家では、使用人が怪我をしたり体調を崩すと別邸で間借りしている神殿もどきで治療するように命じられ、そこで渡される回復薬は給金から自動的に引かれるという。渡される回復薬は本物ではあるが、治療費と薬代の内訳が分からないままかなりの額が引かれるらしい。金額を聞いてみると明らかに高い設定ではあったが、少し特殊な治療をしたと言われれば患者は引き下がるしかなかったそうだ。
そしてそこの神官は、どうやらナラティを獣人の血を引いていると気付いて、魔力鑑定の結果を誤摩化すには高額の寄付金が必要だと耳打ちをして来たということだ。
「ノリガル男爵ご当主様は、獣人をあまり良く思っていません。もし発覚してしまったら、私達は追い出されてしまいます…」
「やはり先程の方とはお別れしたくないと?」
「え!?い、いえっ…その、あの…あの方とはそういった関係では」
ユリは先程のイクシアの隣にいた男性が「ノリガル様」と呼ばれていたのを思い出して尋ねてみた。しかし彼女は慌ててそれを否定する。その様子は、どちらかと言うと照れ隠しというよりも、本気で否定、もしくは拒否しているように見えた。
「あの…立ち入ったことを伺うのは承知の上ですが、先程の男性とはお付き合いしている訳ではないのですよね?」
「はい。あの方は私のお仕えしている男爵家のご子息で…その、私がまだ幼い子を抱えて働くのは大変だろうと、色々と気を配っていただいて…」
「お嫌ではありませんか?」
思い切って真正面から問いかけたユリに、イクシアはギクリと表情を強張らせて動きを止めた。返答はなかったが、その態度や表情で彼女の答えは肯定したも同然だった。
「何となく、ですけどそういう人、分かるんで。何て言いますか、変に舐め回すみたいな視線と言うか、態度と言うか。あの気持ち悪い感じが」
「……はい」
ユリもレンドルフと出会う前は、小柄なことで侮って来るらしく厄介な男性にやたらと絡まれた。見るからに気持ちの悪い態度や視線を向けて来る者は、分かりやすいのでまだマシだと思えるくらいだった。中にはいかにも親切で下心がありませんという態度を取って近付いて、人目のないところに来ると豹変するパターンも珍しくなかった。そのせいですっかり人間不信、特に男性に対して嫌悪感が激しく、ユリは一時期外に出るのも嫌になる程だった。
そんなユリを外に出られるように、レンザを筆頭に大公家の技術部門が全力で悪意や劣情を持ってユリに触れようとする輩を弾く装身具を開発した。そのおかげでようやくユリは再び外に出られるようになったのだ。
そして先程イクシアの隣に貼り付くように肩を抱いていた男爵令息は、かつて絡んで来た男達と似たような空気を纏っていた。さすがに偏見かとも思ったが、どうやら間違いではなかったようだ。
そんなものを見抜く経験値は好きで高くした訳ではなかったのだが、役に立つこともあったらしい。
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「母は、騙された、と言っていました」
改めてイクシア達母娘が何の種族かを問い質したところ、彼女は力無く首を横に振った。どうやらイクシアの父親は獣人だったらしいのだが、物心ついた頃には母が女手一つでイクシアを育てていた。その為父親の姿も、名前すら知らないそうだ。一度父親について聞いてみたのだが、普段は優しい母親が険しい顔で「騙された」と口にしたので、イクシアはそれ以上聞けなかったのだった。
その後魔力鑑定をしてもらった際も、母親が内密にするように手を回したのか「生活魔法を少しだけ使える程度」としか言われなかったので、イクシアは自分に獣人の血が流れているなど全く気付いていなかったのだった。
「私が学校を卒業する時に話すつもりだったのだと思います。卒業式の日に、お祝いと大切な話があるから、と言っていました」
しかしその日、買い物に出た彼女の母は、周囲十数名を巻き込んだ馬車の事故により不幸にも帰らぬ人となった。イクシアが悲しみの中で遺品整理をしたが、父親の手掛かりになるようなものは一切残っていなかった。ただ、日記には幼い頃のイクシアの食べられないものや、しては行けないこと、良く効く傷薬の種類などが細かく書かれていて、記憶にはないが随分と手のかかる子供だったのだと母の愛情に幾度となく涙したものだった。
やがてイクシアも少しずつ立ち直り、ある商家で働き始めた時にそこの総領息子と恋に落ちた。真面目に働くイクシアを皆は温かく迎え入れてくれて、幸せの中婚姻、そしてすぐにナラティを授かった。
「生まれたナラティは、全身に毛が生えた、明らかに獣人の特徴を備えていました」
まさか自分が獣人の血を引いているとは全く知らなかったイクシアは動揺し、それ以上に夫も狼狽えた。そしていくら違うと訴えても夫はイクシアが獣人と不貞をしたのだと思い込んで、家に戻らなくなった。婚家もイクシアに疑いの目を向けたが、これまでの働きと子を産んだばかりの女を放り出しては世間体が悪いと、彼女が動けるようになるまでの半年間は半ば軟禁のような扱いだったが追い出されずに済んだ。
さすがにイクシアも自分の名誉を回復したとしても婚姻を継続することは無理だと理解したので、幾許かの金銭と引き換えに離縁状にサインをしてひっそりと婚家を後にした。婚家を出る頃にはナラティの全身を覆っていた毛もなくなり人族の赤子と変わらない姿になっていたのも、母娘を追い出すのに抵抗がなかったのかもしれない。
その後しばらく経って、イクシアと入れ替るように元夫は恋人を連れて家に戻ったと耳にした。その頃には、話を聞いてもイクシアは何も感じなくなっていた。
幼子を抱えての仕事を探すのはなかなか難しく、しかもナラティは普通の子供に比べて食べられないものや触れられないものが多かった。それは亡き母の日記に書かれていたイクシアの子供の頃と同じ症状だったので、それを確認しながら慣れない子育てに必死な日々を過ごした。
「とうとう元婚家からいただいた蓄えも尽きて、途方に暮れていた時にノリガル男爵様から…いいえ、ご子息の口添えがあって住み込みで使用人として雇っていただけることになったのです」
「…それは、愛人としてではないのか?」
ボソリと呟いたフロルの言葉に、イクシアは否定もせずにただ目を伏せただけだった。